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イエスタディをうたって~ノスタルジーは古びない。2020年4月~6月

 美しい場面構成、すばらしい演出、原作の後半をバッサリ切ったのもよい。これが完全版「イエスタディをうたって」だ。原作者冬目景の世界を見事表現してくれた。声優さんたちも実にいい。ハルなんて想像通りだ。1998年の時代の空気が蘇る。物語内の時間は一年だが、単純に17年も完結にかかってしまったからだ。
 
 フリーターの陸生はカラスを連れた少女、ハルに付きまとわれる。陸生はといえば高校教師になった大学時代の友人、榀子に片思いを引き摺っている。一方、榀子には既に亡くなった愛する人がおり、その弟、湧に想われている……四角関係のはじまりだ。社会のはみ出しモノと自嘲していた陸生は品子に追いつくため変わっていく。
 
 モラトリアム、青春の後片付け……がテーマである。私はネットの評判などどうでもいいのだが、本作に対して黴の生えたトレンディドラマだ、という批判が猛然と湧き起こり、まったく腹立たしいことに海外勢が高く評価しているのはおかしい、工作している、という極端な反発さえあった。
 1998年だから映画の待ち合わせをしてすれ違ってしまう。
「なぜ携帯で連絡しないの」 ないんです! 携帯が!
 榀子も陸生もなんとなく相手が気になり、偶然を装ってアパートやマンションの前で出会おうとする。
「これってストーカーですよね。犯罪だ」昔の若い男女はこうしたものなんです!
 
 宙ぶらりんの陸生。「やりたいことがないから」でフリーターが許された時代。だが猶予の時間は待たない。次第に写真の仕事に向かう陸生。陸生にはロールモデルとして大学時代の友人、福田が存在する。福田は恋愛→就職→結婚の三点セットレールにきちんと乗っている。そして、メガドライブをやりに陸生の部屋を度々訪れる。「結婚する」「お前が品子に告白できないのはフリーターで引け目を感じているからだ」と耳に痛いことを言ってくれる。また何より陸生の側にいて、陸生を引っ張りまわすハルが居てくれる。
 
 榀子は社会的には文句のつけようもない安定した人生を送っている。だが。恋愛できない症候群にかかっている。想い人の死を桜に重ねてしまうから品子は桜を見上げられない。鬱病をわずらったことのある歴史学者の与那覇潤先生が、桜を見上げられない人もいていいじゃないか……とコラムを書いていたことに狂喜した。桜は死と過去への憧憬のメタファーである。
 
 高校中退のハルはミルクホールという渋い喫茶店でバイト生活を満喫しているが、再婚した母の家にはあまり寄り付かない。「愛とはなんぞや、リクオ」と言いながら、軽やかにカラスと共にあちこちに出没し陸生を振り回すが、鬱屈を抱えている。
 
 絵を描き続け、美大を目指す湧は榀子の心を独占している死んだ兄に勝たなければならない。姉としての榀子に甘えるそぶりを見せながら、オレを男として見てくれと叫ぶ。まことにうっとおしい愛すべきガキ。
 
 桜のシーンや梅ヶ丘や豪徳寺の商店街の細かな描写、そして当時存在してはおかしいのだが小田急線の高架が深刻な葛藤のシーンで描かれる。コンクリートの巨大な高架は青年たちに立ちはだかる壁のメタファーだ。
 
 一つ一つの仕草が愛おしい。あえて口を噤む。沈黙の間合い、間を見事に表現している。一つ例をあげる。修羅場のシーンだ。

アパートの階段の踊り場

ハルに黙って付き合う陸生と榀子。ベーグルサンドを差し入れにきたハルは紙袋を手を放してしまいそうになる。すっと陸生の影に隠れる榀子の狡さ、弱さ。ハルは表面上祝福してやるが悔しさを堪え切れず、涙を滲ませる。

涙を滲ませるハル

子供のハルが耐え、大人のはずの榀子が子供のように逃げ惑う。いつまでも過去を引きずり陸生を惑わす魔性の女は大人になりきれない子供。アパートの階段をうまくつかって一場のドラマを見せている。
 
 陸生の迷うことや躊躇うこと、回り道すること、悩むこと、榀子の立ちすくむこと、弱さや狡さ、ハルのひとりで考えること、ゆっくり自分を他人との愛を育もうとする若者たち、そういうことが許された時代のすべてがこの作品に込められている。恋愛が、人が人を好きになることが若者を成長させた。若者にとって恋愛が必須の教養科目だった。恋愛はモテとは違う。バブル崩壊後、はじめて認識されたのではないか。
 
 人の思いは正確には伝わらない。伝わらなくてもいい。言葉は伝えるためだけの手段ではない。ノイズだらけで言っている側から変わる。回る流れ変わる。ラスト、陸生は勘違いかもしれない~だけど、と自覚し、新たな行動を起こす。そう、すべては勘違い。恋愛も仕事も勘違い。だが、それでいい。そのまま走れ、陸生。
 
 20年後の今、陸生やハルはどうしているだろうか。結婚して子供に手をやいているだろうか。湧は、榀子はどうなっているだろう。福田夫妻は。柚原は、バンドのキノシタさんは。ミルクホールはまだやっているかしら。みんなみんな元気で幸せでいてほしい。
 この時代ではそれは難しいかもしれないが。イエスタディをうたっての登場人物は、とりもなおさず、私の数少ない貧弱な人間関係上、それでも先方が赦してくれれば友達と呼べるような人々そのものだ。もう音信普通になってしまった人々と夢も希望も恋愛も幸福も共有していたのだ。今も幸せでいてほしいとは思うがある人は精神病院に入ったり、また自殺の噂のある人もいる。これが現実だ。今は逝きし世の面影を悼むことしかできはしない。よい理想をもっていた時代を少しでも知っていて、その時代を表現してくれた作品と出会えた。たいへんに幸せなことであろう。友よ、それでよしとしようではないか。
 
 忌野清四郎、RCサクセションのイエスタディをうたってがEDに唐突に流れた時、涙が溢れた。私の友だちがカラオケで得意になって歌っていた曲だったから……イエスタディをうたって、というリフレインが多すぎるじゃんよ、と誰かがまぜっかえしていた。
 
 ダイヤモンドは砕けない。ノスタルジーは古びない。

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