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ブッダの瞑想法−−10日間の心の手術 2009/09/16〜27[day3]

■9月19日(土)

 修業3日目に入った。いつものように4時に起きて、4時半から瞑想スタート。意識を鼻の辺りに集中させるが、やはり感覚は何も感じない。眠気はそうでもないのだが、足が痛くてすぐに組み替えたりして、じっとしているのが苦痛になってきた。半分くらいの時間は、膝を抱えてうずくまっている状態が続く。コオロギなどの虫の音が響くなか、静かに夜が明けてゆく。その一方、薄暗い瞑想ホールにいる自分の心は闇に向かっているようにどんよりしている。6時ごろから詠唱が始まり、生徒が唱える「サードゥー」の声を聞いて朝食に向かう。

 朝のメニューはだいたい決まってきた。はちみつトーストを2〜3枚とコーヒーが基本で、プルーンやバナナを煮たものがあれば、それを皿に少しとる。おかゆを一口よそってみたら、体が暖まって意外とよかった。
 8時からのグループ瞑想も、あまり集中が続かない。鼻の穴と上唇の間の小さな三角形に意識を置くが、鼻の入り口にかすかに空気の出入りを感じるくらいだ。感覚をまったく感じないことに落ち込み、どんどんネガティブな気持ちになってくる。
 昨日の段階で、左隣にいた人も帰ってしまったようだ。1日目にひとり帰り、2日目に二人帰り、次は自分の番かと思ってしまう。ただ、最初にこの地に10日間留まるという誓約書を書いているし、途中で帰っても空いているスケジュールでやることもなく、逃げ帰ったという事実だけが残り、もう二度とこの瞑想法にチャレンジすることもないだろう。
 自分は呼吸を使った瞑想法を習得したいのではなく、日常の中でできるヴィパッサナー瞑想を体験するためにやって来たのだ。鼻の下の感覚を感じなければ、その先のヴィパッサナーに進んでも何も得られないかもしれないが、とにかくどんなことをやるのか、落ちこぼれても最後までいることにしよう。

 グループ瞑想が終わり、しばらく瞑想していたが、集中できないうえ、感覚を感じないとネガティブな感情が押し寄せるので、やればやるほどダメだと思い、テントに戻って休むことにした。グループ瞑想の時間は全員が瞑想ホールにいなければいけないし、途中でトイレなどに出ることも許されていないが、それ以外の瞑想時間はホールに留まってもいいし、各自のテントで瞑想を続けてもいいようだ。ただ、ほとんどの生徒がホールで瞑想を続けている。
 テントに戻って、また鼻息を強くして感覚を探してみるが、昨日と同じように変わりがない。鼻の穴から出ていく空気は上唇には当たらずに直接出ているような気がするが、手で鼻を覆ってみても、手のひらの皮膚に当たる感覚はあっても、顔の皮膚に当たる感覚はない。こうなると、風は当たっているはずなのに、感覚を感じていないということになる。

 11時から昼食の時間。食事をするときは窓側にあるカウンターに座り、隣の人と目を合わせることもなく、ただじっと外を景色を眺めている。ここに来てからずいぶん時間が経ったと思っていたのだが、「第3日目」という表示を見てがく然とする。感覚的にはもっと長い日数ここにいる感じだ。よく考えてみると、朝4時の起床時間から夜9時半の消灯まで、17時間半もある。午前中だけでも8時間なので、通常の感覚であれば1日で2日分の時間をこの瞑想に当てていることになる。そうなると3日目のお昼は丸5日を終えたころで、自分の感覚と一致する。残り7日(実質14日)は、果てしない道のりに思えた。
 13時から14時15分まで瞑想したあと、14時半からグループ瞑想が始まる。鼻の下に意識を集中していると、目の前に鼻の頭のイメージができてしまい、それをじっと観察しているようになってしまう。意識の集中が思い浮かべたイメージに向かってしまい、自分の皮膚感覚にまったくつながらない。どうやったら自分の内側に意識を向けることができるのだろうか?
 15時半からの瞑想時間は30分ほどで挫折。テントに戻って横になる。17時のティータイムと休憩のあと、18時からグループ瞑想が始まる。とにかくもう、ただ座っているだけの時間が過ぎてゆく。ゴエンカ氏は、感覚を何も感じなくても問題ないと言うが、感覚を感じない自分の引け目ばかりが頭に浮かぶ。
 19時から講話が始まった。瞑想の修業はつらい時間だが、この講話はブッダの教えをわかりやすく伝えてくれるし、一日の終わりに気を紛らわせてくれる。

 三日目が終わりました。
 明日の午後には、八聖道の第三の領域であるパンニャーに入ります。

 パンニャー(智慧)には、八聖道のうち、正しい思考と正しい理解が含まれる。また智慧には三つの成長段階があるという。最初はだれかの話を聞いたり、本を読んだりして得る一般的な智恵、知識。次に、得た知識を自分の頭で考えて理解する段階。ブッダはさまざまな宗教や哲学を学び、ありとあらゆる修業を行なったものの、そのすべてが頭で理解する段階までしか到達できないことに気づいた。そして自分自身の経験、体で理解する本物の智慧を得る方法、ヴィパッサナーにたどり着いたのだ。
 例えば、病気になって医者に行ったときに、薬の処方せんを書いてもらう。医者を信頼しているので、家に帰ってから処方せんの言葉を読み返してみた。これが第一段階。次に、処方せんに何が書いてあるか詳しく説明してもらう。なぜその薬が必要なのか、どのように作用するのかを聞いて理解する。これが第二段階。最後に、その薬を飲んで、病気が治る。薬を飲まないで、頭で理解したままでは解決にならないのである。

 みなさんはこのコースに、薬を飲むためにやってきました。
 自分自身の智慧を育むためにやってきました。
 薬を飲みなさい。自身で体験しなさい。
 そして、真実を理解するのです。

 仏教用語に「諸行無常」という言葉がある。この世にあるものすべては常に変化するものであり、一瞬といえども同じものは存在しないという意味だ。お遍路を歩いていたときは般若心経を何度も唱えていたので、その意味はなんとなく理解していたが、実感はあまりなかった。
 例えば電球は燃焼と消滅を繰り返しているのに、それがすごいスピードで連続しているために消えていることがわからない。川の流れを眺めているときも、水はどんどん流れているので同じ瞬間はないということも忘れてしまう。
 ゴータマ・シッダッダは、ありとあらゆるものが生まれては消えていくという事実を、自分の体を観察することで突き止めたという。原子よりもっと小さな八つの素粒子があり、物質を形成する土、水、火、空気の四つの要素のうち、二つの特徴を持ったものが現れる。最近になって科学でそれが証明されたようだが、ゴータマはヴィパッサナー瞑想を通して、この素粒子のさざ波が生まれては消えていくという事実を解明したのである。
 人はだれでも、私の体、私の考え方というように自我を持っている。ところが、自分の体だと思っているのに、自分の意志や願いとはかかわりなく、たえず変化し、衰えていく。自然の法則に従って生きている体に、自分の意識が間借りしていると考えたほうがいいのかもしれない。
 空にはさまざまな風が吹く。東から西へ、北から南へ。ほこりっぽい風があれば、きれいな風もあり、冷たい風、熱い風、激しい風、そよ風というように、いろいろな風が吹く。空を見上げれば、すべては生まれて消えていく無常の世界がよくわかる。
 「諸行無常」が理解できるようになると、自分の体というものは存在しない「無我の境地」に達する。ところが、たえず変化していて支配することのできないものを、つかまえていよう、放さないようにしようとするとき、苦しみが始まる。
 講話のあとの瞑想で、これまで何も感覚を感じない人がいたら、30秒ほど息を止めてみなさいという指導があった。試しにやってみると、上唇の端のほうがピクピクと動くのがわかった。これが、これまで感じたことがなかった感覚なのかと素直に喜ぶが、考えてみれば苦しくなればどこかがピクピク反応してもおかしくない。
 明日の午後、いよいよヴィパッサナーの修業が始まる。皮膚感覚が得られないままでいいのかわからないが、僕にとってこれからが本番だ。期待と不安を胸に抱きつつ、21時過ぎに眠りについた。

イラスト|マシマタケシ

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