グラジオラス 2.檸檬の住処
「もう、俺はどうすれば良いのか分かったよ」
またこの夢か。真っ青な晴天の昼下がり。彼と一緒に最後の言葉が目の前でぶら下がる。そんな光景がもう何度もフラッシュバックして浮かび上がる。時々、うなされて目が覚めると涙が溢れていた。
私はこの頃から夜と雨が降る日だけを自然と好むようになっていた。
インターホンが鳴る音で無理矢理起こされた。ぐしゃぐしゃになった髪を一つに束ね、覗き穴を覗くと向こう側に奏太が立っていた。
「今、開ける」
ドアを開けると私がよく行く駅前の小さなケーキ屋「アサガオ」の箱を持って、ニヤニヤしながらこっちを見ている。
「葵ちゃん、これ好きでしょ?食べたら早めにスタジオ行こう」
どうせ何も予定なんてないでしょ?と言わんばかりの目に私はいつも不機嫌になる。
「また来たの?入れば?」
「お邪魔しまーす」
出会った次の日から、奏太は私の住んでいるアパートへ遊びに来るようになり、いろんな音楽の話をしてくれたり私にギターを教えてくれたりするようになった。一人暮らしをしている女のアパートに出会った次の日に来る男なんて一番嫌いなタイプだと思っていたけれど、不思議と奏太に対しては同性のような感覚があり、全く警戒心はなかった。
「ねえ、奏太はいつから曲を作っているの?」
「え? 中学生くらいかな。結構、無意識」
「へえ、凄いね」
「は? 全然凄いと思ってないでしょ? 適当だなあ。もう早く準備しなよ」
ケーキを食べながら、たわいも無い話をして自然体な普通っぽい自分になんだか違和感がありながらも嬉しかった。そもそも私が思い描いている普通って何なんだろう。そんな事を考えながら、お気に入りの古着に着替えてスタジオへ行く準備をした。
外に出るともう日は沈み、ここ最近だいぶ日光を浴びていない事に気付いた。そういえばこないだバイト中にてっちゃんとミキタさんと雑談をしていて、こんな事を言われた。
「夜に仕事する生活なんて今や何も変じゃないよ。むしろそれが元々自分の自然体だからなぁ。そんな夜感覚の我々がいるから社会はうまく回ってるのさ! プラスに考えよう葵ちゃん」
「ほんまやでアホやな。いいか、世の中全員が夜寝る生活しとったら世界は終わりや。なーんも面白い事なんて生み出せへんし個性死にまくりや。だから俺のネタは生きてる。一回俺のネタライブ見に来いや」
若いのに日中は外に出れず引きこもっていて可哀想だわ。なんて批判をされながら十代を過ごした日々に嫌気がさし、普通じゃない自分が悪いから仕方がないと思っていた私に、笑いながら話す二人の言葉には度々救われている気がする。
私にとって奏太もそういう存在の一人だと気付いてはいたけれど、また何かちょっと違う緊張感が彼に対してはあり、それがなぜなのかはっきりとはわからなかった。
私のアパートから10分くらい歩いて音楽スタジオ「chopper(チョッパー)」に着いた。
「なぁ、このスタジオの名前つけた奴って絶対ベーシストかワンピースに出てくるチョッパーが好きかどっちかだよな?」
いつかのスタジオのロビーで知らないバンドマンがそんな会話をしているのを聞いて、そうなのかなと馬鹿みたいに真剣に考えたのを思い出してニヤけてしまう。
一歩扉を開けて踏み込むとそこは、ピアスだらけのカラフルな髪色の人。その逆に黒髪眼鏡の暗そうな人。曲の構成を討論してる人。その横で缶ビール片手に眠そうな人。壁一面に張り付くされたツアーポスター。速度制限がかかってSNSがなかなか見れない部屋。錆びついた煙草の吸い殻箱。ほとんど同じ物しかない自販機。へこんだマイクに使い込んでボロボロのアンプやスピーカーやスタンド。
それぞれ存在感はないが、少しずつ刺激的な味が染み込んで無くてはならない存在になるか、いらないと捨てられるかの不安定な感じが、まるでジュースやカクテルにちょこんと添えられてる酸っぱい檸檬のようだった。
「じゃあ檸檬って、夢そのものなのかもね。不安定ってさ、悪い事ばっかりでもないと思うんだ。むしろ予想外な可能性と刺激だらけ。本当確かに檸檬みたい」
奏太が私の話を聞いてそう言った時、今まで感じた事のないこの不安定な異場所がたまらなく好きだと思えた。
「お疲れー。遅れてすまん、雨降ってきちゃってさ」
スタジオの部屋でセッティングしていると慌ただしくベースのレミちゃんとドラムの村岡がびしょびしょに濡れた傘とスニーカーで入ってきた。
「もう早く準備して始めるよー」
なんだか心地いい湿気臭さとにわかな木の匂いの中で、いつしか私は檸檬になった。
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