グラジオラス 3.朝焼け

 「今、きっと同じ空を見ている」
例えばこんな風に感じて自分も頑張ろうと誓った人は、この世には意外と沢山いる気がする。
 繋がっている全てのものは奇跡的。
それが孤独に生きる人達の力に変わる瞬間、あなたに出会った事がこんなにも大切なんだと気付いた。どんな形でも、私の中でずっと一生死ぬまで忘れる事はない。

 朝焼けが綺麗な橋を自転車で走り抜け、自転車カゴの中のバイト終わりに買った缶ビールがカタカタと揺れる音を聞きながら、私は少し眠気に襲われていた。アパートに到着して、眠い目をこすり缶ビールを勢いよく開けた。一口だけ飲み、おもむろに上着のポケットから携帯を取り出すと鬼のようにミキタさんからの着信があり、一気に眠気が覚めてしまった。
「あ、もしもし。お疲れ様です」
「やっと出たわ。お前今どこにおる?」
「家ですけど…何か私やらかしました?」
「いや…てっちゃんが休憩に出たっきり戻ってこうへんねん。携帯には一応かけたんけど、何か知らん?」
「え?…いやわかりませんが、ちょっと私からも連絡してみます」
通話終了ボタンを押して、急いでてっちゃんの携帯にかけたが出るはずもなく、片手に持ったままの缶ビールが妙に重く感じた。意味もなく部屋を歩き回りながらてっちゃんが行きそうな場所を片っ端から考えてはみたがどれもピンとこなかった。
 とりあえずジェリーへ戻ってミキタさんに詳しく事情を聞こうと、自転車に乗りさっきと同じ道、同じ景色を見ているはずなのにまるで違う感覚に動揺していた。朝日が眩しく突き刺さる様な光と感情から目を背けたくなくて、私はひたすら前を向いて自転車をこぎ続けた。

 ジェリーに着き、急いで自転車から降りてミキタさんがいるフロントまで走った。
「まだ戻って来ないですか?」
突然飛び込んできた私にミキタさんは驚いた顔でため息混じりに台帳整理を続けた。
「なんや来たんか。戻ってこうへんて。てっちゃんの事やからなんか事情があるんやろ。大丈夫やて、支配人もあとから行く言うてるし今日は俺一人でなんとかなる」
ミキタさんは意外と冷静で、息を切らせ駆けつけた私はなんだか落ち着いたのか腹が立ったのかよくわからなくなり、涙が溢れてきた。
「え?おい!何なんだよお前は。全くどいつもこいつも」
そう言いながらティッシュ箱とお菓子の入った箱をドンっと私の前へ置き、煙草と店の子機を持って喫煙所へ出ていった。
ティッシュ箱とお菓子箱。まるで私の事は子供扱いだ。ミキタさんが戻ってくる間フロント番をしていると、遠くのテーブルに置かれたミキタさんの携帯液晶画面がパッと点いた。こっそり覗いてなんとなく開くと、てっちゃんへの発信履歴でいっぱいだった。
 前から気付いてはいたが、ミキタさんは表面上では人に対して凄く不器用だがその裏でとてつもない愛情を注ぐ人だ。ヒーロー気取りなふりをする時もあるが、それは多分無意識で自分の調子を狂わされると弱い。
「そういう所が凄くいいよね彼。きっと女の子にモテすぎて苦労するだろうなぁ」
「いやいやあの性格、ミキタさんと付き合う女の子の方が苦労しますよ」
そういえば前に休憩中、てっちゃんと笑いながらこんな話をしたのを思い出してますます涙が止まらなくなった。
そうしているうちにミキタさんが喫煙所から子機を回しながら戻ってきた。
「てかまだ泣いてるんかい!いつまでそうしてんねん」
「ミキタさん…何があったんですか?」
詳しく事情を聞こうと私はミキタさんに恐る恐る問う。
「だから知らんて!探しに行こうかとも思ったけど、そんな焦ってもあかんしな。まぁお前が悪い予測してるのは見え見えやけども、俺はてっちゃんやから大丈夫やと思ってる。以上!」
そんな事を言っているが一番心配してるのはミキタさんのくせに強がってばっかりだなと思ったが、口に出してしまえば余計悲しくなるのでとにかく今はグッとこらえて、てっちゃんからの連絡をひたすら黙って二人で待っていた。
「もうええから、帰らんならそこのソファで寝とけ。連絡来たら起こしたるから」
寝れるわけもないが、とりあえずソファで横になって気持ちを落ち着かせる事にした。あれからどれくらい時間が経っただろう。しばらくして支配人が汗を拭きながら入ってきて、ミキタさんと何か別室で話をしていたが私は起きる気力も失っていた。
ふわふわと漂うホコリ、扇風機の羽音がするだけの部屋が今はなんだか心地よい。

「葵ちゃん、葵ちゃんっ」
ふと目を開けると、てっちゃんが立っていた。びっくりして飛び起きるとそれを見ていつもの様に笑っていた。
「どこ行ってたんですか?みんな心配してたんですよ!」
少しほっとした口調で話しかけたあと、てっちゃんは笑いながら私の背中をさすった。
「ごめんね。でも大丈夫だから安心して。今日は朝焼けが凄く綺麗でさ、思わずコンビニの帰りに立ち止まって写真撮っちゃったよ」
「なんで笑ってるんですか!とにかく無事で良かった。早くミキタさんのとこ行きましょう」
「そうだね」
本当に数分だけの出来事だった。

 「おい!おい起きろって!」
ぼんやりしたまま目を覚ますと、ミキタさんが立っていた。
「早く支度しろ!病院行くぞ」
上着を渡され何が何だかわからず起き上がった。
「あれ?さっきてっちゃん戻ってきましたよね?」
「何言っとんねん。とりあえず行くぞ」
私の手を勢いよく引き、少し震えた声で歩きながらミキタさんは話し始めた。
休憩中にコンビニから帰る途中、立ち止まっていたてっちゃんにトラックが突っ込みそのまま救急搬送され今は集中治療室にいるとの事だった。病院に着いたと同時に泣きながら待っている人達を見て、やっとこれが現実だと気付いた。あれは夢だったのか。そう思いながら、立ち止まって朝焼けの写真を撮っていた事はきっと夢じゃないような気がしていた。私が帰る途中、自転車に乗りながら朝焼けを見ていた時、てっちゃんも同じ朝焼けを見ていたんだと余計に嬉しくて余計に悲しくなった。今までに経験した事のないこの同時の感情を、一体何というんだろう。どうする事も出来なかった。
「煙草吸ってくる」
ミキタさんが喫煙所へゆっくりと歩いて行った。極端なガニ股に猫背、いつものその後ろ姿が今日はなんだか寂しそうで静かに後ろをついていった。
「なんや。ここ喫煙所やで」
ミキタさんが煙草を吸おうとしていたタイミングで私は目の前に立ち、掌を差し出した。
「えっと…煙草吸ってみてもいいですか?」
私を数秒見ながらミキタさんは自分の持っていた煙草とライターを静かに渡した。
「なぁ、吸いながら明るい話でもしよかー」
それから何時間経ったのか。てっちゃんが目を覚ますまで、今までで一番色んな話を二人で話した。きっとお互い泣いてしまわない様にだったが、ミキタさんがいてくれて本当に良かったと思った。
 人生で初めて吸った煙草の味なんてやっぱり全然良いものではなかったが、こんな感情や経験を私は忘れる事はなかった。
煙草の消し残しが灰皿から少し残って漂うだけの部屋を自動販売機の光が照らす。


 

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