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手放す、というか、手放さざるを得なかった展開から、今がある。

今日は「にぎりしめていたものを手放すことで、いまここまで来たんだな」という話。

僕の友人は、たまに長いメッセージを送ってくる。ニュース記事ぐらい長い。ニュースレター的に友人から送られてきた「デザイナーの矢萩喜従郎さん」の言葉から、反射神経的に浮かんできたことを書き残しておくことにした。

矢萩喜従郎:1952年2月25日生まれ。東京学芸大学卒業、桑沢デザイン研究所卒業、早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。グラフィック、エディトリアル、サインをはじめとするデザイン領域から、写真、アート、彫刻、建築、椅子・家具、照明、評論、出版等を手がける。慶應義塾大学理工学部非常勤講師、早稲田大学非常勤講師を務める。

幅広い活躍をしている方。写真や建築の活動を始めたのは、40歳を過ぎてからというからスゴい。

そんな矢萩さんが44歳のときに雑誌『アイデア』に書いていた文章を、友人が送ってきました。

タイトルは「新しい自分の輪郭」

我々は、偶発的にハッとし息を呑む出会いに直面したり、ある人との会話に出た言葉が、自分だけでは解法を見いだせずいつも気になっていたことに結びつき、それまでおもいもよらなかった解法を見つけるということがある。

あ、そうか、こう考えれば解けるのか、と。

このようにして自分の思考に閉塞をきたし、そして自閉的になる危険性から逃れられたのも、ある場所、ある人物、他人によって呈示されたある言葉等、つまり「他」からの活力と呼べるものによってなのだ。

閉塞しかけていた扉が「他」からの活力を得て、私という輪郭が鍛えられ新しい自分の輪郭として立ち現われてくること。

それははじめおぼろげかもしれないが、いつしかゆっくりと時を加えていくことによって、自分自身の内側にもまた他者にも確固としたものと認められるまでになるのだ。

というのも輪郭の概念が明確になり、力強さが加わるからだ。

いつの頃からか判然としないが、自分の輪郭について考えるようになったそののちに、行き先に目標を設定しない行脚に憧れを持ちはじめている自分に気づいた。

閉塞から逃れ、自在性を維持するには、自分を漂わせられるかにかかっていると識り得たからだろう。

思いがけない考え方や見方を萌芽させる可能性は、必ずや自分を漂わせる中で育まれるのだから、私は獲物が前を通り抜けていくときも見逃さないような精神にしておくこと、つまり「ディスポニビリテ」(=求められたときにすぐに応じられる状態にしておくこと)の必要性を意識せざるを得なくなったのだ。

物質であれ、人であれ、書物であれ、私は降りかかってくる「他」からの活力を身体全体で受けとめたいと願う。

新しい自分の輪郭の到来も、おそらく「他」からの活力に負うところが多いのだから。

少し整理しよう。

・行き詰まったり、閉塞感を感じているときに、「あ、そうすればいいのか」と気づくキッカケは、他者から来る。

・閉塞感から逃れて、自分の自在性、つまり自由さを持ちながら存在していくには、自分を閉じてしまわないで、自分を漂わせる必要がある。

といった内容。


自分を漂わせるって表現は、おもしろいなぁ。
この文章を読んでいて連想したのは「手放す」ということ。

握りしめているものを手放すと、手放したところにポッカリと余白が空いて、その余白に「他」が入ってくる。

余白になっていたからこそ、そこに入ってきたものを、たっぷりと十分に受け止めることができる。

じゃあ、余白を空けておこうと思っても、そうカンタンな話じゃない。

僕らはどうしても、いま、この手に握りしめているもの、今の生活・今の仕事・今の人間関係を、壊す・切る・離れるのは、どうしても怖いと感じてしまう。現状を維持しようとするホメオスタシスが働くから。

ホメオスタシスというのは、現状をできるだけ維持しようという機能。体温が36℃であるなら、38℃は異常な状態。異常な状態は危険なので、元に戻ろうとする生存本能、それがホメオスタシス。

現状維持をすることで、生き延びようとしているのだ。だからこそ、異常で危険な状態を避けようとするホメオスタシスを悪く言う必要はない。僕らを守ってくれているのだから。

でも、自分を楽しませるためには、いつ死んでもいいと思えるぐらい人生を楽しめるようにするには、自分を漂わせることが必要で、そのためには手放さないといけない。

手放さないといけないというか、手放したほうがいいということが自分でもわかってくる時期が来る。

飽きてきたりとか、しがらみが増えてきたりとか、気持ちが乗らなくなってきたりとか、そういう「手放して、次に行ったほうがいいんじゃない」的なサインがやってくることがある。

そのときに、実際に手放すか、手放さずにいるか。

それによって、人生に閉塞感が訪れるのか、自在性が生まれてくるのかの違いが生まれてくるんだろうなぁ、と改めて思った。

僕の場合は過去を振り返ると、

なんとなく「神の手」っていうイメージで、強制終了的に次の展開に行かざるを得ない出来事がやってくることが、これまでの人生で何度かあった。

それによって「あー、もうダメだ」と手放すしかない状況になって、エイヤッ!と手放したら、いったん大変な状況にはなるものの、

その先には自分がさらに楽しめる状況が待っていた、という展開があったなぁ〜と、この文章を読みながら思い返していた。

「どうやって、自分で、自分を楽しませるか。」

それが、生きる上でのテーマなのかもしれないな、と思ったのでした。

NETFLIXを見るのも、YouTubeを見るのもおもしろいけど、自分を楽しませるってのは、ちょっとまた違う種類の楽しさの話。

「#1ヶ月書くチャレンジ」に乗っかって、こうやって記事を毎日のように書いて、それが誰かに届いて、コメントのやり取りが生まれたりすることで得られる楽しさは、静かでじんわりとしていて染み渡っていくような感覚のもの。

さて、1ヶ月書くチャレンジも18記事目。

自分を、自分で楽しませるために、引き続き書いていこうと思います。

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