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血の通わない文章が書きたくて

外国人が意識高そうなテクノロジーを使っていたり、スーツをばっちりと決めているフリー素材の写真を見るたびに冷めた気持ちになる。

世の中には本当にきらびやかなものがあふれかえっていると思う。そこには、読み手のいる文章があって、写真の外側にはその笑顔を引き出したであろうカメラマンがいて、スマホを見ればつながりを通知する赤い印が埋め尽くされている。

人間の脳的にはつながることは正しいことであり美しいことである。

なぜ引力は誰でも知っているのに斥力は誰も知らないのだろう

たまには人を寄せ付けない文もアリなのではないかと思って、久々にキーボードをタイプしている。

しかし、一つ残念なことがある。「独り言」が書けない。

というのも、昔は誰に向けたものでもない、皮肉とも自責ともつかない文を書くのが得意だったからだ。世の中へのどうしようもないことへの憂さ晴らしや、うまくいかない人間関係へのいら立ちが文を書く言動力だった頃と違うようになってしまった。

人よりも無機質で非人間的なものが好きだった。特に、夜の道をドライブしながら見る高架線はえも言われぬ迫力を感じていたのを覚えている。男だの女だの言う前に、ホモ属のサピエンスのオスであり、メスだろうと、心の中で毒づいていたこともあった。努力や成功などの曖昧でふわふわとしたキレイゴトも好きではなかった。このルールはこうで、この数字を動かすにはこうする必要があり、その数字を達成することで…といった方が好きな時期もあった。

それから、伝わる言葉よりも、ある種伝わりづらい言葉を使うのが好きだった。ある種他人とのコミュニケーションを拒絶していたのかもしれない、と思う。

こんな粘着質な世の中だから

この種のいわゆる「独り言」は黒歴史として認知されやすい。斜に構えているが、社会性のない落ちこぼれが書いた文としてのレッテルがあまりにも多く張られるように感じる。

そもそも誰かに伝える能力だけを指してコミュニケーション能力が高いと賛美する気持ちがわからない。社会性がありすぎるのも、個体として無能だと言ってるようなものではないか。なぜ、常に他者と意思疎通していなければならないのだろうか。ダンパー数といって人間の脳は150人程度しか親密な関係を維持できないようにできている。

それくらいしかない限られた他人の資源を、こうもやすやすと奪うことが出来ようか。文学にあまり造詣がなく、無教養を晒してしまうが、突出している文学者は「独り言」がうまかったように感じる。つまり、自分自身とコミュニケーションをとる能力に秀でていたのではないだろうか。

他人から貴重な脳内のリソースを奪われないためにもこういう文章を書くことには意味があると思って書いている。

誰ともコミュニケーシが取れないのは残念だが、一人静かに自省しずらい現代もいかなるものか、と思う。

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