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「逃げること」と「帰ること」が育てるコロナウイルスの物語について。あるいは友人が作ったコミュニティへのお誘い。

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私の交友範囲は広くないのだけど、勝手に友人だと思っている一人が鈴木悠平さんだ。

「閒(あわい)」をテーマに、いつ寝ているのか心配になるくらいにいろいろな活動をしていて、日本最大の発達障害情報サイトであるLITALICO発達ナビの元編集長でもある。私は「ボクの彼女は発達障害」という本を出版していて、そのご縁で4年くらい前に知り合った。

鈴木さんはマイノリティーや困難な状況にある人の声を届けるウェブメディア「soar(ソアー)」の理事/ライターもやっていて、「いい記事しか書けない男」として(私の中だけで)有名だ。先日はクラウドファンディングサービスを運営するCAMPFIREの代表取締役で社会投資家でもある家入一真さんとのインタビュー記事をリリースしていた。

この記事では百戦錬磨の「逃げる男」としての家入さんが「逃げるの是非」を問うようになる過程が一つの軸になるのだけども、コロナウイルスの流行からこっち「逃げる」ことを考えることが増えている。

私達夫婦は二人とも複数の障害や病気があって、コロナの前から世間から逃げて「Stay at home」をしているのだけど、その世間もコロナ禍から逃げはじめて世界中は大混乱だ。

記事の中で家入さんは「ウサギがライオンに襲われたら、まずは自分を守るために逃げて、安全になって初めて次のことが考えられる」という例えを出して逃げることの「効果」を述べているのだけども、まさにコロナ禍というライオンに対して人間というウサギは(今の所)逃げるしかできない。

だけども、医療関係者はもちろん、物流スタッフや販売店の店員、インフラ関係者など感染に怯えながらも毎日出勤して仕事を続ける「逃げられない人たち」もまた多くいる。「逃げることができる」というのもまたある種の幸運でしかない、とも強く感じる。

私が昨年から在宅勤務をしているのも、無数のたまたまの重なりの結果に過ぎなくて、正直、「逃げよう!」なんて積極的な行動をとった結果ではない。だから、いまの世界で「逃げられない人」に対してとても申し訳なく思ってしまう自分もいる。

意図的に逃げると結果として逃げている、では大きな違いがあって、改めて記事を読むと家入さんもまた「結果としての逃げ」から「意識的な逃げ」を意識するようになったのかと思う。それを成長と取るか退化ととるかはまた違うのだろうけども、力のあるものは「逃げる」という選択肢すら往々にして与えられないものなのだろう。意識的に逃げることは、かくも難しい。

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私の交友範囲は広くないのだけど、勝手に友人だと思っている一人が清水舞子さんだ。元キャバクラ店長とかいろんな複雑な来歴を歩んでいて、現在はスタートアップ企業「祭」の経営者をやっている。

彼女とは1年くらい前に鈴木さんのイベントで知り合ったんだけど、傍から見ていてめちゃくちゃ危なっかしそうな人でついつい世話を焼きたくなるタイプだ。ときどき人生相談に乗ったり、文章の添削などをしている仲だ。

清水さんの危なっかしさは色々あるんだけど、一番怖いのは彼女は「逃げられない性格」ということだ。スタートアップ企業の社長というと、スマートに物事を成し遂げるイメージなのだけども、清水さん自分から傷ついてでも誰かを守っていきたい、という信念を捨てられない人だ。困っている人がいたら見捨てることができなくて、それで人生めちゃくちゃ苦労しているタイプだ。

今の日本は「お家にいよう」という大号令のもと、コロナウイルスという見えない爆撃機から身を守るために自宅に防空壕の如く籠もっている。でも、「家(ハウス)」が必ずしも「家(ホーム)」ではない。コロナウイルスからの逃げる先の「家」が逃げ場にならなくて、でも、どこにも行く場所がなくて死にたいほどのストレスを抱えている人は大勢いるはずだ。

実際、DVや児童虐待数は増えていて、私の家から歩いて20分くらいのところではコロナウイルスのせいで給与の減少を責められた夫が妻を殴り殺した、という事件も発生した。コロナウイルスは「逃げ場をどんどんぶっ潰してく」という恐ろしい性質を持っている。

そこで、清水さんはそういう辛さを少しでも吐露出来る場所を作ろうと#いつでもおかえりという家族とのストレスを共有するコミュニティを開設した。

正直、「またお金にならないことしてる!」と友人として心配になるのだけども、清水さんもまた「家(ホーム)」を何度も失っていて、そういう辛さを放置しておけないのだろう。

狡い大人になってしまった私にはその真っ直ぐさがとても眩しいのだけど、やはり心配なのですこしは家入さんを見習って少しは逃げ足を鍛えてもいいのだけど、と思う。

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「行きて帰りし物語」という言葉がある。お話の基本的な構造とは「ここから出てここへ帰ってくる過程」というもので、私が何かを書くときに強く意識している原理でもある。

家入さんはsoraの記事で「父親が自分を諦めてくれたことで逃げられた思っていたけど、実際は父親は一度も自分を諦めていなかった」という話をしていたけども、これは「父親」というところから一度「出た」のだけども、それでも心が父親のところに「戻った」という過程から「いい話」が生まれたのだろう。

人間、どういうわけか「家」から完全に逃げることは難しい。どこか「家」に戻りたい、という本能を持っているのだろう。だから家族というものはいつだって様々な物語の源になるのだ。

だけども、その「家」で語られる物語がいつでも温かいものとは限らない。そういうときは、優しい物語を奏でる別な「家」があってもいいはずだ。コロナウイルスによる家族の問題に対して清水さんが作った「#いつでもおかえり」が少しでもそういう場所になればと願ってやまない。

おそらく、健全な物語とは「逃げる術」と「帰れる場所」を同時に持つことではじめて成り立つものだ。「逃げる話」と「おかえりの話」の2つを眺めながら、このコロナウイルスからどのように「物語」を紡ぎ出すか、静かに考えるのだ。

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さて、もう夕方だ。今日のご飯はどうしようか。まったく、1日くらいご飯を作ることから逃げたいものだけども、妻にご飯を作らせると家が燃えかねない。簡単に炒めものでも作るか、と立ち上がると昼寝をしていた妻が下に降りてきた。

「おかえりなさい」と声をかけるとまだ寝ぼけているのか「ただいま」と言ってトイレに行った。私の「家」はここだな、となんかちょっとだけ嬉しくなった。

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。