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【釈明】障害者が綺麗事を投げ捨てるということの意味について

さて、本日は釈明である。

このようなツイートをしたところ、某所よりお叱りを頂いた。

曰く「障害者へ希望をもたせる仕事をしているところの社員が、ひたすら障害者が嘆くようなことを肯定することを書いてどうするのか。人の厚意の言葉をはねのけて距離を置いたらますます孤立するのではないか」ということだ。正直、「?」と思ったのだけども、話を聞いてみると、誤解を生みやすいところはたしかにあるとわかった。

これらのツイートは非常に「ブンガク」的であって、いろんな前提条件があることをふっとばして言葉の勢いで書いたものであるのである。なので、正確性がどうこう、というのは不本意ではあるのだけど、不要な誤解を招かないために、いくつか注意書き、というか真意の説明をしておきたいと思う。

まず、この引用した「とにかく泣き叫び、怒りをぶちまけて。迷惑とか恰好なんて考えなくていいから。」なんだけども、これは「若い人」に向けた言葉だ。

障害がある若い人が「生きることが辛い」というと、「そんな事言わないの!」「もっと障害が重い人がいるから!」という「口封じ」が即座に被せられることが多い。

引用元の「障がいは個性だ」「このからだに生まれたのには理由がある」「失くしたものより残されたものを活かそう」というのも、それ自体は本当に好意なのだろうけども、残念ながら「辛い」ということへの抑圧となることもある。

若い方は、まだ「上辺の言葉」も「本当の好意」も中々見分けのつかないことも少なくない。だから、一度はそういう「口を塞いでくる言葉」を周りの意図はともかくとしてすべて跳ね除けて「辛いんだ!」と叫ぶ自由を手に入れて欲しいと願う。そういう前提があって「とにかく泣き叫び、怒りをぶちまけて。迷惑とか恰好なんて考えなくていいから。」という言葉が輝くのだ。だから、この言葉は私にとってはとても力強い「希望の言葉」なのである。

とはいえ、これは若いからこそ「許される」ことでもあって、大人がずっと泣き叫び、そこから脱出できないことは、ご自身も周囲も果てしなく疲弊して行く道だ。言い方は厳しいのだけど「年齢」によって障害への向き合い方はやはり変わらざるを得ないのだろう。

ただ、私自身は、障害があろうがなかろうが、一度人生に絶望しきってからが本番だと思っている。私の人生観に強く影響を与えたのは作家の一人は坂口安吾なのだけど、「続堕落論」でこのように書いている。

堕落自体は悪いことにきまっているが、モトデをかけずにホンモノをつかみだすことはできない。表面の綺麗きれいごとで真実の代償を求めることは無理であり、血を賭け、肉を賭け、真実の悲鳴を賭けねばならぬ。堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。(坂口安吾 続堕落論

そして、文字通り、障害者として生きることは「堕落」であったし、鬱も発病して本当にどん底に落ちた。そこから少しずつ血を吐きながら(アルコールの飲み過ぎが原因の逆流性胃炎のせいだ)ここまで這い上がってきた、という自負がある。

そういう意味でも、「辛いことを辛いときちんと認めるためにあがく」というのは「正しく自分の人生を生きるため」のプロセスの一つであり、そこにあるのは「希望」である。私は一連のツイートで書いたことは徹底的に「希望」であって、「泣き叫ぶだけでいい」とは書いていないのである。「辛い」とまっすぐに受け止めることは、逃げではなく、地獄から爪をはぎ落として天国へ近づくための覚悟である。だから、このツイートを見て「障害は辛いままでいい」というのは(そう読み取るのは難しいかもしれないけど)違うのである。

「障害の受容のプロセス」というものがある。簡単に言えば障害があるという「ショック」を受けた後、「自分の障害があるなんてなにかの間違いだ」「嘘だ!自分は障害者ではない!」という「否認」がくる。だけども、否認しきれなくて、あとは「悲しみと怒り」に明け暮れる。だけど、怒りや悲しみから葛藤を繰り返して「適応」して、そこから「再起」していくというモデルだ。どの期間がどれくらいの長さになるかは人それぞれだし、受容のステージが進んでは戻ることもよくあることだ。そして、このモデルを見るたびに、私は堕落論の言葉を思い出すのだ。

10代という若い間に障害を意識するのは不幸なことなのだけども、障害受容のプロセスのうち「ショック」「否認」「悲しみと怒り」の3つを経験しておくことは、それはそれで一つの貴重な青春で、大きな成長の糧となるはずだ。そして、その成長には「口を塞ぐ言葉」を跳ね除ける慟哭が必要なのだと思う。それが素直に真っ直ぐに己の不幸を背負う道でもある、

もちろん、「大人」になってから障害を負うこともあるし、障害に気づくこともある。その場合も嘆きの時間はもちろん必要なんだけども、残念ながら若い人ほど「素直な慟哭」が難しいことがある。

下手に人生経験があるから、ネチネチグチグチしたものがずーっと続くこともある。下手に力も知識もあるから、まっすぐに堕ちられない。障害の受容モデルでいうところの「否認」や「怒り・悲しみ」がずっと続いてしまいがちだ。攻撃的な態度をとって孤立を深めることもある。

こういう場合は自分自身や家族や仲間だけでは解決へ難しく、専門職の心理的ケアが不可欠であるし、私に相談されても、普通にカウンセリングなどの窓口を紹介するだけだ。とても残酷なことだけど、人は年齢によって取らなければならない責任は変わってしまうことがままあって、私も若い人への言葉とそうでない人への言葉を一にしない。

だけども、いずれにせよ「障害」を真っ向に受け止めることは、自分自身のオリジナルな生き方を構築するための第一歩だ。一度どん底まで堕ちて、なんとか這い上がっている途中のどうしようもなく血反吐まみれの私でよければ、正しく堕ちる術くらいは教えられるかもしれない。「堕ちる」という希望を語る口くらいは、今ここに持っているのである。

というわけで、やはり「ブンガク」になってしまった釈明、ここままで。

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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。

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聴覚障害者兼サラリーマン兼フリーライター。著書に「ボクの彼女は発達障害」シリーズ(1.2)がある。noteでは「くらげ×寺島 発達障害あるある対談」を連載中!たまにいろんなコラムも投稿しています。

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