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新型コロナウイルスの憂鬱。あるいは二本足でこの日本を歩くということについて。

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世界中から音が聞こえる。アメリカからは新型コロナウイルスに感染した患者のうめきが。スペインからは誰にも看取られず一人ぼっちで死んだ遺体が焼かれる音が。イギリスからは突然家族を失った悲嘆に泣き叫ぶ声が。イタリアからは命がけで救命活動を続け疲れ果てた医者がロビーのソファーで立てるいびきが。日本からは内定が取り消されて明日を生きる希望すら失った若者のため息が。それらは、世界の歯車が少しずつ軋んでいく音。

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いつもと同じように夕食の支度をしていた。アメリカの小麦粉に溶いた国産卵を入れスイスのチーズを混ぜたあわせたものにブラジル産の鶏肉をくぐらせてイタリアのオリーブオイルで焼く。フライパンの上のインターナショナルだ。鶏肉が焼け、チーズが溶け、卵が固まるいい匂いがする。仕上げに上からスパイスを振りかける。そんなさなか、ラジオニュースから「新型コロナウルスの影響で世界的な食糧危機の恐れ」というありがたくないトピックスが聞こえてきて、私は顔をしかめた。

私が生まれた東北地方は昔から飢饉が起きやすい地域で、特に「天明の大飢饉」では人肉を啜って生きながらえる絵が残されているくらいに酷かったそうだ。その絵は子供の頃に目の当たりにして以来トラウマになっていて、「飢え」の話になると必ずフラッシュバックして気分が悪くなってしまうのだが、このニュースでも同じ現象が起きてしまった。蛇口を捻って水を飲み、首を振ってなんとかイメージを振り払う。だけども、この台所の国際性も、この混乱が続けば消えてしまうんだろうか、という不安がよぎる。

天明の大飢饉は東北地方では甚大な被害を及ぼしたけど、関東や関西までは飢饉が及んだわけではなくて、江戸が大阪のほうにはちゃんと米が余っていたようだ。これは東北諸藩の経済の失策もあるにせよ、流通が貧弱なため東北を救うために莫大な量の米を運ぶ輸送力がなかったのも一つの理由だそうだ。流通が発展した今なら、東北が不作だから東北だけが米不足になるということはありえないし、なんなら海外から米の買付をすることだって可能だ。流通は命を救う。

また、貿易・交易とは「その地域に余っているもの」を輸出し、「その地域に足りないもの」を買うことで成り立っているけれど、その副次的な効果として「量・質の均一化」をもたらす。日本の国内食料自給率が低くても国民が飢えないからくりは貿易のこの仕組のおかげであるし、そして貿易とは国際的な安定があってこそ初めて成り立つものでもある。だから、世界中で混乱が続いて貿易が止まるようなことがあれば、新型コロナウルスで死ななくても、江戸時代の東北のように、局所的で人が死に、地獄が現れないとも限らない。貿易は命を救う。

嫌な気持ちになっても腹は減るし、将来の飢えを心配しても仕方がない。出来上がったチキンピカタを皿に盛り付け、廊下に置いてあるプランターに生えているパセリをもぎ取り、一洗いして添える。このプランターは先日「どうせひましてるんでしょ、パセリを世話して食べなよ」と義父母がいきなりうちに遊びに来て置いていったものだ。サボテンを枯らしてしまうような人間に無茶な、と思うが意外と生い茂り始めたので急いで食べている最中だ。貿易に支えられたチキンピカタとその対極にあるような自給自足のパセリ。その対比にちょっと笑みが溢れる。

世界は無限に広がっていてなんでも持ってくるのだけども、足元にもしっかりと生命が根付いていて、一口齧ると、店では売っていないくらいに荒々しくエグいけど、豊かな爽やかな味がした。今年始めて「今、春なんだな」と感じた。

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食事を終えた頃、Slackから通知が来た。私も加入している文章愛好家集団である「sentence」のチャンネルに更新があったようだ。Slackを開くと、「リレーコラム」を書いたよ、という話だった。今、sentenceではコロナに打ち勝つキャンペーンとして、有志で「希望」をテーマに順番でコラムを書いている。この時期に「希望」を語ることはそう簡単ではない。だけども、アウシュヴィッツのユダヤ人が最期まで語り合ったのは「ここから出たら楽しいことがあるだろう」という悲しいまでに純粋に高められた「希望」であった。だから、無理にもでもみんなで「希望」を考えて心を強く保とうね、という意図がある企画だ。昨夜、一人目のはななさんのコラムが公開されたので読ませてもらった。(なお、私は二番手だ)

ななさんの希望は、このコロナウイルスの流行が終わったあとに、新しい価値観が芽生えることのようだ。はななさんは先日までヨーロッパにいて、今は日本で静かに次の時代を待っている。おそらく、次の世界とはいつだって「広い視野と深い沈黙」ができる人から生まれる。そのように考える人が日本に増えるなら、それ自体が「希望」であることには間違いない。

だけども、私はそのどっちでもなくて、隙間風の吹く古く狭い家で、本当は不安でなにかコラムとかを書いてないと駄目なくらいには「おしゃべり」な人間だ。今の状態を保つことで精一杯な人間だ。海外に行ったこともなくて、国内旅行さえろくにしたことがない、国際レベルの視点なんて持ちようのない人間だ。だから、私は「次の時代」を作るサイドの人間ではないのだろう。

では、私の希望ってなんであろう、と腕を組んで考えみる。「希望…希望…」と口の中で飴玉を転がすように繰り返す。私の小さな世界でできること、小さな世界で望むこと。コロナウイルスが収まってほしい、とか平和になってほしい、という願いはあるけども、なにかこう大きすぎて形がつかめない。それは祈りの話だ。もう少し身近で、今の不安に打ち勝てることってなんだろう、と考える。

ふと、あの絵がフラッシュバックする。地の滴る腕に噛み付く、飢えて腹の出た全裸の男の絵。私の「絶望」の印象。自分を生かすために人肉を食べざるをえないような地獄。私はその地獄を心底恐れていて、世界の流通が止まったら私は死ぬのではないか、いや、なんなら人を押しのけても生きながらえようとする餓鬼となるのではないか、という恐怖があるのだと気づく。外の寒気だけではない悪寒が走る。今日の大雨は今でも降り注ぎ、ひさしにあたってダンダンダンと鳴り響く。

ふと、気配を感じて振り向くと、後ろで妻がパセリを持って立っていて、問答無用でパセリを口にねじり込まれた。エグみが再び口に充満する。

「何をするんだよ」と抗議するけど、妻は「難しそうな顔をしていたからいたずらしたくなった」と言った。食べ物で遊ぶな、と子供の頃にしつけられなかったのか、こいつは。これだから豊かな都会生まれ都会育ちは嫌なのだ、と毒づきそうになったところで、「そもそも、あんたは色々難しく考えすぎなんだよ。なるようになるし、どうにもならないことはどうにもならないの。パセリでも食って落ち着け」と妻は更にパセリを差し出してくる。素直に受け取って、口に放り込む。田舎で学校の帰り道に遊びでかじった草の味がする。「春の田舎だな」とつい口に出た。妻は怪訝な顔をして「それ、うちの実家で育ったやつだよ」と言った。「いや、日本もいろいろだよな」とつぶやいた。妻はますます怪訝な顔をした。

世界中が軋んで、物流が止まっても、すぐに日本は死なない。確かに東京は食べ物がなくなるかもしれないけど、日本もまた広いのだ。一時的に不自由するかもしれないけど、すぐに飢えて死ぬこともないだろう。すぐに田舎に戻ることはできないけど、すっかり落ち着いたら久々に田舎に顔を出してもいいだろう。車を買って旅行に行くのもいいかもしれない。希望とは「動くこと」の他ならない。

動くことはなにも世界レベルでなくてもいい。世界は広い。だけども、足元から続く地面も充分に広さを持っている。なんなら、二本足でどこまでも行ける。私は新しい時代を作ることはできないかもしれないけど、「動く力」があえばなんでもできる。今は「動くこと」すらままならないけど。いつかまた自由に「動ける日」を待ちながら、雪の中で育つふきのとうのようにうちにこもるだ。溶けない雪はないようにこの災いはいつか消えるのだから。そのために、今を生き延びよう。

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「パセリ、まだ食うか?」と妻が聞いてきた。「いらないよ」と私は答えた。二人で笑った。世界の軋みの音が少し止まった。口の中の、春の匂いはまだ消えなかった。

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世界中から音が聞こえる。アメリカからは医療関係者に送る拍手が。スペインからは死者の減少が始まり叫ばれる喝采が。イギリスからは回復した首相が国民に感謝する声が。イタリアからは聖職者の献身に対する感謝が。日本からは星野源の歌にノッて家で踊る音が。それらは、世界の歯車が少しずつ回っていこうとする音。

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「書く」を学び合い、「書く」と共に生きる人たちの共同体『sentence(センテンス)』にて実施中のコラムリレーに参加しています。今回のリレーテーマは「希望」。希望をつなぐ次なる走者は かに さんです。お楽しみに!
#書くと共に生きる #sentence #希望

妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。