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君に読むエッセイ

「もう1つの約束」

部屋の窓を開けると、粉雪混じりの空気が勢いよく流れ込んだ。

約束の日まで、あと2ヶ月。

それを約束と呼ぶには、あまりにも世間知らずだということも分かっている。社会人になって15年、組織の中で働くとはそういうことだ。ましてや明日の売上も予測できない小売の仕事、刻一刻と変化する環境の中で、将来の人事などあらかじめ決められるはずもない。あくまでその言葉は、その場かぎりの気休め。

だから私も妻も、親も同僚でさえも、誰も本気でその言葉を信じてはいない。

ただ1人、6歳の娘をのぞいては。

「2年ほど頑張ってきてもらえるか。」

そんな言葉とともに、突然の転勤辞令を受けたのが2年前の2月だった。これまでも何度か転勤はあったものの、全て地元の関西圏。全国にチェーン展開している店舗のため、どこに行かされても文句は言えないのだが、さすがに驚いた。まさか北海道とは。

もちろん家族全員で引っ越すことも可能だった。言葉の通じない外国に行くわけでもない。雪と寒さには苦労しそうだが、たかが1年の3分の1。何より住み慣れた環境以外で暮らすこと自体が、良い経験になるだろうと考えた。

ただ、やはり最後までネックになったのが、当時4歳だった娘のことだ。保育園にも慣れ、毎日友達と遊ぶことが楽しくて仕方がない様子だった。1人っ子であることも影響しているのだろう。今日は誰々ちゃんとお絵かきをしたとか、誰々君と鉄棒をしたとか、私たちに話すその目は、興奮と輝きに満ちていた。

この子から今の環境を奪うことはどうしてもできない。それが私と妻が出した結論だった。「2年ほど」という言葉に僅かな期待を込めていたことも事実だ。まずは娘が小学校に入る2年後まで頑張ろう、そんな気持ちでスタートした私の単身赴任生活。

最初は大変だった。毎晩隣で一緒に寝ていた父親が、ある日突然帰ってこなくなったのだから無理はない。電話する度「どこにおるん?」「いつ帰ってくるん?」の質問攻め。駅に向かう車で「行かんといて・・・」と泣かれた時は、胸が張り裂けそうになった。だからたまに帰った時は、ここぞとばかりに甘えてきたし、私もそれに応えた。妻のしつけを台無しにしてしまうと分かっていながらも、ねだられた物はついつい買い与えた。

そして1年くらい前からだろうか。あの興奮と輝きに満ちた目で「小学校入るまでには戻ってくるんやろ。」と言い始めたのは。

私と妻の会話か、妻と母親の電話か、いずれにしてもどこかでその話を耳にし、信じきってしまったのだ。可能性はある以上否定はできないが、「会社っていうものはな〜」などと説明しても理解できるはずもない。「もしかしたらね。」そんな曖昧な答えでやり過ごすのが精一杯だった。

そんなこんなで1年と10ヶ月が過ぎた昨年末。久々に家に帰ると、いつものように娘が尋ねてきた。

「もうちょっとやな?」

「だからまだ分からんて。」

「4月から小学生やで、ランドセルも買ったやん。」

「分かってるよ。入学式には絶対行くから。」

「じゃあその時にはやめとんやな。」

「・・・やめる? 何を?」

「言うたやん。小学校入るまでにはタバコやめるって。」

・・・確かに言った・・・気がする。

しかしそんな気はさらさらない。完全な嘘。言わば、その場かぎりの気休め。

「そんなこと言ったっけ?」

「言うたよ。お母さんもいつも言うてるで、やめて欲しいって。お父さん病気になったら嫌やねん。」

約束の日まで、あと2ヶ月。

会社との約束は、果たされぬまま終わってしまうかもしれない。仕方のないことだ。娘もいつかは分かってくれる。いや、もう薄々は感じているはずだ。ならばせめて、もう1つの約束だけは守ろう。父親のいない寂しさに耐えている娘と、父親のいない家庭を1人で守る妻の願い。

ベランダから見えるのは、粉雪に霞む高層ビル。

ゆっくりと吐きだした最後の煙が、真っ白な空へ溶けていった。


というわけで、約10年前にとある公募に送り、見事落選したエッセイを載せてみた。それなりに苦労して書き上げたものだ。せっかくなら誰かに読んでもらって、あの時のタバコの煙と共に、北海道の空に返してあげようと思ったわけだ。

しかし、今読み返してみると、入賞狙いのあざとさが随所に漂っている。もしあの時、この作品が評価されていたら、きっと今より嫌な奴になっていただろう。審査員のみなさんには感謝しなければならない。

で、家族はといえば、無事単身赴任も終わり、今は同じ屋根の下で暮らせている。2つ目の約束も果たせたわけだ。これで娘も文句はないだろう。

いや、始めから文句などなかったのかもしれない。

買ったばかりのiPhoneで、いつかこのエッセイにたどり着いたら、何も言わずに「スキ」を押してくれたらありがたい。

高校入学おめでとう。

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