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えんとつ町のプペル

池袋デート。
久しぶりにゆっくりと妻と池袋で時間を過ごした。
池袋でランチ、池袋で映画、池袋でスタバ、
学生の頃のデートプランでこういうことしたっけか。

中途失明の僕。
今はほぼ見えなくなって、妻も全盲、子供もまだ4歳だと、日々の生活に追われてのんびりとした休日を過ごす時間ってなかなか作れないものだ。

良かったな、でも。
平日の昼間に映画を見るっていうのが特別感があって。
それを近くの映画館でなく、わざわざ池袋に出てやるっていうことに意味があったみたいだ。
特別な時間を過ごしているような気分になった。

思い出に残るコーヒーだった。映画館で頂いたコーヒーは。

観た映画は、『えんとつ町のプペル』。
原作は絵本で、煙突の煙に覆われた町。
煙突の向こうには何がある?
星があると信じる主人公だが、町中の人からそんなものはあるわけがないと否定される。
ある日出会ったゴミ人間のプペルはその話を疑わなかった。
果たして主人公は星を見ることができるのか?
だいたいそんなあらすじの映画だ。

賛否両論はあるみたいだが、その辺りの事情をよく知らないぼくとしては、素直に良い映画だと思った。
設定がまず気に入った。
えんとつ町、ゴミ人間、夢を追いかける人はつぶされる、夢を追いかけてどこかで諦めきれない人は大勢いる。

何度も何度も泣いてしまった。
しかもめちゃくちゃ共感できることがあって。
ただそこにいるだけで、純粋な悪にもなって純粋な善にもなる。
いったいなんだろうあの存在は、って常に問わせる中で、周りが変化して、プペルの存在価値が勝手に変わっていく。
でもプペルは何も変わっていない。
ただ純粋なだけ。
その純粋さに背中を押された主人公が夢を実現させる。
そしてその夢は誰もが一度は見た夢で、誰も諦めている夢だった。
だから実現した時は誰もが感動するし、実現する前は誰もが馬鹿にして恐れてとまどう。

でも夢を追い続けていく中で揺るがない心や魂を見て、それに揺り動かされる人がいて、最後はその仲間に助けられる。
プペルはゴミ人間、何も知らないし何もしない、ただただ純粋な心を持つゴミ人間。
でも、一見汚いし臭いし、異端的な存在だから世間からは批判的な目で見られ対応される。

ほんとこのプペルの存在が、視覚障がい者である自分と重なった。
もし視覚障がい者と言う枠組みがなかったら、同じ枠組みで世間に放り込まれていたら、ただの社会不適合者だ。

一社会の歯車という視点で見れば、歩行の邪魔になるし作業の役に立たないし恰好がつかないし。
でも、誰からも比較されなければ自分が社会にとってどうなのかなんてことは気が付くこともなく、たぶん純粋に笑い、喜び悲しむ。
周りが目が見えないことによって何ができないかを学習させるからだめだ、できないという認識が生まれるだけだ。

誰かに言われてできた部分、そこを取っ払った時に、いったいその人はどういう人なのか。
周りの人と同じようにぼければ笑うし、ふまれれば怒るし、大切な人が傷つけば悲しむ。
視覚障がい者と言う枠組みがあることで、社会不適合者のレッテルは張られない社会は作られた。

でも、まさにそこはえんとつ町のように、雲で覆われた枠組みの中の世界が作られて、誰もがみんな障がい者という枠組み、えんとつ町と言う町の中に暮らす人たち、以外の、以上でも以下でもなくなってしまう。
今度はそれが悲しい、むなしい、悔しいと思う。

障がい者の枠の中に、それぞれ一人一人違った人間がいて、それぞれ違ったことに感動して、悲しんで、喜ぶ。怒るし笑う。
でも、誰もがみんな同じような取り扱いをされてしまう。

外を歩けば偉いと言われ、仕事をしていれば内容にかかわらず評価され、多くを求められず、笑っていれば「がんばっている」と言われる。
辛いと言えばすぐに同情され、怒れば仕方がないと同情される。

何に評価されたくて何に怒っていて、そういう人が当たり前に与えられ空気のように流れる感情のやり取りが、どこか不自然になっている。それは障がい者同士で関わっていてもそう感じることがあるし、社会と接していてもそう感じることがある。

障がい者当事者はどこかでそれを受け入れ、当たり前と思い、人によっては疑いもしない、人によってはどこか違和感を感じながらも、諦めている、一度は諦めずに動いてみても、やっぱり伝わらずに諦めてしまう。
もしくは障がい者と言う枠を取っ払った厳しい状況下に置かれたときの恐怖に比べればましだと言って、枠組みの不自然さに違和感を感じながらも、その環境に順応し、いつしか違和感さえも忘れている人もいる。
こんなものだと受け入れ、それはそれで幸せに過ごしてもいたりする。

実はえんとつ町の住民は、みんな障がい者、という見方もできる。
きっとえんとつ町から出た世界では暮らしていけない。
でも、もしも、もしも障がいと言う枠組みを囲ったままで、社会に適合して、周りと同じように一社会人、一人として評価され、笑われ、悲しまれ、笑わせて、悲しませて、怒らせて、怒られて、という世界が存在していたらどうだろう。
そして、そんな世界があることを体験している人間がいたとしたなら。

ぼくはそれになりたいと思ってるんだと思った。

それも、不可能でないことを知っている、体験している。
その世界で呼吸して、感情を出して、心を開放して、笑って泣いて喜んで悲しんで、そうすることがいかに楽しくてわくわくするか。
今感じている以上に、生きることを実感できる。生きている喜びを分かち合えるようになるのではないか。
みんなもそうなれるんだと叫びたい、そうなれるとみんなに伝えたい。

その心からの叫びがエネルギーになって、だから今、きっちょもとして声をあげているのかもしれない。
そんなことに気が付かされた気がした。
もしかしたら映画を見ながら何度も何度も泣いたのは、そんな心の奥底の思いを代弁してくれたことが嬉しくてありがたかったからだったのかもしれない。

感動した。そう言えばそれだけなんだけど、「感動した。」を語りだせばこんなにもいろいろな思いがあふれてくる。
本当に素晴らしい映画だった。

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