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言葉の壁

先日、Twitterでこんなことをつぶやきました。

ドイツ人のヴァイオリン教授のレッスンをオンラインで受講できる機会があり、その特別レッスンに申し込みをした私。
海外の音大に進学したいという思いがあり、教授を探しています。
そんな中、案内をいただきレッスンを受講することを決め練習に励みました。
レッスンは素晴らしく、1時間があっという間で学びの多い時間でした。その一方で、わたしの中では「通訳者」・第三者の存在に引っ掛かりを覚えました。もちろん、「通訳者」のことを否定するつもりはありません。しかし、なぜかわたしの中でモヤっとすることがある、それを言葉にしてみたいと思います。

わたしが話せる言語は日本語と英語。(今はドイツ語を勉強中)
英語を勉強しようと心に誓ったのは音楽高校に入学してすぐのことでした。もともと、両親に英語を勉強することを強く勧められていた私。ヤマハの英語教室に通った経験、また英検を(最初は渋々)受け続けていたこともあり、割と身近な言語でした。しかし、自発的にというより与えられた課題という感覚が抜けず、ゆるく中学卒業まで英語と過ごしてきました。
それを覆したのは音楽高校に入学して、すぐにあった「海外音楽大学の教授による特別公開レッスン」を聴きに行ったことがきっかけでした。選抜された学生が海外音大の教授のレッスンを受けている様子を見学することができた機会。確か、その時もドイツ人の教授だったと思います。そのドイツ人の教授が「英語」でレッスンをする。そして、その「英語」を通訳者が生徒に伝える。その様子を目の当たりにしました。ドイツ人の教授の母語はドイツ語。しかし教授が話していたのは英語、つまり教授にとって第二外国語。その第二外国語を通訳してもらって、理解するレッスンに意味はあるのだろうか、そんなことを思いました。同時に、先生が第二外国語で伝えようとしているのに、なぜ日本人の学生は英語で理解しようとしないのだろう。お互いが同じ第二外国語の土俵に立って意思疎通を図ろうとしないのは何故なのか、またその光景に違和感を覚えました。

その2週間後、私は自ら探して決めた英会話教室に通い始めました。
父に「英会話が必要。自分の考えていることを英語で伝えられる口と相手が何を言っているのかわかる耳がほしい。それは教科書では学べない。実践の場所がほしい。」と説得し、さまざまな英会話教室を練り歩いて、一つの教室を見つけました。
父は英会話は必要ないのではないか?学校の授業の英語が身についていれば良いのでは?とわたしに揺さぶりと試すような切り返しをしました。しかし、わたしが思っていたのは綺麗な英語を話すことではなく、相手が言っていることがわかってそれに対して英語で返すことができる英語の力がほしかった。音楽のレッスンの時間では先生は待ってくれません。限られた時間の中でたくさんの情報を、音楽のエッセンスを学ぶ時間を1秒たりとも無駄にしたくない。そのためには、普段から英語を聴く耳と英単語を話すのに抵抗のない口を揃える必要がある。そんなことを強く思ったのです。そのわたしの焦りや気迫を汲み取ってくれた(と信じたい)父の許可がおり、わたしの英語の勉強が改めて始まりました。
同時期に次の年の2月にドイツへ行くチャンスを掴み、まずは入国審査を一人で突破できること、そしてドイツ人の先生のレッスンを英語で受けることを目標に英語の力を蓄えていきました。
しかし、現実はそう甘くない。ヤマハの英会話教室の経験が役に立って、耳の方が先行して英語に慣れた。けれども頭から口に伝令がうまく伝わらない。文章を組み立てるスピードの遅さと、言いたい表現に近い英文をパッと思いつくことができない、このジレンマを抱えていました。机で勉強していたことがうまくいかせないのか…とだいぶ凹みました。
少しずつ英語に触れる時間や常に英語を頭の片隅において、英語の回路を構築する感覚を半年のうちに吸収していきました。はじめは落ち込んだものの、「話せるようになる」という目標に向かって努力を積み重ねていくことで、少しずつ自信を持てるようになりました。

しかし、2月にドイツに渡って待ち受けていたのは新たな壁でした。
早さについていけない。そして、型にはまった文の役に立たなさを痛感しました。
「え、今まで勉強していたことはどこに行ったの…?」と自分のこれまでの積み重ねが消えた感覚。そして、
「自分の中では理解してる。しかし即座に話せない人=何も分かっていない人」「沈黙することは理解していない」と海外ではみなされてしまうことを肌で体感して、悔しい思いをしました。待ってくれないのはレッスンだけではなくて、全てのことにおいて。誰も私のことを待つことはしないし読み取ろうとはしない。日本人の「空気を読む・行間を読む」という風潮とは真逆の「言ったもの勝ち・伝えてなんぼ」の海外の空気に、衝撃を覚えたのと同時にある種の心地よさを感じました。今思っていることを、今持っている言葉で伝える姿勢にはちゃんと向き合ってもらえる。モゴモゴとしているだけでは誰も私のことを聞こうと、見ようとはしない。力ずつで振り向かせたい。思っていることを聞いてほしい。そんな思いが自分の内側から湧き上がってくる体験を掴みとった貴重な時間、一歩。それと同時に、母国語の日本語で過ごす時間より英語やドイツ語に囲まれた生活に対する安心感を覚えました。
「私はこう思う!」とストレートに伝えられる経験は日本語を話して日本の文化の中にいると、恥ずかしさや空気を読まねばという束縛、裏の裏の意味まで良くも悪くもわかってしまうがゆえに、うまく表現できていないのかもしれない。しかし、英語やドイツ語は私にとっては第2・第3言語で細かいニュアンスなんて気にしていられない。わからなかったらわからないと言えばいいし、嫌だと思ったら嫌だと言えば良い。ある意味で自由な自己表現をすることができる「言語の自由」が心地よかったのです。

それは音楽でも同じでした。
英会話を初めてから初めて受けたドイツ人の先生のレッスン。もちろん英語は完璧ではないし、むしろわからないことだらけで戸惑いが多く1回目のレッスンは撃沈。
日本では言っていることを言葉で理解して、音楽に反映させる。それがドイツに来たら言語の壁がある。そこをよじのぼっていくのか、それには言語能力を育てることでしか解決しません。でも、学びたいのは「今」。人が待ってくれないのと同じで時間も待ってはくれません。
ならば、わからないならわからないと言おう。言葉で理解出来ないなら音楽で理解しよう。
言葉で理解出来ないことは、先生の身振り手振りや声のトーン、視線、音、演奏から読み取って自分の演奏に即座に反映させる。
もし私が弾いた音が違えば、先生はすぐにまた指摘するしNOという表情をする。読み取れて反映できていたらGood!と褒めてくれる。
また受け身の姿勢では何も学びがない、ということも強く感じたことのひとつでした。

レッスンは先生の音楽をそのまま自分に取り入れる場所なんだ、と改めて感じた瞬間。日本に帰国してからのレッスンに対する意識がガラリと変わり、より貪欲に先生が音楽に何を思っていらっしゃるのか掴みとってやる…!みたいな雰囲気で毎回のレッスンへ向かうようになりました。たとえ、日本語のレッスンだとしても、自分でしっかり咀嚼して音楽に反映させていく。この思考回路が構築され、毎年ドイツに渡るたび、言語能力が飛躍的に伸びるのと同時に音楽に対する姿勢も変化していきました。

これはある意味で、壁の越え方だったのだと思います。衝撃を受けたから見えてきた道で、教えられるのではなく自分でたどり着いた場所。揺らがない芯のような軸のようなものです。レッスンを受ける、学ぶとはどういうことなのか。いろんなことを経験して考えた結果、出来上がったわたしなりのスタイル。そこに、第三者の介入は枷になりやすいと思います。もちろん、正確な言葉で理解していくことも大切だと思いますが、そこには一瞬のタイムラグが生じます。先生の言葉と音楽の熱が途切れる瞬間を感じると、距離が遠ざかっていくような気がするのです。また、もしも第三者が必要な場所であれば常に通訳を介している間、先生を待たせているということを覚えておかなくてはならないと思います。そして、待たせた分先生の熱も下がってくることも。今の時代、オンライン化によって世界を近くに感じることができるようになっています。しかし、その分一瞬のタイムラグは倍以上に感じます。対面の熱を伝えられない代わりに、画面から伝えようという強い想いを、自分の五感をさらに研ぎ澄ませていくことの方が重要なのではないかと思います。よくも悪くも淡々とした世界が訪れている時代。言葉を言葉のまま理解するのではなく、人の感情を熱を直接浴びて感じる時間の方を大切にしたいとわたしは思います。そのためには他の人の言葉や時間・視点は必要ない、そんなふうに思うのです。一瞬一瞬を大切にしているからこそ、何か少しでもざらっとする感覚を感じたくない。これは今までわたしが積み重ねてきた経験と勉強のおかげなのか、と改めて書き殴りのようですが言葉にして発見したことでした。


最初のツイートから、そしてお話してきたことにまとまりがないように見えるかもしれませんが、言語の壁に当たったことによって見え、改めて捉えなおした音楽のあり方みたいなものを、お伝えできたらよいなぁと思います。

Dankeschön😊

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