【中編小説】透明な回想
目的地に着いたことで電車のドアが開き、そこから多くの人が下車していく様を、僕は座席に座りながらぼんやりと眺めていた。
本来ならば僕もここで降りなければならない駅だった。自宅の最寄駅だし、それに残業終わりのかなり夜深い時間だった。けれども、僕は一向に立ち上がらなかった。固くて丈夫なビジネスバックの取手を掴もうともしなかったし、定期券入れをポケットから取り出そうとも思わなかった。この前の休日に子どもたちと一緒に見た、ぐったりと横たわっていた動物園のシロサイも、ここまで無気力ではなかったんじゃなかろうか。
乗車の合図と笛の音が聞こえ、まるで他人事のようにドアが締まるのを僕はただ眺めていた。
動きだした電車の車窓から見た空には、丹念に磨かれて研ぎ澄まされたように尖った、鋭利な三日月が空に登っていた。
電車が走り出し、僕は自分の生活圏という引力から遠くに離れていく。このままどんどん遠くに行って、もし引力の届かない外側まで離れてしまったら、僕は本当にどこにいってしまうんだろうか?両肩に重たくのしかかる責務を放り投げて、括りつけられている鎖を断ち切って…
月と地球が今もこうして、互いの引力で均等を保っているけれども、その月がどこかへ行ってしまったら、地球はどうなるのか。生活は混沌化し、異常事態が起きて、その先にはいとも単純な崩壊が大きな口を開けて待ち構えている。そんな渦中に、今僕は飲み込まれていくところなんだろうか。
僕の家庭は順風満帆であった。二人の子供は手のかかる時期をなんとか過ぎて、奥さんも扶養内ではあるがきちんと働いて家計を助けてくれている。定年までのローンを組んで買った持ち家や、家族全員がゆったり寛げる大きなファミリーカーも用意した。毎日順調に仕事をこなしながら、きちんとそつなく自分の家庭を守っていた。そのつもりだった。
しかし、ここ最近はどうしたのだろう。安定した軌道に乗った二つの天体が、互いにいい距離感で作用し合いながら公転しているはずだった。あの空にある月のように。しかし残念ながら、おそらく妻は僕に嘘をついてる。それは枝がたゆんでしまうくらいに大きくなった、豊かに実った真っ赤な嘘だった。
僕はふと、自分のジャケットの袖口のボタンが取れて無くなっていることに気付いた。それはほんの些末な綻びが、長い年月をかけて少しづつほつれて、そして気づかないうちに大切な何かを拐かして消失してしまうみたいに。僕たちも長い月日とともに少しづつ、透明だったその心を濁らせていったのだろう。気の毒にもそれは、気付かないうちに少しづつ、しかし確実に…。
「一緒に透明になれたら良いのにね」
と彼女ーー大学生だったこの時はまだ‘妻’ではなく‘彼女’だったーーは言った。
僕たちはうらぶれた温泉街にある、とあるラブホテルのベットの中に裸で横になっていた。
その時の僕たちは、大学生特有の長い夏季休暇中に電車旅行をしていた。青春18きっぷを二人で買い揃えて、遠くにある目的地までただひたすらに鈍行列車を乗り継いだ。
それは決して快適でも無かったし、楽な旅行でもなかった。乗り込んだ電車の窓から差す真夏の暑い日差しに長時間曝された肌はヒリヒリしたし、体のいたるところに汗疹も出来ていた。彼女のほうも、旅行に向けて嬉々として新調したミュールが足の甲に靴づれを作り、徒歩での移動時間が来るたびにストレスを与えているようだった。普段なら綺麗に切り揃えられた綿毛のようにふわふわの彼女の前髪も、日が沈む頃には光るおでこにべったり張り付いた。しかしそんなことすら些事に出来るくらい僕たちは幸せに包まれていた。それはまるで適度な塩味がスイーツの甘さをより引き立てるように。
ただ、その計画は予定通りに行かずに何度もプランを変更せざるを得なかった。そしてその日は途中下車した温泉街で、出来るだけ安く宿泊出来る場所を探してここに辿り着いていた。
「それはつまり、透明人間ってこと?」
「ちっちっち、違うのだよワトソン君。そうじゃなく…」
名探偵よろしくキメ顔を見せた彼女は、次の瞬間には僕の体に腕を絡ませながら、肩の辺りに顔を埋めて匂いを嗅ぎ取るようにしながら言った。
「私たち二人の境目がなくなってしまえばいいのに、っていう意味」
僕は色褪せて剥がれかけの壁紙に描かれた天体と、大きな円の中に小さな円が収まっているように描かれたわざとらしい三日月を眺めていた。三日月はまるで満ちていく人生のメタファーみたいに見えた。まるで満ちていく月と、満ち足りた人生みたいに。
「透明になって溶けて一緒になってしまったら、こうやって抱きしめ合うことも出来ないよ」
「なるほど!さすが、やっぱり頭良い人は違うね」
と彼女は言った。僕は彼女を再び強く抱きしめた。先程シャワーを浴びたばかりの彼女の頭髪から甘い香りが漂っていた。こうして深く呼吸すると、まるで彼女の周りだけは空気が綺麗な気がする。学校の教室の中や、通学の時の電車は、なんだか息苦しくて空気が汚いような気がするのに。彼女とこうして一緒に抱き合っていると、この部屋の空気がひたすら綺麗に、新鮮なものになっていく気がした。
「僕も透明になってしまいたい」
というと、彼女は笑った。
「あれ?さっきの指摘はなんだったの?」
「馬鹿がうつっちゃったのかも」
「うふふ、そっか仕方ないよね。…私のこと、馬鹿って言ってる…?」
「…さぁねえ」
「もう」と、彼女は握り拳を見せながらも笑っていた。
ここには街中のうるさい喧騒も、満員電車のイライラも、誰かの視線の居心地の悪さもなんにもなんにも無い世界に旅立ったみたいだ。そんな居心地の良さが、自分の存在を許されている感覚が、澄んだ空気がこの部屋に満ちてきている。僕たちはきっとこれからも、こんな風に抱きしめあいながら齢を重ねていけるものだと思っていた。少なくともこの瞬間は。
ぼんやりと学生時代を思い出していると、ふと一つ前の駅から乗り込んできた斜め向かいに座る男女の話声が耳に入ってきた。
決して大声ではないが、しかし戯れるように体をくっつけながら話し込んでいる。その男が呑気にアホ面を小汚い顔面に貼り付けて、甘ったるい声を出して女の気をひこうとしているのが見えて、僕は自分の中に大きなうねりのような怒りが渦巻いているのを感じた。その男の姿が、その二人のやりとりが、僕の妻の浮気を思い出させたのだった。必要以上の強火にかけたソースパンの中には、真っ黒い煙をあげた僕の激情が煮えたぎっていた。
僕は妻の浮気現場を実際に見たわけではない。しかし、人の口に戸は立てられないというように、僕の耳にも噂として、そしてその相手が誰であるかの話は聞こえてきていた。色香の匂いは花のように無差別に辺りに漂い、そして誰かの嫉妬心を同時に掻き立てるものなのだろうか?
妻が通うジムに勤めている若いインストラクターは、身長と筋肉と顔立ちだけの、頭の出来の悪い男である。実際に何人もの女性を相手にしていると噂になっていたし、本人も自身の女性の経験人数の多さを自慢するふしがあるらしい。そんな軽率な男と妻が良い関係になってるなんて、一体どうして信じられようか?
ふと視線をその先程乗り込んできた男女の方に向けると、男性の手が女性の腰の辺りにいやらしく回っていた。顔を近づけ、小声で睦みあう二人の姿を、僕は横目で眺めた。きっとこの二人の世界には、周りの人の視線なんてものは存在していないんだろう。
僕は女性の腰に回っている男性の左指を、アーミーナイフを使って第二関節に食い込めせる妄想をした。ナイフの切っ先はスッと素早く食い込めせて、そして切り開くときは出来るだけ丁寧に時間をかけて。ぐりぐり…。中心にある硬い腱はねじりながら切らないといけない。ぐりぐり…大胆に、そして丁寧に…。
そして電車の通路には、切られたミミズのようにピクピク蠕動する指が血を撒き散らしながら落ちていく。大小さまざまな悲鳴のあがる車内の中で、僕は極めて冷静に、しかし確実に相手を痛ぶっていく、そんな想像をーーあくまで想像をーー巡らした。
「じゃあ私、ちょっとでかけてくるから」
と、スポーツバックを肩にかけた妻は言った。
「…そうか」
と僕はタブレット端末でニュースを読みながら答えた。
妻は外行きようの化粧をしっかりと施し、美容院で時間をかけて綺麗にケアしてもらった髪を丁寧にセットし、そして桜色のセーターからはうっすらせっけんのような淡い香水の香りを振り撒いていた。その装いは、そしてその匂いは、僕にとってはただただ気持ちを昏い水底へ落としていくだけだった。
家を出る際、彼女は何か言いたげではあったが、言葉を飲み込んだように何も言わずに家を後にした。ガチャリという扉の閉まる音。テレビには一切タメにならないようなくだらないエンタメを特集するワイドショーが流れていた。妻が家を出て行ったのを確認してから僕はリモコンを手にとってテレビを消し、それを力の限り思い切りソファーに叩きつけた。跳ね返ったリモコンは、壊れることなく跳ね返って足元のカーペットに落ちただけだった。
友人の薦めでジムに通い始めてから、彼女は以前より確実に綺麗になっていった。それはもちろん彼女の体型の変化もあるが、おそらく大きな部分では気持ちの面での変化だと感じる。以前よりも家の中で明るく振る舞うことが多くなった。子供とのやりとりでイライラしたりすることも少なくなり、大きな声で子どもたちと笑いあう姿をよく見るようになった。そして、僕との体の接触を避けるようになっていった。もともと寝具は別にしていたが、性交渉の機会に関してはもう一年以上なくなっていた。
この前、キッチンで料理をしている最中に包丁で指を切った彼女に対して、
「大丈夫?」
と声をかけて手を握った時、妻は反射的に僕の手を払い除けていた。
「あ、ごめんなさい…早く消毒しないと…」
「あ、あぁ…」
その時にはすでに、僕と妻との間には自力では泳いで渡り切ることのできない、大きな大きな急流が隔たっているようだった。
妻の心情をほんの僅かすら僕には理解できないのだと思うとコンコンと悲しみが湧き上がってきた。そしてそれと同時に、僕の中には隠さなければいけないほどの深い憎しみが渦巻いているのを発見した。それは、これまで築き上げてきた愛情の分だけ、二人で歩んできた道のりの長さの分だけ、深く大きく僕の心の中に昏い影を落としていた。その感情に気づいた時に、僕は自分の中にまだ知らない、裏側の顔みたいなものがあったのだと思うと、途端に怖くなってしまった。この感情は、一体僕をどこに連れて行ってしまうのだろうか?
「サカキさんはあのアイドルのニュースみました?」
昼食後の職場の喫煙所で僕は、加熱式タバコを吸いながら後輩にこんなふうに声を掛けられた。彼はいつも何かしらニヤニヤしながら、僕のことをいちいち揶揄してくるやつだった。しかし彼は人当たりが良くて、辺りから気難しいと見られる僕にとっては、こういう風に気さくに話してくれるムードメーカー的な後輩の存在が居るのは素直に助かっていた。
「なんのニュース?」
「なんか、逆恨みしたファンにアイドルが路上で滅多刺しされた事件ですよ。怖いっすよねー」
「ふうん。そんな事件があったんだ」
彼は紙タバコを吸いながら、
「しかもなんと、その滅多刺しの犯人の顔、サカキさんそっくりでしたよ!」
と笑いながら喋ってくる。もちろん、そんなことで僕は怒ったりしないし、それが冗談なことくらい聞いている皆が知っている。
「サカキさんは、大人しいふりしてますけど、突然アイドルとか刺しちゃダメっすよー」
と後輩が言い出すと、それを聞いていた周りの人たちも同じように笑いだす。僕は愛想笑いをしながら、「そんなんするわけないだろ」と反論して後輩を肘で小突いた。
そうだぞ、気をつけろよ、あんまりアイドルには付きまとっちゃダメだよと、周りの人も口々に軽口を叩いていた。僕は、もしかしたら自分の中にもそういった猟奇的な犯人と同じものがどこかに眠っているのではないか、嫉妬や怒りに狂った時、いつか僕は誰かを傷つけてしまう時が来てしまうのではないかということを考えざるを得なかった。
妻の浮気を知った時、僕は自分の中にコントロール出来ないほどの怒りが存在することに驚きを隠せなかった。自分の感情を律することが年齢を重ねるとともに難しくなっていることに薄々自覚していた。
こんなどうしようもない気持ちになった時、子ども時の僕はどうしていたんだろうか?母親の胸に顔を埋めて泣いていたんだろうか?友人と一緒に、日が昇るまで語り合ったりして発散したんだろうか?それとも、その時付き合っていた恋人に抱きついて、気の済むまで介抱してもらっていたんだろうか?
今の僕には、この感情をどこに逃して良いのかわからずに途方に暮れてしまっていた。それはもう頼れる母もおらず、語り合う友人もおらず、抱きしめ合う恋人もいなくなってしまったからであった。
僕の心は絶えずかき混ぜられながら、底に沈殿した澱を撒き散らしてドロドロした汚泥にまみれていた。どんなに綺麗な水の流れがあっても、その攪拌を止めない限り、僕の心はひどく汚れて濁り続けることになる。僕はその心の澱をゆっくりと沈めて、出来るだけ綺麗な感情になるまで、こうして家に帰らずに一人電車に揺られ見知らぬ駅まで放蕩する時間を設けなかればならなかった。そうでもしないと、僕は僕のコントロールを失ってしまう気がしたのだ。
「もう、二度としないでよ!」
妻は僕の左頬を思い切り引っ叩いてから、泣きながらこう言った。僕はリビングで正座しながら、妻に許しを乞うていた。
僕は、職場の後輩女性と浮気をしていた。その女性は旦那もいて、実際にはダブル不倫だった。不倫のきっかけなんて詳しく覚えてはいない。しかし、僕は彼女のことを少なからず女性として好意的に見ていて、そして向こうも同じように、僕のことを男性として好意的に思っていた。
しかし、だからといって何かが起こるわけじゃない。普通だったら、仲の良い職場の男女止まりだったはずだ。しかし、その時たまたま僕は不安定な気持ちに揺れていて、出来ることなら抱きしめてくれるような安寧の女性を求めていたし、きっと彼女も、そっとそばに寄り添ってくれる男性の存在を求めていたのだ。そんな二人の不幸なタイミングがたまたま重なった時、酒の席で酔った勢いのまま、僕たちは自分達の前に敷かれたレールを大きく踏み外してしまった。
きっとそんなことは間違っていることだと、当事者の二人は分かっていた。しかし、誰がそれを責めることができるのだろうか?監督責任は、ぼくにだけあるのだろうか?僕たちは何にも縛られることなく、大通りのホテルの中で、お互いの傷ついた心を癒しあっただけだった。
こうなってしまったのは、僕たちのせいじゃない。きっと不運な星が空に煌めいたせいで、そして月があの暗い雲の裏に隠れてしまったせいで、そして上手く行かないことばかりを僕たちに背負わせたこの醜い世界のせいだった。僕は、そうやって世界との均衡をとって、なんとか上手くやっていかなきゃいけなかったのだ。
しかし、その女性社員との不倫がバレたことで、残念ながら僕たちの関係はそこで終わってしまった。僕は最後の砦のような、安寧の女性の存在すら無くしてしまった。それからというもの、僕は帰宅時間を遅らせて、ひたすら気持ちが落ち着くまで、まるで宇宙空間に投げ出されたスプートニク号のように、目的地もなくただ電車に揺られ続ける日々を過ごすことになった。
きっと僕も妻も、もう二度と透明には戻らないのだろう。一度混ざり合った液体同士が、また元通りの液体には戻らないのと同じように。だから、いくらあの頃を懐かしんでも、失ってしまったことを憂いても、僕たちは汚れた姿のままに、醜い心のままに歩を進めていかなくちゃいけない。それが例えどんなに辛いことだと知っていたとしても。
「お客さん、お客さん」
と声がして、僕は目を開けた。困り顔の駅員の姿がそこにはあった。
僕は寝入ってしまったらしく、気がつくと終点の駅まで到着していた。ここから先は乗り換えが必要になるため、どんなに遠くまで電車に乗っていたとしても、ここで一度降りなければいけなかった。そして、僕はいつもならここからきびすを返して、自宅に戻る電車に乗ることにしていた。
僕は終点駅の深閑としたプラットホームに佇み、そこから遠くに見える街並みの明かりをただぼんやりと眺めた。まるで化け物の背骨のようにそそり立った街路灯に引き寄せられた甲虫が、羽音を鳴らしながら飛んできて、そして力尽きたように足元の地面に落っこちてきた。
その甲虫は、表向きは虹色に輝く綺麗な翅を携えているが、その裏側には醜い六本の脚を交互に動かして蠢いていた。
不意にポケットの振動に気づいて、携帯電話を取り出すと、妻の携帯からの着信が表示されていた。
「もしもし、ぱぱ?」
と、今年4歳になった長女の声が聞こえる。
「チカか、パパはまだ仕事中なんだ」
「ぱぱ、はやくかえってきてって、ままが言えっていってる」
「ははは、そうかい。わかった。もう少しで終わるから、急いで帰るよって伝えてくれ」
「うん、わかったー」
と言うと、電話はやや間を置いてから切れた。きっと娘から携帯電話を取り上げた妻が、そのまま通話終了ボタンを押したんだろう。
携帯電話をポケットに入れようとした時、まだ足元には先程の裏返った甲虫が、脚を動かしながらなんとかひっくり返った体を起こそうと努力していた。
僕はそんな姿の甲虫を見ながら、理由もなくイライラし始めた。なぜ僕たちは上手く行かないんだろう。こんなに醜い姿を晒して、必死になってもがいているのに。どんなに注意深くしていても、運命の悪戯によって渡る吊り橋が無慈悲に落としてしてしまうこともある。僕はそんなことを肝に銘じながら、そのひっくり返った甲虫をビジネスシューズの硬いかかとで思い切り踏みつけた。脚には嫌な感触が伝わってきたが、そんなことはどうでもよかった。
やがて自宅に帰る方向の電車が到着した。濁った澱のような感情がようやく落ち着いて、澄んだ感情になった僕は電車に乗り込むために一歩を踏み出した。
そして不意に自分の足元を確認したが、先程、確かに踏み潰されたはずの甲虫は姿を消していなくなっていた。
おわり
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