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【短編小説】染影

※読了まで30分ほどかかります※

それなり長く生きていると、どんなに尖っていても、またはどんなにイキがっていても、抗えない世界の理が存在するってことに私は気づき始める。例えばそれは、大学のレポートの締切とか、友人間で交わされる斟酌もない噂の流布とか、取るに足らない学校内での規範や堅苦しいルールとか、地球の自転や公転とか…。
…分かってる、頭の中でぐるぐる考え事をしてる場合じゃなく、物理的に体を起こさなきゃいけないことくらい、重々承知している。別に何かに抗いたくて、または争いたくてそうしてるわけじゃない、それでも、柔らかく包み込んでくれる大好きなお布団が恋しくて、まだ起きたくない日だってあるじゃん。そんなわけで今日は、まぁそんな日。

覚えている限りで本日何度目かのノックは、今日一番の激しさで彼女の主張を表していた。コンコンコンコン。何が言いたいのかは分かってるの…ほんと…分かってるんだってば。
「未知、そろそろ起きたら?」
と、ルームシェアしている歩(あゆむ)がドアごしに言ってきた。私は重力に逆らうように、ベットと上体の間に枕と上腕を差し込むように起こして、枕元にある置き時計を睨むと、時刻は16時半に近くなっていた。貴重な休日の半分、いや、もはや七割くらい、それが無気力のうちに私の前から通り過ぎていったのかと思うと、どうにもやるせなくなる。ホント、勿体無い。人生の無駄遣い。そう思っていても、どうにも体と心が重たくて動きたくなくなる。
はぁ…どうしてもっと活動的でクリエイテヴィティに充実した休日が過ごせないんだろう。そういった優雅で知的な生活が私とは無縁なのだろうかと、自堕落な日々を何度も何度も繰り返して思う。私ってば、まるで成長してないよね。きちんと前に進みたくて仕方ないのに、遊園地の「バイキング」っていうアトラクションよろしく、勢いついて大きく前に行っても、その反動で後ろに勢いよく下がっていくみたいな。どちらにしろ、大学2年にもなってまるで進歩がない。進んでいる日と後退している日を交互に繰り返している。いくら気を引き締めたところで、次の日にはどうしても自分に甘くなってしまう。それに、頑張ったなという時ほど反動がついたように、その分余計にマイナス方向に堕落している気がする。いい加減学習せい、私。
先日、できたてほやほやのくっさいウンコ(失敬)みたいな失恋をした腹いせに、飲み会でやけ酒を飲み過ぎて完成させた鉛のように重たい頭を何とか持ち上げて、閉ざされたままだった遮光カーテンをようやく開ける。本日は快晴なり。まだまだ空は明るい。そうか、もう季節は夏至をとうに過ぎたのか。早起きなおてんとう様が低く沈んだ位置ながら、まだまだ明るい光を大地に降り注いでいた。「よぉねぼすけ、お前がノロマなうちに今日が終わっちまうぞ?」って、そんな風に私を急かしているみたい。エアコンが効いたこの部屋は季節感が薄くて、日が登っていることも忘れてしまうほど過ごしやすくて、そして人をどんどんダメにしていくようで。いやいや、ダメなのは私だけで、歩は凄い。羨ましい。ホント。いつもしっかりしてて、休み日だって活動的で、大学のレポートや論文だけでなく、自身の作家になるという夢を叶えるために今日もけなげにコツコツと小説を書いていたみたい。それに比べて私はダメだ。学生特有のくだらない恋愛事情にかまけて、ずっとダラけた生活のまま、勉強はおろか自分磨きもせずに、失恋を引きずってクヨクヨしながら出たとこ勝負のその日暮らしばかり。以前まではあんなに夢中だった小説もすっかり書いていない。バイトと大学の授業時間以外の私って、ちゃらんぽらん。やる気スイッチは常時オフのまま。カサついた乾燥気味の肌に化粧水を塗ることすら面倒に感じている。落ちるところまで落ちていく負のスパイラルのただなかで、今日も今日とて安定した超低空飛行。地面スレスレでいつ墜落しても良いように、鍵のついた机の引き出しの中に遺書でもいれとこうかしらね。お空はこんなに高くて青いのに。はぁ。とにかくお腹すいた。美味しいもの食べたい。カロリー多めの、味濃いめのやつ。あとはアイス。バニラ味の濃厚なやつ。体重管理?カロリー?ああた、一体誰に物申してるんですかって。そういう理屈や理論じゃ語れぬもんがあるんだよ。体重管理よりも今の私に必要なのは、自分自身の機嫌を取ることなの。太っちゃう?そんなこと知るか!こちとら自慢のナイスバディを見せる相手もいないんじゃ!こら!
そんな中、歩がお気に入りの黒猫のイラストのついたマグカップをもって部屋に入ってきて、
「ねぇ、未知?いい加減起きたほうがいいよー。そうやって休みの日に寝過ぎてるから、また夜眠れなくなるんだよ。月曜は朝イチから授業でしょ?」と言ってきた。
「いま起きたから…ようやく起きられそうだから…」
「私、さっきコーヒー淹れたからお湯は沸いてるんだけど、未知もなんか飲む?どうする?」
「ありがたくお湯を頂きます。それよか、まずトイレ。お腹痛い」
「はいはい、いとしの眠り姫さま、どうぞごゆっくり」
そして私はようやくその日の活動を始めだした。トイレに向かう廊下を抜けるとき、ほんのりとレギュラーコーヒーの香ばしい匂いがキッチンに漂っていた。歩にとって本日何個目かのコーヒードリップパックが、脱ぎ捨てられた数日分の洋服みたいに三角コーナーに溜まっていた。

§

高校生のときに私と歩は、同じ文芸部に入部したことで知り合った。元々、私たちの一個上の先輩たちが発足させた‘文芸同好会’だったのだが、その翌年に私たちの年代の1年生が5名、新たに入会したことで、顧問を入れて正式に部活として活動を始めたのだ。
まぁ活動と言っても、みんなで仲良くラノベとかアニメ、漫画なんかに関しての雑談や討論を、お茶でも飲みながら話すことがメインだった。部から刊行される部誌(『染影』という名前の部紙だった。厨二心がくすぐられる、良い名前だと先輩たちは言っていた)も、いつもは3ヶ月くらいに一度の発行だったし。しかも、文芸コンクールの応募期間を挟んで、文化祭が催される夏から秋にかけてのイベントてんこ盛りの忙しい時期には、部誌は半年に一度の発行になったりした。だから、それほど熱心に活動をしている部では無かったし、普段から穏やかな雰囲気が漂う部室は結構気に入ってて、文芸部室は学校生活の中でもリラックスのできる部員みんなの憩いの場みたいになっていた。
こんな文芸部であっても、年に一度の『全国高等学校文芸コンクール』の時期になると、流石に2年生の人たちにピリリと、まるで山椒の効いた四川風麻婆豆腐くらいの気合いが入り始めていた。そして、その年のGWの後くらいから文芸部の全員が、コンクールに向けての作品を何にするかを考え始めていた。
でも、私たち1年生の大半は部誌に載せる予定の簡単な詩だったり、前からお遊びのように作っていた短歌や俳句を応募することにしようってことにしてた。それは、入部してあんまり時間がないからってこともあるけど、本格的な作品を私たち1年生が応募することは、何だか生意気じゃないかなって話になっていたのだ。私たちが高校生だった頃ってさ、年功序列という風習がけっこう色濃く残ってたりしてて、ほら、よくあるじゃん、一年は靴下は白じゃなきゃダメとか、黒ストッキングも可愛くて生意気だから上級生しか履いちゃダメとか、なんかそういう、誰が考えたんだかいつからあるんだかわかんないような意味不明な決まり事がさ。だから、先輩を差し置いて自作の作品が万一にも入選なんてしてしまったら気まずいし。そんな保守的な忠誠心的な、悪く言えば事なかれ主義的な考えが下級生には蔓延ってて。で、コンクールに関しては1年生は適当な作品を提出して、参加だけはしとくっていう流れになっていたのだ。当時の私は、そういったコンクール自体にもほとんど興味が無くて、どんな作品でもまぁ良いかと思いながら、書きかけだった適当な文学評論を選んで応募した気がする。果たしてどんなものを送ったのかは、もうあんまり覚えてないんだけど。

そして学年が上がった2年生の、その年の文芸コンクールの応募期間が迫る頃になって、
「今年のコンクールにはさ、一緒に小説部門で応募してみようよ」
と歩は、一緒に登校している時に、急に私の腕を取って振り回しながら言ってきた。
「え、マジで?」
「うん。まじ」
いつもはお遊びで、好きなアニメや漫画のキャラクターを間借りした同人的な、二次創作ものを書いたり読んだりするのが私たちは好きだった。憧れのキャラクターを手取り足取り動かして、言わせたいセリフを言わせる。スーツや浴衣など、原作内では見せないような服装を着せたり、カッコいいシーンを演じさせる。原作では無かったはずの、誰もが見たかった(であろう)架空の対決を実現させる。あるいは、あり得なかった組み合わせによるイチャイチャ絡みを妄想する……それはまさに、幼い頃に女の子同士でしていた‘おままごと’が、そっくりそのまま原稿用紙の上で行われているようなものだった。そりゃ、私たちオタクどもが血眼になって夢中になるのも無理はないって、わかるでしょ?そんな妄想の聞き手が、お互い自分と同じくらいのオタクだったわけで、だから私も歩も、童心のままに幸せに作り話だったり冒険だったりを気軽に考えたり話したりすることができた。そこにはお互いがお互いを否定せずに、どんなものでも首肯してくれる、優しさ溢れる‘二人だけの世界’だったから出来たことであって。だから、それを実際にさ、‘外の世界’に持ち出そうという気持ちは、その時の私には毫(ごう)も持ち合わせていなかったんだ。
「歩はさ、オリジナルの小説書いたことあるの?」
「ううん、ないよ」
「でも、コンクールには出たいんだ?」
「うん」
「自信、ある?」
「ううん、全く」
「…怖くないの?」
「そりゃ、怖いよ。でも、誰だって怖いと思うんじゃない?怖くない人っているのかな。でも、その分、同じくらいワクワクするかも…」
「うーん…」
「たとえば、誰かに愛の告白するときもさ、ワクワクして、ドキドキして、とても不安で…でも、言い出さずにはいられない、みたいな。そんな瞬間って、あるじゃん?胸にしまおうとしても、勝手に出てきて抑えられない感情。そんな感じ。今、私が小説を書いてみたいって、それをみんなにも見てもらいたいって、どんなに怖くても不安でも、それをせずにはいられない、みたいな。そんな感じなの」
「なるほど…えっ?歩って、誰かに告白したことあるの?」
「ううん、ぜーんぜん無い、まっさら純白な乙女だけど」
「じゃあさ、なんで分かるのさ!おかしくない?」
「ふふっ、そんなことくらい、妄想のなかではいくらでも経験ずみだし?」と言ってはにかみながら、歩は続けた。
「確かに、コンクールに応募する前と後では、何かが変わってしまうかもしれない。告白する前とした後では、その人との以前までの関係値には戻れないのと同じように。きっと、自分だけの小説を書いて、それを人にも見せることって、大切な何かが得られるし、それと同時に何かが変わってしまう出来事なんだと思う。でも、その貴重な経験をする機会が目の前にあるのにさ、それをみすみす逃してはダメなような気がするんだ。なんだろう、茫漠とした、予感というか、箴言というか、そんな感じ。私の中で、きっとこの機会を逃したらだめだよって、神様が警鐘を鳴らしている気がするの。ま、本当はまだ何もしてないし、書いたからってどうなるかなんてわかんないんだけどね。ねえ、未知もやってみたくない?」
歩はすでに小説をコンクールに送る覚悟を決めていたみたいだった。‘外の世界’に自分の妄想や作品を持っていく心の準備を。それはきっと、1年生のコンクールの時から決めてたんだろうな。去年みたいに、みんなに合わせて、適当な作品をなにも期待することなく応募するだけみたいな、そんな逃げ腰な姿勢を取るなんて本当はしたくなかったんだろうな。いつもニコニコしてた歩が、1年生のコンクールの時期だけは、珍しくつまらなそうにしてたのを思い出した。
「応募するって言ってもさ…オリジナルでしょ?大丈夫かな?」
「大丈夫。未知には出来るはずだよ。だって、いつも私に見せてくれる同人作品のシチュエーションもメチャクチャ面白いしさ、それに、文章力も構成力も、誰よりもぜんぜん上手だなって思ってたし」
先ほどまで隠れていた雲間から太陽が顔を覗かせて、木漏れ日が暑く感じる。今年は5月でも日差しが強く、夏のように暑く感じる日が続いていた。日陰と日差しが交互にやってくる並木道の通学路を歩きながら、自分自身に問いかける。大丈夫かな?私にもオリジナルの小説、書けるかな?
「…ちゃんと、書けるかな?」
「書けるよ」
「…そうかな?」
「そうだよ」
「私にも出来るかな?」
「出来るよ」
「でも、間に合わなかったら…」
「大丈夫」
「でも…」
「そのときはそのとき。何とかなるよ」
「……うん」
「それに、ウジウジ考えても始まらない。とにかく、やってみようよ!…ね?」
「…うん!」
「私、未知には負けないから」
「うん!私も…」
「うん」
「私も、歩には負けない」
私はなんだか胸の辺りがむず痒いような、妙にワクワクしはじめて、歩に接近していって互いに肩をぶつけ合った。笑い合いながら、長い階段を二人で足並みを揃えて登っていく。歩は、どうしてこんなに迷わないんだろう。コンクールに向けて小説を書き始めることを決意したこの日も、歩は真っ直ぐに私の瞳を見て微笑んでいた。どうして彼女はこんなに自信に満ち溢れているのだろう。熱くて、眩しくて、羨ましかった。私たちの夏がこうして始まったのだった。

§

あたりまえのことだけど、小説を書くのは本当に大変だった。頭の中で物語を描いてみても、それを実際に文章として原稿の上に落とし込んでいく段階で、どうしても表現が安っぽくて陳腐になってしまう。金魚すくいをしたことの無い人にとって、薄くて破けやすいポイで金魚を掬うのが難しいのと同じように、自分の想像したものを文章という形にして表すのは想像している以上に注意深さと繊細さが必要なんだと初めて理解した。だから書き始めのうちは、穴の空いたポイが何個も何個も私の机の周りに散乱していた。(もちろん比喩だ)
安物の椅子でお尻と腰が痛くなるほど机に向かって、原稿に向かって文章を書いては消し、書いては消し…そして挫けやすくて怠けやすい私は、何度目かの躓きの時には、物語を書くことを諦めたくなっていた。一旦気持ちをリフレッシュさせようと、冷凍庫に残っていたシャーベットアイスを齧りながら、気分転換にベットに腰掛けてYouTubeを見たりして、いつの間にかうたた寝していたら、歩から「今、頑張ってる?」みたいなLINEがくるたび、また自分の意志力をふるいたたせて、手にしていたスマホをほうり投げ、頭が空っぽになるまで再び机に向かい始めるのだった。小説を書き始めるまで、こんなに失敗を繰り返したことなんて今まで無かった。何度も進もうとしながら、また転んで、また立ち上がってを繰り返していた。いつの間にか転び過ぎた私の両膝は皮がズル剥けて、机の周りには絆創膏が何個も何個も散乱することになった。(もちろんこれも比喩だ)
そして締切ギリギリまでかけて、その夏を初のオリジナル小説を作成することに尽力して過ごした。そして、夏休みの終わりにやっとのことで作品が出来ると、書ききったことの満足感で胸がいっぱいで、出来映えなんてどうでも良くなっていた。出来上がった作品はなんとなくキラキラしてて綺麗に輝いていて、それ以上読み返さなくても大丈夫だって思えるくらい、気持ちが盛り上がっていた。私はこの夏に、初めて自分のやりたかったを最後までやり切ったんだと、少しだけ自信がついた気がする。窓を開けたらそこには夏空が広がってて、ツクツクホウシの遠い鳴き声が、私の達成を祝福してくれていた。

ただ、この話はそこで終わりじゃなくて、歩の小説の方は、コンクールの応募締切を過ぎても完成させることが出来なかった。彼女はそのことについて、一言も言い訳なんてしなかった。きっと、大きく広げ過ぎた想像という名の風呂敷を、どうにか綺麗に畳み込もうとしたんだけども、でも風に煽られてぐちゃぐちゃになったりして、豪雨にびちゃびちゃに濡れたりして、結局時間までに上手く小さく畳むことが出来なかったんだろう。彼女はコンクールに間に合わなかったことを、下校途中の長い階段で私にそっと伝えた。書ききった開放感で浮かれていた私に対して、その告白をするのはきっと大変な勇気が必要だったと思う。彼女の書きたかった小説は、まだぐちゃぐちゃのまま彼女の机の上に広がったままだったはずなのに、歩はどんな気持ちでその締切の日を迎えたんだろう。
澄み切った青空の元で、歩の瞳から雨が滴り落ちていた。降水確率0%の土砂降りだった。思えば高校に入って、入部してから長いこと一緒にいたのに、彼女の弱った姿をこれまで見たことがなかった。いつも明るくて快活で、明け透けに見えた彼女に、心配性で内向的な私は何度助けられたか分からない。その彼女の泣いている姿に対して、私はどうして前もって気づいて助けてあげられなかったんだろう。私ははじめて見た歩の弱っている姿に驚いてしまって、言葉すら出てこなくなってしまった。彼女の涙が、今でも昨日のように思い出すことが出来る。まるで消えない痣のように、心に深く染み付いている。
「ごめん未知…私、ダメダメだ…」
と謝罪してきた歩に対して、私は彼女の慰めになるための温かな言葉すら発することができなかった。舞台上にいながら一言のセリフも思い出すことの出来ない、ただの棒立ちの大根役者みたいだった。私は一体何のために小説を書いてきたのか。親友と喜びを分かち合いたい一心だったのに。どれほど原稿の上に洗練された言葉を駆使して、幸せな物語を紡いだとしても、目の前の親友にかける言葉の一つも思いつかないんだ。言葉は私の周りに溢れんばかりに満ちているのに、その中から伝えたい言葉を見つけるのは、そしてそれを掴み取るのは、なんて難しいんだろう。そして、私はなんてちっぽけな人間なんだろうと、自分の矮小さに打ちひしがれた。

初めて書いた私の作品は、今思い返してみてもあまり優れた作品ではなかったと思うのだけど、どういうわけかそれがコンクールで入選を獲得してしまった。一体何が審査員の目に留まったのか、どうして気に入られたのかいまだに分からない。でも、私たち文芸部の中でも初めての受賞であって、輝かしい功績となった。顧問の先生も、「長浜、よくやったな」と褒めてくれた。
ただ、それからというもの、私は一人、文芸部の中で少しだけ浮いた存在になっていった。雑談をしていても、他の部員から「まぁ、コンクール入賞者は他の人とは物の視点が違うよね」だとか、先輩からも「入賞者の次書く作品はみんな期待するんじゃない?」だとか、ことあるごとに僻みのような言葉が聞こえるようになった。いや、もしかしたら自意識過剰だったのかな?その度に私は、「そんなことないですよ」だとか、「いえいえ、滅相もないです」だとか。どうにか尊大に見えないように常に周りに媚びへつらっていなければいけなくなってしまった。入賞を純粋に喜んで良いはずなのに、どうしてこうなったんだろう。なぜ、こんなに小さく縮こまっていなければいけないんだろう。なぜ、いつも喉が詰まった感じがするんだろう。目に見えない冷たい無数の手が私の首に絡みついているようで、あんなに楽しくワイワイしていたはずの部活が、どうにも息苦しくなって、全然楽しめなくなってしまった。いつの間にか私は、部室からどんどん足が遠のいてしまっていた。
「未知」
ある日の授業終わり、歩は私を呼び止めた。
「ねえ、今日は部室に来る?」
「ごめん、私今日はちょっと家でやりたいことあって…」
「そかそか。なんかさ、最近あんまり部室に来ないし、みんな心配してたんだよね。大丈夫?」
「いや、大丈夫大丈夫。なんていうか、ちょっと集中して勉強もしたいしさ、読みたい本もあって…みちさんの最近は、いそがし、いそがしなのです」
「ふーん…もし未知が悩んでいるんだったら、私いつでも相談乗るからさ、遠慮しないで。友達じゃん」
「うん、ありがと。でも、今日は先に帰るね」
と言って、私はその時も一人で帰ることにした。
それからというもの、部員だけでなく歩からの視線も避けるようになってしまって、文芸部室はもう私の居場所じゃなくなってしまっていた。そした、そのままズルズルと避けるようにして部活を無断で休むようになって、そんな逃げ腰の日々を繰り返していたら3年生に上がっていた。あんなに仲良かった歩との関係にも少しずつ距離が出来てきて、大気圏を脱した人工衛星のように、いつの間にか私たちはお互いに重力の関与しない場所にいるみたいに、自然と遠く離れていくようになってしまった。

§

受験を控えた3年生ともなると、進路の相談や志望校などの選択があって、必然的に部活から足が遠のく人が多かった。しかも弱小な、あっても無くても変わらないような私たちの文芸部には、もう3年生で顔を出す人は半分ほどになっていた。そんな中でも、歩はいまだに部室に頻繁に顔を出しているらしいと人づてに聞いていた。
その年の夏に、歩は、
「もう一度、文芸コンクールに応募しようと思うんだ」と、下校中の私を捕まえて打ち明けた。
「それ、マジ?」
「うん、マジ」
「だって歩、もう3年生だよ?大学受験組だったよね?」
「そうだよ」
「大丈夫なの?」
「うん。へーき。なんとかなるよ」
歩はまっすぐに私を見ていた。どうしてこんなに自信に満ちているんだろう。どうして迷いがないんだろう。
「私、去年はコンクールに作品が間に合わなくて応募できなかったじゃん。だから、今年が最後になるんだよね。高校生活の、最後のコンクール。だからさ、このまま応募せずに、挑戦せずに高校卒業していいのかなって。確かに、恋愛だったり受験だったり、他にもやらなきゃいけないことが沢山あるのかもしれない、この夏休み中に経験しなきゃいけないこともあるのかもしれない。でも、私、このコンクールに応募しないと、この先も一生後悔して過ごすことになると思う」
「歩…」
「去年、未知の小説が入賞したとき、私すっごく悔しかった。もし書き上げていたなら、絶対に未知より良いものが出来ていたって確信していたのに、なんか変に強がったりして、無駄なプライドが邪魔したりして、そうしたら、結局何が書きたいのか、今書いてる作品の一体どこが面白いのか分からなくなってしまったの。‘イップス’って言葉、知ってる?いつも通りに出来ていたことが、ある日ある瞬間から突然上手く出来なくなってしまう、そんな症状。その時は私も、そんな感じだった。突然イップスを発症したみたいに、これまで当たり前に出来てきたことが、突然出来なくなったの。でも、文芸コンクールへの応募は私から誘ったのにさ、結局完成しませんでしたって言ったら、カッコ悪いじゃん。馬鹿じゃんそんなの。裏切りじゃん。そう考えているうちにさ、頭の中にある焦りとか失望とか、嫌な言葉が言葉がどんどん溢れてきて、そして辺り一面に頭の中にあった言葉がバラバラにそこらじゅうに散らばってしまって、何もかもがよくわからなくなっちゃった。原稿用紙の上にある言葉のひとつひとつが本来の意味を無くして、それらを上手く掴むことが出来なくなったの。すごく、怖かった…混乱して、パニックになって。でも、応募の締切がすぐそこまで来ていて、ほんと、どうして良いか分からなくなった」
「…そうだったんだ」
受験に向けた補習終わりの遅い時間で、空には夕闇が迫っていた。通学路に映る私たちの影は長く伸びている。グラウンドからは草刈り後の濃い新緑の薫りが漂っている。
「私、もう一回挑戦したいんだ」
「うん」
「今のまま、卒業したくないよ」
「うん」
「今回は、未知も一緒に応募してなんて言わない」
「うん」
「でも、最後まで見守ってて欲しいな」
歩の顔の半分が夕暮れに陰っている。まるで、彼女のその心に出来た仄暗い部分を、如実に見せているかのように。
「わかった、がんばって」
「ありがと」
「次はきっと大丈夫だよ」
「うん。頑張るよ」
「きっと、大丈夫」
「うん」
絶対に成功して欲しい、きちんと納得出来る作品を作って欲しいと、そう思う一方で、もし失敗した時には何て言おうかなってことも頭の片隅で思ったりして、そんな自分の小狡さに嫌気が差した。私はどうして素直になれないんだろう、素直に歩に頑張って欲しい、満足できる作品を書いて欲しいという気持ちだけじゃない、どこかで失敗するんじゃないかなって気持ちが働いてて、純粋に信じたり励ますことが出来なくて。自分の意地汚くて卑しい気持ちが、頭骨の後ろの方にガムみたいにべったりとくっついていて離れなかった。

当時の歩は、2年生の時からサッカー部でも爽やかで好青年だとみんなから思われている武田くんと付き合っていた。二人はいつも貞操観念のしっかりした、ベタベタしていない付き合いかたをしているように見えて、同級生からだけでなく先生や親御さんからも交際を祝福されていたと思う。それは、恋人が出来て浮かれまくっているこどもっぽい人たちとは一線を画している、長年連れ添った老夫婦のようなカップルにみえた。きっと彼らには、進研ゼミの販促漫画に描かれるようなお手本みたいな愛の告白があって、雑誌に紹介されても遜色ないデートプランを立てたりするんだろうな。小鳥の戯れのような可愛らしい爽やかなキスをしたり、情熱だけじゃない、お互いを尊重し合うための厳粛なセックスをしているんだろうなって私は勝手に想像してた。そのセックスを無事に済ませた後は、二人で感想を伝え合いながら、互いの良いところを讃えあうのだろうか…なんて、私は一体何を想像しているんだろう?こんな失礼な妄想は、二人にはバレないようにしなきゃ。
そんな噂の武田くんが、「最近、歩が会ってくれないんだ」と、進学クラスだけが夏休み中にある特別補習の後に、私に打ち明けてくれた。
「え、そうなんだ?はたから見ても、上手く行ってると思ってた」
「いや、それが最近はぜんぜん。なぁなぁ、長浜のほうからもなんか言ってやってくれないかな。今は小説を書くために集中したいからって言って、少しの時間も会おうともしてくれないし、連絡も二、三日既読も付かずに放置されてるんだよ。なぁ、小説書くのって、そんなに集中しなきゃいけないもんなのか?たかが文章を書くだけだろ?勉強してるのと大差なくないか?」
「うーん、創作と勉強は、ぜんぜん違うと思うけど…」
「とにかくさ、俺らサッカー部みたいな、運動部とは違うわけじゃん。汗水垂らして全身筋肉痛になりながら、体と技術を磨くために毎日ヘトヘトになるまで練習してるのとは違うじゃん。俺も最後のインターハイが終わって、夏休みの勉強時間の合間くらいは会えるかと思ったのにさ、歩は夏休みは全然会えないっていうんだ。もし会えないのが嫌だったら、違う子と遊べば良いじゃんって。それに我慢できないくらいなら、わたし別れても別に良いよって。俺も流石に怒ったよ。なんだよそれって。別れるとか簡単にいうなよ、俺の気持ちとか全然考えてくれないじゃん。適当にあしらうなよって」
「うーん、武田くんの言いたいことも分かるよ」
「だろ?アイツ、なんかおかしいよ最近。なぁ長浜、俺さ、自信無くなっちゃったよ。今まで歩からこんな風に扱われたことなかったんだ。アイツいつも優しかったし、言うことも聞いてくれてた。色んなことで相談もしたし、中には些細な喧嘩だってあった。でも、お互いの愛情みたいな、心が通っていることを疑ったことなんか一度も無かったんだ。いつだって俺たちはお互いを大切に思い合っているんだっていう、不確かだけど確信めいたものが、心の中にあった気がする。なんつーか、第六感的なものなのかも知れない。でも、今はそれが感じられないんだ。アイツの考えていることが、アイツの言っていることが、なにも分からないんだ。まるで別人にでもなってしまったかのようで。なぁ、創作って、そういうもんなんか?そんなに粉骨砕身して取り組むべきことなのか?文芸部のやつらからも、最近の歩は何かに取り憑かれているみたいだって心配してるみたいだしさ」
「いやいや、なにそれやめてよ。そんなわけないじゃん、歩は歩じゃん。なんにも変わってなんかいないよ」
「…本当にそうなのかな?」
確かに歩は責任感も強いし、何かに夢中になった時は手がつけられなくなった。きっと、集中していると他のことが見えなくなったり、上手く扱えなくなったりするんだろうな。納得していない様子の武田くんに、私は言った。
「うーんと…ほら、好きな食べ物は最後に食べたいから取っておくみたいな時ってあるじゃん?きっとそんな感じでさ、書き終わらないと会っちゃダメみたいなことを、自分に課してるみたいな?きっとそういうことなんじゃないかな。だから、コンクールが終わるまでは待ってあげたら?きっとコンクールが終わって、ひと段落ついたらさ、いつも通りになるんじゃないかな」
「うーん…そんな単純なもんなんかな?」
「きっと、そうだよ。とにかく、理解して、待ってあげたら良いんだよ。そうすればきっと、また元通り仲良く出来るって」
わけわかんねー、なんか勝手だよなって、去り際の武田くんの口からボソッと漏れた言葉が、クラスの中の雑踏に混じっていてもくっきりした言葉の輪郭を保って聞き取れた。彼の放った鋭く尖った本音という名のトゲトゲが、それが私に向かっていないのにも関わらず、少しだけ心に刺さってちくちくと痛かった。

武田くんと話していたときに私の頭のなかでは、以前に歩と何気なく話した内容をふと思い出していた。歩は以前、こんなことを言っていた。
「未知はさ、どこまで犠牲に出来る?」
「犠牲?」
「そう。犠牲。何かを得るために、何かを我慢したり諦めたり、どこまで出来ると思う」
「なにそれ?すごく重たい話?」
「いやいや、そんな重たい話じゃなくてもさ。もし、自分の夢を実現出来るとしたならば、何かを犠牲にしないといけないとして、果たしてどこまで犠牲にしても良いって思えるかなとか、漠然と考えたことない?」
「犠牲、かぁ…」
「ね、どう?」
「うーん…私は、よくわかんないや。そもそも、今もはっきりした夢があるわけでも無いしさ。結構適当に平和な毎日を生きて行けたら、少なくとも今がそこそこ幸せだったらそれで良いなって」
「えー、未知、つれないじゃん。こう言うのはさ、たとえ空想だとしても何か劇薬的に強烈な回答があったらかっこいいなとか思うんだけど。かつての文豪たちが残した名言的な感じの、病的なまでの強靭な信念とか、泥臭い葛藤とかを感じられる、ドラスティックでペシミスティックな想像をかき立てられそうな回答がさ。じゃあ、次までにそういう回答を用意しておくこと!」
「えーなにそれ!歩はどうなのよ?かっこいい感じの回答を準備してきてるわけ?」
「私にはもちろんありますよー」
「へぇ、ではそれは何ですか」
「夢が叶うんだったら、自分の寿命が半分になっても良い、かな!」
「えー、月並み!」
「おい!」
「あははっ」
「ふふっ、まぁ寿命はいつかはわからないけど、今の生活スタイルだったり、恋人とかは捨てても良いって今は思えるかも。だって、いつだって取り戻せるものとか、たとえば異性と付き合うことって、実際はおんなじようなことの繰り返しばかりじゃん」
「あら、良いオンナじみた、贅沢な発言じゃあない?」
「まーねー、ふふ。ま、執筆に夢中な今はすこし色恋沙汰にも食傷気味なのかも。それに、恋愛なんて、それに近しい妄想だけでもお腹いっぱいに出来るし」
「妄想ねぇ…それってすごく、根っからのオタクが言いそうな発言かも」
「ははっ、そうかも!」
歩にとって武田くんを遠ざけようとする行動は、ひょっとしたら犠牲としての対価だったのだろうか。小説に取り組み始めた彼女は、まるで神事を目前にした沙庭のように、信託を受信するために自身の外側も内側も清めなければならないと戒めているかに見えた。彼女にとって、小説の中にエネルギーを注ぐためには、聖人のような神秘性を匂わせていなければいけないと思い込んでいるような気がした。

歩がコンクール用に書いた小説を手に取って読むことが出来たのはずいぶん後になってのことだったが、実際に彼女が取り掛かっていた作品は、意外にも深い内容やメッセージは特に込められている訳じゃなかった。そこに描かれていたのは、なんてことのない少女たちの、ありきたりな物語。ただ仲のいい二人の女の子が、肩を並べて仲良くアイスを食べるだけ、みたいな、取り止めのない内容。でも、美しい言葉が続いていたし、何より、最後の読了感が良くて、私好みの、いつか消えてしまいそうな淡い日常を切り取った、ほのぼのとした内容だった。鮮烈なメッセージとかもないけど、でも、まるで遠くの方で突然光る打ち上げ花火にたまたま直面して、それをぼんやりと眺めているみたいな、青春の一コマ。それを読んだ人の心なかに、確かに何か光るものを残してくれるかのような、上手く説明できないけど、そんな感じ。
歩はそれでも、その作品の出来にはぜんぜん満足はしていなくて、でも、一つの作品を書き切ったことに関しては、満足しているように見えて、私にもとっても嬉しかった。コンクールの結果は残念ながら落選だったって、文芸部の顧問の先生は言った。
「ま、アイツなりによく頑張ったと思うよ」
と、先生はにべもなく答えていた。彼女にとって、その作品にどれほどの苦難と犠牲と心血を注いだ作品であっても、赤の他人から見たらただのつまらない作品でしか無くて、その努力の跡を汲み取ってもらうことはできないんだな、人生って世知辛いなって、モヤモヤした頭をグラグラと揺らしながら私は帰路に就いた。季節と太陽が手と手を取り合って、確実に地平線の方向へ傾斜して、あれだけ暑かった今年の夏も、いつの間にか暑さの分水嶺を過ぎたんだと思った。

私が覚えている限りの高校生活はだいたいこんな感じだった。その後の私たちは、運よく同じ大学に進学することができたのだが、武田くんは別の学校になって、それがきっかけだったのか、あるいは夏休みからの不仲が続いていたからなのかは私の視点からは明らかに出来ないのだけれど、いつのまにか二人の恋愛は終わっていたみたい。私はそれを、大学生になった時の女子の集団の中での雑談中に聞いた。歩が悠然とした態度で「私いま彼氏いないんだよね」みたいな呆気なさで言ってたから、私はそんな風に何ともなく言えるのがなんだか羨ましいような妬ましいような、なんとも言えない気持ちが私のなかで渦巻いていて、でも本人は全く意に介している様子も無いのを見ると、なんで私こんなに悩んでいるんだろ、しかも他人のことなんだし、気にしなくてもいいはずなのになって思いながら、いつかその詳細が聞ける時が来るといいな、なんて漠然と考えていた。

§

大学に入ってからの私たちのこと、すこし割愛しながら説明すると、未知と私は入学時に同じ学生寮に住んでいたのだけど、寮の色んなルールだったり、同級生や先輩からことあるごとに部屋に訪ねてきたり、あとは寮で主催されるイベントに強制的に引っ張り出されたりで、たしかに寮だと家賃も安いしご飯が朝夕に出るけども、それ以上に人間関係が煩わしいものなんだなと気づいてから、大学2年に上がる頃を見計らって、二人で同じ賃貸のアパートを借りて住むことにしたのだ。私たち二人とも、創作するための静かな環境が欲しかったというのもあった。
そして、今二人で住んでいるアパートには、キッチンのほかに狭いながらも独立した部屋が二つあるから、お互いに必要以上に干渉しなくて済んだ。でも家事とか洗濯とか、まとめて出来るところはお互いに協力し合えばより効率的だし、何より一部屋づつを借りて住むよりも、二人で家賃を折半した方が安かったのも理由の一つだった。往年のトキワ荘の手塚治虫や藤子不二雄よろしく、一緒に住むことでお互いが切磋琢磨しあえるような良い環境を作れるんじゃ無いかって未知と話しあった末の選択だった。
ま、実際は理想ほど上手くいっているわけじゃなかったんだけど。未知は引越し後に、沢山の読みたい本のみならず、執筆するには形から入りたいタイプなのか、高めのオフィスチェアや電子辞書を購入するために、近くの居酒屋のホールで人生初のアルバイトをしはじめて、そのせいで生活時間が私とは逆転しちゃって、なかなかお互いに顔を合わせる機会が無くなってしまった。そして、未知はそのバイト先の居酒屋で知り合った、チャラくてノリの軽そうな(頭の悪い?)感じの男に言い寄られてから、なにを勘違いしたのか、その場の軽いノリ的な感じで男女交際を始めたみたい(きっと騙されてるに違いないと私は以前から思ってました)。んで、たまにその男の子のアパートに泊まりにいったきり部屋に帰らなくなったりしたし…。私としては、それはすごく心配だったけど、でも、未知は全然言うことなんか聞いてくれなくて…。
で、その付き合いはじめた男の子が実は結構女遊びが多いことが分かって、未知に内緒で浮気してたことが判明したのに、それを頑なに信じたくない一途な彼女はズルズルと体だけの関係を続けたりして、ほんと、最低だと思う。相手の男の言い分を聞くと、別れ話にしようとすると、途端に未知に泣きついてきて、嫌だ嫌だって駄々をこねて、なだめられたらその後は結局ズルズルと一緒にベットに入るんだって。それって不潔すぎじゃない?
いや、それでも傷ついた未知を見ているのは可哀想で、真剣に相手のことを信じようとする気持ちが伝わってくるし、いつの間にか不摂生のせいなのか、肌とかもカサカサでボロボロになってたり、突然部屋から出て行って、そのまま朝まで帰ってこなかったりで…。だから、初めて真剣に未知に対して、説教をして、「別れた方がいいよ」って伝えたんだけど、果たして上手くお別れしてきたんだろうか?まだこうやって、夕方まで惰眠を貪っている未知の姿を見ていると、きっとまだ引きずっているに違いない。なんとかして気分転換してあげたいんだけど…。あ、いつの間にか自分視点になっちゃってた!やば。ま、いいや、ここはもう一度あらためて書き直さないと。

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彼氏と別れた後、バイト先の居酒屋の人たちとやけ酒を飲んで、そのままオールでカラオケしたあと、早朝に捨て鉢になった私がアパートにとぼとぼ帰ってきた時も、歩はいつもと変わらぬすっぴんのまま、未だ染めたことのない豊富な黒髪をヘアバンドで止めながら牛乳瓶のようなメガネで、大きめのスエットで、首元の寄れたTシャツで、要するにいつもと同じようにダサい格好のままでキッチンでコーヒーを入れて「あ、おかえり」って。なんだかそれを見たら安心して、これまで必死に我慢してた涙が一気に溢れたりしたんだった。
私、完全に歩の足を引っ張っているなって、そんな気がする。早く立ち直って、しっかりしなきゃいけない。
「ねぇ歩、冷蔵庫にアイスってまだ残ってた?」
「ん、アイス?一本さっき食べちゃったから、もう残ってないかも」
「ええ!私がアイスないと生きていけない人種なの知ってるでしょ?」
と、唇を突き出して大袈裟に悲しんだ表情をしてみせる。いつもこういう冗談を言うと、歩は笑って付き合ってくれる。
「そんな顔しないで。また買ってくるからさ」
と、頭を撫でられながらのいつも通りの会話。いつもどおりのやり取り。そんな生産性の無い会話のやり取りを、私たちは繰り返す。それはまるで、準備体操やストレッチで体をほぐして、身体に流れる血液を新鮮にするように。何気ない会話を繰り返していくにつれて、こんなに安心したりリラックスしたりするのはなぜなんだろう。無駄に張っていた肩の力が抜けていく。不思議だ。これからも、いくら年月を重ねても、私はこういった下らない会話を歩と繰り返していきたいなって思う。
「ん?どうしたの。何か考え事?」
と、歩はキッチンにもたれかかってマグカップを持ちながら私に聞いてきた。いつのまにかぼんやりとしていたみたいだ。
「いや、そばにパスタソースかけて食べたら、どうなんだろ?美味しいのかな。やっぱりめんつゆが一番だよなって思うのかな。なんて、ぼんやり浮かんできてさ」
「くすっ、なにそれ」と歩が笑っている。
「なんかそんなこと考えてたら、そんなことも私って知らないんだなって思っちゃってた」
「まあ、世の中知らないことだらけだよね。私も最近になって、スイカバーの種がチョコで出来てるんだって知ったし」
「え!嘘でしょ」と、私は驚く。
「ほんとほんと。一人っ子だからかなぁ。誰も教えてくれなかったんだよね。だから最近まで、たねを食べずに吐き出してたんだよ。そしたらさ、たまたま食堂でそれを見てたリエが突然びっくりして、すんごい顔しててさ」
「なにそれ!うける」
「そのことでいちいちバカにしてくるからさ、私も言ってやったんだよ、この間までバスの定期券の買い方も知らなかった人が、偉そうにしないでよ!ってさ」
「あははは」
「ふふ」
「…でも、不思議だよね」
「うん?」
「実際には何にも知らないのにさ、知らない世界のことを物語にして想像しながら書くって、今考えると、私たちのしてることって、ほんと不思議だよね」
「うん、不思議かもね」
「私たち、お互いのことも、あんまり知らないのに」
「そうかな?私は未知のこと、よくわかる気がする」
「えっ、ほんと?」
「うん、なんとなくだけど」
「嘘でしょ?」
「『認識とは、誤解の総体である』ていう言葉もある」
「うん?それってどゆこと?」
「簡単にいうと、実際によく知らなくても、知っているってこと」
二人でお揃いのマグカップを持ちながら、お互いに笑い合う。コーヒーの香りと、歩の笑顔があるこの瞬間が、私はすごく幸せなんだなって感じる。
「歩は、これからまだまだ頑張る感じ?」
「んー…少し頭痛くなっちゃってさ。画面の見過ぎかな。少し休憩か、仮眠でもしようかなって思ってた」
歩のカップにはブラックで、私のカップには牛乳多めのカフェオレが入っている。顔も好みも、全然違う二人。でも、一緒にいる。まるで姉妹みたいに。
「ね、じゃあさ、休憩の散歩がてら、コンビニいこ。お腹も空いたし、アイス買ってこないと」
「そうだね。そうしよっかな」

§

色んな言葉を交わしているのに、結局本当に言いたいことはなかなか言えないでいる。その時確かに頭の中にカタチとして残っていても、放っておくとアイスみたいに溶けて無くなってしまうものみたいだ。どうしてこんな私と一緒にいてくれるのとか、武田くんとどうして別れたのとか、結局ずうっと聞くことが出来ないまま、時間がすぎることにだんだんと溶けて無くなってしまうみたい。
コンビニに入った時、辺りがなんとなく暗くなってきたと思ったら、突然の夕立が降り始めていた。傘ももたずに部屋を出ていた私たちは、コンビニの休憩スペースに腰掛けながら、真っ黒い空を眺めて、どうにか止まないかなと話していた。
「不思議なんだ。なんかね、文章を書いても書いても、まだ書き足りない気がするんだ。自分の伝えたいことの少しも伝えられない気がする。私が言いたいことを書いているはずなのに、いくら書いても、やっぱり書ききれない。書きたい言葉が、いつもひと足先に逃げていってしまって、いつまでも追い続けているみたい。いつになったら満足出来るんだろう」
と、歩は話し出した。
「おや、歩先生の小説は、今回も長編になる予感ですか?」
「くすっ、そうなるかも。短くまとめたくても、私の聡明な頭の回転がそれを許してくれないのかな、なんてね。書いているうちに、結局いろんな言葉が溢れてきて、気づいたら言葉の波がすぐ足元まで迫っているかんじ。もちろん、本当に要らないって思うような部分はその都度削除して読みやすいように泣く泣く削ったりするようにはしてるんだけどさ」
「ふんふん」
そこへ、コンビニに濡れながら入ってきた学生の集団が通りかかったので、私たちは少しだけおしゃべりの声を止めて、手元のアイスを黙ったまますこしずつ頬張る。歩はチョコミント、私はチョコとバニラのソフトだった。
学生の集団はガヤガヤとしながらお酒類を持って会計を済ませて、私たちの側を通り過ぎてコンビニを出るまで、二人とも黙って空を眺めていた。夏場の通り雨は急に激しさを増したと思ったら、急に静まっていく。そして昏い雲が裂けて、どんどん明るさを取り戻しながら、赤い夕焼けが顔を覗かせていた。未知はその赤くなった空を眺めながら、
「私たちの青春が、真っ赤に燃えているわ」
と唐突に言った。
「うわっ、なにそのセリフ、くさっ!」
「あはは!」
「私の作品にはそんなセリフ絶対NGだから」
「ちょっとー、いいセリフだったじゃん、かっこよくない?」
「いや最低だった、たぶん今年に入ってから一番かも…」
「もう、あはは!」
雨宿りがてら食べていたアイスはすでに空になっていた。私たちはアイスのゴミをゴミ箱に入れて、箱に入ったファミリータイプのアイスを買ってコンビニを出たとき、歩が、「ねぇ」と話しかけてきた。
「ん?」
「一つ小説を書いてみたんだ」
「いいねえ、どんな物語?」
「うーんとね、二人の女の子が、コンビニにアイスを食べに行く物語」
「えー?ただアイスをたべるだけ?」
「うん、そうだよ」
「今と変わんないじゃん、恋愛的な要素は?」
「うーん、あるかもしれないし、無いかもしれない」
「なにそれ、面白くないでしょ?」
「うーん、どうなんだろう」
歩は振り返って笑顔を私に見せる。私は、
「あはは、変なの」と言った。
「でも、私の大好きな子が主人公なの」
「えっ?」
「ま、完成してからのお楽しみってことで!」
そういって歩は、ずんずんと前を歩いていく。「ちょっとまって」と言いながら、私も遅れずについていく。私たちの後には、鮮やかな影が二つ、今でも仲良く並んでいる。


SPECIAL THANKS
イラスト提供
ハンナ #pixivhttps://www.pixiv.net/users/38218163


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