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[映画]ブラックレイン

1989年公開
監督リドリースコッチのハリウッド映画。
松田優作の遺作となった、日本人がハリウッド映画で活躍する金字塔のような作品だ。高倉健に内田裕也、さらにガッツ石松という、選りすぐりの日本人キャストが主役を演じる。

高倉健さんが亡くなってしばらく経つ。日本文化が彼らにどう映っていたのかを知りたいと思って今回見ることに。



これを見る時は、字幕版をおすすめしたい。翻訳してしまうと、誰と誰がどこまでの意思疎通ができているのかがわからなくなる。しかも、日本人キャストの声も書き換えられている。


特筆しておきたいのは以下三点

まず1つ目。日本人キャストは日本人が演じていること。

2つめに、それぞれの文化背景が異なることを事実として描いていること。

最後に、淡々と進んでいく知性に目が話せないシナリオ。


それでは1つ目の、キャストだ。

冒頭に述べたとおり、豪華なキャストであることに加え、キャストを通じてどのような映画を取りたいのかが伝わってくることだ。

その中でも、彼らの英語が鍵となって描かれている。日本人なまりで、ブラックジョークは範疇にない、愚直に真面目な英語を話している。英語にネイティブはないというのはよく冷やかしの種にされるが、ここでは非ネイティブの英語で異文化チームを形成していくシナリオをとてもきれいに描いている。

フィクションでの日本像ではなく、リアルな日本像を描こうとしている。


一番自分に響いたのは2つめだ。
各々の信念や文化の違いを肯定も否定もせずただの事実として描いている点。
この映画はその違いを如実に描きながら、そこでトラブルを感情的に描かず、淡々とそこから始まるドラマを描いている。
実際のニュースを見ていると、違いがあるというただの事実から発展するトラブルは枚挙に暇がない。しかし、この映画は違いをお互いに認めた上で共同で行動する姿勢を示している。

端的にいうと。

組織的日本人文化と個人主義アメリカ文化のぶつかり合い

多少強調していても、脚色ではない違いを描いているのだ。

高倉健を軸に描かれる日本警察は、全体主義で感情を押し殺している。全体の正義のため、白黒をつけていく姿勢だ。

逆に、NY市警のメンバーは、必要な自己の利益になることならば行い、グレーな行いをしてでも真実に行き着こうとする姿勢がある。

その姿勢の違いから衝突や仲違いにもなる。言語のニュアンスが違うことでのすれ違いに苦労する姿も描かれている。



最後の知性。

これはこの映画の根幹であり、これを送り出す勇気は相当なものであったと思う。
シナリオは情動的なものの方が、マーケットが大きい。この映画のように視聴者に文化的背景や行動の意味、会話のロジックを考察させるのは、必然的に視聴者を選ぶことになる。
特に、昭和が終わるこの時期だ。カルチャーのギャップがあることを文化の上下として認識する姿勢が強かった時代に、対等に関係を構築していき信頼関係に至る姿を描くのはチャレンジングだったのだろうと思う。

NY市警のメンバーは、自らの不注意が招いた失敗で感情的になっていた。そうするとアジア人への英語を話せない前提の行動や発言が現れ始める。伝わらないと高をくくり笑顔で悪口を言う姿は、自分も経験した程度に一般的なものだ。
そこで、日本警察幹部は、日本語で話し英語を話せないと思わせておいたのだ。最後に彼らの発言を踏まえた上での一言を普通の英語で残して去るという、なんとも粋な行動をする。この無知を装い相手を出し抜く、着実に辛抱強く行動をしていく美学は日本を描く一つのキーポイントだったのだろう。



昨今のハリウッド映画でも、日本人キャストをアジア系で賄っていることも多い。この映画は撮影も大阪東京で実際の場所と人々で行っている。

消費としての映画ではなく、文化を残す意味がとても強いものだと思う。

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