映画「ソナチネ」と「戦場のメリークリスマス」その2
過去記事にも、2つの映画の類似点について書いた。
その後気づいたこと。
戦場のメリークリスマスでは
クリスマスの日に北野武(ビートたけし)演じるハラがロレンス、セリアズに対しクリスマスプレゼントとして計らいをする。
その際、自分のことを「ファーザークリスマス(サンタクロース)だと称する。
この「父」というキーワードがポイント。
ソナチネのロシアンルーレットのシーンでは、「父」から「子」への見えないプレゼントをしているとも言える。
ハラとロレンス(+セリアズ)。
村川とケン(+良二)。
心の絆のようなものを描いている点でも符号する。
サンタクロースは姿を隠して、存在を隠している。
子供からは見えない存在。
しかし、実は一番身近なところにいるという。
この映画のタイトルは当初「琉球ピエロ」あるいは「沖縄ピエロ」(どちらかはよくわからないが)だったという。
「気狂いピエロ」という映画をオマージュしたのでは、という説があるらしい。
それとは別に、ここのロシアンルーレットのシーンはまさにピエロ、道化師だなと思った。
サンタクロースもある意味、道化師だ。
自分の存在をひた隠しにする。
なぜって、それはファンタジーがあるからだろう。
子供にワクワク感をプレゼントしているからだ。
自らが道化師となって、子供を楽しませる。
監督と観客の関係性に変換すれば、観客にこの映画のトリックや肝になる部分は一生知られなくてもいいのだ、ということだろう。
北野武監督、ビートたけしのマインドなのかもしれない。
この映画自体、ひいては人生自体もコメディというかお笑いの大判風呂敷でくるんでしまっている。その大胆さ、奇抜さ。人間の器の大きさ。
映画を通して北野武という人間の偉大さを見た気がする。(最近はどうか知らないけれども。)
また、戦場のメリークリスマスの最後の場面。
「メリークリスマス、ミスターロレンス」とハラがなんとも言えない表情で言う。
まさにこのシーンと、村川が笑みを浮かべながら銃口をこめかみにあてる場面が似ている(ように見える)。
自分の「死」を迎える、そのキワのところで目の前の大切な存在に対して別れを告げる。
ソナチネを観ながら、ハラがそこにいるようにも見えた。
ここ数日間、映画「ソナチネ」に関してネット上でレビューやインタビュー、批評含めいろいろ検索してきた。
映像美や「間」の絶妙さ、スリルについて言及しているものはあったが、見えない部分の構成や隠された裏シナリオについては今のところ見ていない。
私はこれらの記事を書きながら、ふと疑問に思った。
監督に対して私は失敬なことをしているのか?と思う一方で、この映画の凄さをいろんな人に知ってほしいという思いもある。
この映画の深い部分が認知されないまま、表層だけを見て「いいね」「すごいね」と言われている気がして解せないからだ。それでも十分なのかもしれないけれど「本当はもっともっとすごいんだよ!深いんだよ!」とお節介ながら言いたいわけである。
なので、最大限の言い逃れとして、「あくまでも個人の感想です」としておきたい。
ちなみに、冒頭やポスターにあるメガネモチノウオ(ナポレオンフィッシュ)、水深100mあたりの深いところでも見られるらしい。