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コミュニケーション能力(とやら)の現在

 昨今、コミュニケーション能力というものが非常に重要らしい。ツールを含むコミュニケーションのリテラシーについて年齢や立場相応のものが必要であるのは理解できる。しかし、コミュニケーション能力が、何かいろいろある美質に比して不自然に重要に思われていて、コミュニケーション能力以外の美質を持つ人々においてもその美質を犠牲にしてまでもコミュニケーション能力を磨くとされるようなことが強いられているように時折見受けられる。特に就職などにおいて。
 人の採用は能力コンテストの面もあるが、多分に未来の仲間としての相性判定でもあるので、現メンバーとの折り合いの評価の場でもあるはずだ。組織に大きな変化をもたらす突き抜けた個性を求めているようなことが言われることもあろうが、そのようなものが多数求められているなんてことはまずない。
 相性の良いメンバーを集めることが素晴らしいことであるのは言うまでもないが、人は自分と共通する欠点がある人間に親しみを持ちがちであることに注意が必要だろう。メンバー集めなら、自分と共通する欠点がある人間を募るようなことはなかろうが、各種リーダーなどの有名人について、自分と共通する欠点を見つけた場合に、その有名人を誉めそやすことによって、その自身の欠点も少し軽減できるような考えで行動してしまっている人も多いのでないか?そのようなデオドラント願望が存在するということは、劣化有名人の需要があるということかもしれない。需要どころか再生産されて増殖している気もしなくもない。もともと質の低いものの劣化再生産なので、目を覆いたくなる品質である。
 そもそもコミュニケーション能力が重要と言われながらも、答える義務のある質疑の回答を拒否した人間を「鉄壁」と言ったり、答える能力が欠如していて理屈にならない理屈でジタバタしている無能力を「突破力」なぞと呼んで、コミュニケーション能力がないことをあると見なすことが平然に行われている世の中であるので、特に若い人はコミュニケーション能力なぞを気にしすぎることなく、自分にとって大切なことに注力してほしいものである。

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