見出し画像

かりんのかんづめ 〜放浪気味な祖父〜



 我が家は、私が小学校に上がる前まで地元の町営団地に住んでいた。

 狭くて少しボロい2DKの家だったけど、両親と弟の四人で、仲良く楽しく、貧しいながらも幸せな日々だった。

 町営住宅はご存知かもしれないが、収入によって家賃も安くなるのでとってもリーズナブルで素晴らしい環境だった。

 父は、私が三歳、弟が産まれて数か月と言う頃にリストラにあった。

 母は、あの時が人生の危機ベスト3に入ると言っていた。

 両親の苦闘の末、運よくなんと公務員に晴れて就職が決まった。

 狭い2DKに四人家族はいずれ越す必要が出てくる。リストラからの公務員ということもあってか、私が小学校に入る前か後に(ローンの回数を考えても?)家を建てるという両親の判断が下された。

 父が若い頃に購入した土地があった。祖父母が住んでいる家がその土地だった。

 父は後年、“賃貸の大家から、土地を買わないと出ていくよう言われた。家族が住めなくなるからローンを組んで買った。お陰で何も買えない日が続いたけど、あのとき買っていたから家を建てられたなぁ”と言っていた。

 小学生からは、祖父母との家族六人生活となった。
 
 今回は、フリーダム祖父について書きたい。

 両親は、貧乏暇なし然り。
 家にはあまりいないことが多く、夜は弟とテレビを見るか祖父母とトランプやオセロに将棋をしていた。

 祖父とオセロをしていると、祖父は負けが近いと悟るや、いきなり両手を使ってオセロをぐちゃぐちゃにする。
 そして、「もう終わりだ!」と怒って部屋にもどってしまう。

 相手は小学校低学年の子ども、というか孫に対して(笑)

 私も弟もぼーぜんとしてしまった。
 いくら負けそうになっても、我々は正々堂々と戦いに挑むのに!!

 祖父と遊んでも、なんだか楽しくないことを知った。


 しかし、祖父は芸術性に優れていて、習字や絵が得意で歌も上手かったように記憶する。
 そのため、冬休みの書初めの宿題を母から〝祖父に教えてもらったら〟と勧められた。

 祖父とゲームをし続けてきたので、きっと怒りだすだろうなと感じながらも、もう慣れていたので母の言うとおりに祖父に学んだ。

 案の定、祖父は思い通りにいかないと怒鳴りだした。
 いやぁ、毎回しっかり沸いてくれるヤカンのようだった。

 母はそのような様子を見たことがなかったのか、驚いて「もう、大丈夫です!書き終えた中で出します」と怒りを露わにした。

 私は心の中で、助かったぁと思ったことを昨日のことのように思い出す。
 

 祖母に頼まれごとを受けたこともあった。
「おじいちゃん、行くなって言ってるのに、隠れてパチンコ屋に行ってるわ。今日も、午後に行くと思う」と言われ、見ていてほしいという依頼だった。

 まだ小さな小学生の我々は、探偵と化して歩いて7分の近所のパチンコ屋へ行くかどうか、後ろからつけることにした。

 まったく問題なく、その通りにパチンコ屋へ入って行った。弟と、「やっぱり行ってる」と目を合わせて歓喜した。

 少し外で祖父をのぞき見してみた、当時は中の人が丸見えで祖父がどこの台で楽しんでいるか確認が出来た。
 すぐに祖父にバレて、笑顔で中へ入るよう呼ばれた。
 すると、茶色い袋にたくさんの商品が入っていて、欲しいものを取ってよいと言われたので、喜んで「ビックリマンチョコ」をもらった。

 祖父が楽しんでいる横で美味しく味わったことを覚えている。
 
 
 
 父が公務員になったとはいえ、警察や自衛隊、教員や市役所などではなく大幅にお給料の安いお仕事だった。
 もちろん安定している点や、お仕事として転勤をしなくてもよかったので良い点もあったが、裕福な暮らしを望めるものではなく家族六人を養うなんて至難だった。

 家計をやりくりする母は、四人で暮らしていた頃のように笑顔が中心とはいかなくなっていた。
 もちろん、元来明るい性格だったので、基本は笑顔だった。
 結婚してから、ほとんど独身時代に購入したであろう洋服姿しか見かけなくても、笑顔だった。

 あるとき、六人で夕飯を食べているとフリーダム祖父が「なんだ、この味噌汁、具が何もないな。まずい」と言い出した。
 もしかすると、お味噌汁の具材を用意出来ないほど家計は火の車だったのかも知れないし、または忙しかったのかもしれない。

 何を言い出したんだろう、と家族団らんの空気はピーンと張りつめた。
 すると、夕飯を作った母がお茶碗をガンっと大きな音を立てて置き、無言で咀嚼していた。 

 たまげた、たまげた。

 大阪の新喜劇だとしたら、ガンっの音の後にみんなで椅子から転げ落ちるだろうに。
 または、「じいちゃんの血圧のためやろ!我慢せんかい!じいさんのほぼないその毛を入れて佃煮味噌汁にしたろか」とでも言うだろうか。

 
 ある日、祖父はなんの飲み会に行っていたのか、かなり酔って帰って来た日があった。
 私も、もう寝ようとトイレへ行ったところドアを開けた瞬間、驚いた。

 具体的に文章にするのが忍ばれるため、綺麗めに状況を説明すると。どうやら祖父はトイレの便器までの距離感を間違えたようで、すべて便器ではなくその手前で用を済ませてしまっていた。

 床がびしょびしょのため、中に入ることが出来ず、「おかあさん!何これ!!さっきおじいちゃん入ってた」と叫んで助けを求めた。

 母は、「おじいちゃん・・・」となんとも苦渋な声でぼそっと言うと。雑巾を持って、無言で掃除していた。

 その後ろ姿からは殺意を感じたが、母は何も言わずにそのあとも家事の続きをしていた。
 その間、祖父は気持ちよく寝ていたに違いない。

 私は、心の中で、自分の作った料理を不味いとは言われたくない。その人の失態を雑巾で拭きたくないと強く思った。

 
 
 いつしか、祖父の病気、私と弟の進学、祖母の病気と家の大きさは変わらないのに、中の人はどんどん減り、祖父母は会えない人となった。


 
 祖父が亡くなり、かなり過ぎてから、衝撃的な事実を聞いた。

 父方の親戚が我が家に集まっていた時、父の弟妹、つまり私のおじさんおばさんがおじいちゃんの話となった、「父さん、~の飲み屋の女の人といい関係になったことあったよな」

 何?おじいちゃんは習字を書いたり、絵をかいたり、歌を歌ったり、パチンコしたり楽しむ人だと思ったら。そんな楽しみも・・・。

「そうそう、母さんが“だからあの飲み屋には行くなって言ったのに!”って怒ったよね」

「そこで、兄さんが父さんにじゃなくて、母さんに“いいから!もういいから!!”って強く怒って言ってたよな」

 その場にいた、親戚が皆、大笑いしていた。
 母も、笑いながら「おじいちゃんは憎めない人だったからね」と言った。


 え?ええ?!一体どういう事だろう、私には理解できなかった。

 母は空気に合わせて嘘をつくタイプではない、少し天然なところはあるけど、あんなに嫌な目にあっていたのに、憎めない人だった・・・。

 もうけっこうな大人になってから聞いたので、祖父のおイタに私も笑って聞いていた。それでも、母の発言は悟りの境地に感じた。

 
 父は六人兄弟なので、祖父母は本当に大変だったと思う。

 そんな大変さを感じさせず、老後は楽しそうに鼻歌を歌って、人に依頼された習字を書いて。パチンコを楽しんで。たまに人を傷つけて(笑)おイタをしても、家族の笑い話になって。

 祖父の人生って、幸せだったんだろうなぁ。

 もし、またおじいちゃんに出会えたら、次はオセロに負けてあげて、あの鼻歌と陽気な笑顔を横で見たいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?