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双葉荘 7

七、目撃者

翌年の2月だった…この春、私は最後の舞台の仕事を終えることになる。コラムライターとしてのレギュラーの仕事が2本増えたのだ。思い切って執筆を仕事の中心にし、どこまでできるか挑戦してみようと決断したところだった。もちろん美江も賛成してくれた。

いつもの様に2人でコーヒーと朝食を摂り、出勤する美江を見送ると、1人で残ったコーヒーを啜りながらひと息入れていた。そろそろ原稿に取り掛かろうかとテレビを消すと、久し振りにあの感覚が戻ってきた…一階の内装が見慣れた倉田家の内装に変化した。

辺りを見回し、倉田の姿を探したが、彼の姿は見付けられない。しかし幻影は安定している様だ。二階に上がってみることにする…

階段にも誰もいなかった…二階の六畳間にも寝室にも倉田の姿は無い…倉田の奥さんらしい茫洋とした女性の影だけが、六畳間を動いている…不確かだがカーディガンとスカート姿に見える…箒を持ち、部屋を掃除しているようだが、その容貌やシルエットは残像のように空間を流れているに過ぎない。

彼女はふと立ち止まり、手に持った箒を置くと、急ぎ足で階段を降りる…どうやら誰かが訪れたようだ。私も再び階下に降りた。

彼女が玄関の扉を開く…外に誰かが立っているようだが、その姿は殆ど見えない…彼女は外の人物にしきりと頭を下げている…

もちろんどんな会話が交わされているのかは、全く分からない。やがて扉が閉まり、外の人物が玄関の中に入って来ると、ほぼ透明の彼女の姿を通してその人物の姿が次第にはっきりし始めた。

大きな男性だ……顔はまだよく分からないが、ジャケットを身に着け、きちんとした身なりで眼鏡を掛けているようだ。彼女は余程恐縮しているのだろうか、まだ頭を下げ続けている。

男は構わず家の中に上がり込み、勝手にテーブルの椅子に腰掛ける…

彼女は食器戸棚の小さな引き出しから小さな手帳を取り出して、彼に手渡す…見覚えのある手帳だ…あれは我々も持っている…大家の寺田氏から渡された月家賃の領収記録帳だ…ということは…そう気付くと、男の容姿が次第にはっきりし始める…

年の頃なら30代…がっしりとした肩幅…きっちり七三に分けられた髪形…そして、人を見下すようなあの目つきは…大家の寺田だ…間違いなく26年前の寺田だった。

寺田は彼女から手渡された手帳を開いて彼女に指で示す…開かれた手帳には、昨年の11月以降判が押されていない…向こうがこちらの時間とシンクロしたまま進んでいるとしたら、4ヵ月分の家賃が滞納されているということだ。

寺田はしきりと頭を下げる彼女に微笑み掛け、何かを言いながら立ち上がって、彼女に近付いた…彼女は身を強ばらせているようだが、その表情を見ることはできない…突然、寺田は彼女に襲い掛かった…

「お、おい、やめろおっ!」思わず叫んでしまったが、彼らにそれが聞こえる筈もない。

寺田は大男だ。彼女がどんな表情で何を訴えているのか分からないが、必死に彼の手を逃れ、外に逃れようとする…

寺田は笑顔のまま行く手の玄関を塞ぐ…

彼女は階段を駆け上がる…

寺田は慌てる様子もなく、ゆっくり階段を昇っていく…

私は何とか寺田に私が目視出来ないかと、目の前に立ってみるが、どうやら全く見えていない様だ。

寺田は彼女を寝室に追いつめ、再び襲い掛かった…

巨漢に押し倒され逃れるすべを失った彼女は、大声を上げ始めたようだった。

寺田は慌てて彼女の口を押さえる…彼女はその手を振り解こうと首を左右に大きく振る…

寺田はもう片方の手で首を押さえつけた…次第に彼女の動きが弱くなり…

やがて、動かなくなった…

暫く彼女の上で呆然としていた寺田だったが、やがて自分が何をしてしまったかを理解したようだった。明らかに狼狽えていたが、どうやっても彼女が蘇生しないことを確認すると、いつもの冷静な顔つきに戻る。

私はその後の彼の行動を目の当たりにすることになった。今思い出しても怒りが込み上げてくる。

寺田は落ち着いた様子でポケットからハンカチを取り出した。そして、寝室の引き出し棚を指紋が付かないように慎重に物色すると、中から寝巻きの浴衣の帯を一本取り出す。

帯を六畳間と寝室の間の鴨居に掛け、高さを測るように端を固く結んだ。

そして、彼女の身体を軽々と抱き上げ、首を帯に掛け、何の躊躇もなくぶら下げた。

彼は暫く周囲を見回すと、やがて一度階下に降り、一脚の椅子と家賃の手帳を持って戻ってきた。

浴衣の引き出しは空けたままに、椅子は中空に揺れる彼女の足元に倒され、手帳は隣の部屋の卓袱台の上に広げて置かれた。

最後に寺田は階下の家具の乱れと自分の服装の乱れを慎重に直し、自分の持つ鍵で玄関を閉め、平然とした様子で引き揚げていった。

私はそこで1時間以上を過ごした。これ程長く幻影が続いたのは初めてのことだ。必死で考えを整理しようとした。

あれは26年前に起きたことだ。彼女はまんまと自殺として片付けられてしまうのだろう。寺田は何食わぬ顔でいまだに大家を決め込んでいる。自分が人を殺した家を平然と貸家にし、家賃を取り続けている。

たとえ事実が今露呈したとしても、とっくに時効が成立しているのだ。ましてや私は26年後の人間だ。どうすることもできない…倉田に奥さんは自殺ではなく寺田に殺され偽装されたのだと伝えるべきなのだろうか…自殺と他殺とどちらが彼を苦しめるだろうか?…

美江の事務所に電話を入れてみた。あいにく美江は席を外していた。

もう一度二階を確認しに行く…もしかすると寺田は何か重大な証拠を残しているかも知れない…彼女は変わらず2つの部屋の境にぶら下がっている。朧げで表情も見ることができないのがせめてもの慰めだ。

二階をくまなく確認してみたが、寺田の後処理は完璧だった。これが現代なら、検死で絞殺と自殺の違いが分かるのだろうが、この時代では望み薄だ。

下で電話が鳴った。慌てて降り、受話器を取ると美江だった。

「どうしたの?電話くれた?」
「俺、今、えらいもん見ちゃった…」
「何?…倉田さんのこと?」
「ああ、倉田さんの奥さん、今さっき、寺田に殺された…」
「ええーっ!寺田って大家さんっ?倉田さんは?」
「どっか、出掛けてるみたいなんだ…寺田、自殺に偽装して出てった。俺、全部見たんだ…なあ、どうしたらいいと思う?倉田さんに教えてあげた方がいいかな?このまま自殺だと思わせた方がいいと思う?」
「何言ってんの?事実はちゃんと伝えなきゃ駄目よ。見たんだったら見たことは伝えないと」
「そうか…そうだよな…」
「あたし、今打合せ中だけど、すぐ終わらせて帰るから…分かった?教えてあげるのよ」
「ああ、分かった…」

電話を切ると、私は交信用のノートに大きくこう記した…
『奥さんが死んだ! 寺田に殺された! 絞殺だ。自殺じゃない!』

倉田が帰宅するまで、その状態は続いた…

まんじりともせずテーブルに座っていると、突然玄関のノブの鍵が回り、扉が開いて倉田が画材らしき荷物を手に入ってくる…二階に向かって何か呼び掛けたようだったが、直ぐに私の存在に気が付き、にっこり微笑んで玄関先に荷物を置く…私は慌てて立ち上がり、ノートを彼の目の前に広げて指し示した。

彼はキョトンとして、しばし状況が把握出来ない様だったが、ノートの内容と私の表情を見て、すぐに二階に駆け上がった…私も彼の後を追ったが、階段の途中で全てが消滅してしまった…

26年前のこの時間に何がどう進展しているのか、一刻も早く知りたかったが、その後一向に幻影は現われず、時間だけが過ぎてゆく…やがて美江が戻ってきた。


「本当なの?それ…」
「ああ、一部始終全部見た。最初から最後まで…奥さんと寺田がどんな話してたかは分かんなかったけど、あの家賃の手帳があるだろ?寺田の奴、未払い状態見せて、ニヤニヤ笑って奥さんに迫ったんだ。どんな話か聞かなくても分かるよ。とんでもねえ野郎だ。絶対に許せねえ…」

私は怒りのつかえが治まらず、見たこと全てを克明に彼女に話して聞かせた。美江は黙って話を聞いていたが、私が話し終えると暫く思案している様子だった。やがて口を開いた…

「どうするつもりなの?あなた…」
「どうするも何も、どうしようもないよ。ただ、倉田さんあれからどうしたか、心配なんだ…」
「あたし…怖いわ…だって、大家さんまだすぐそばに住んでるのよ。覚えてる?あたし達が初めて大家さんのとこに行った時のこと。寺田さんあたしのことじろじろ見て…あたし、もうここに住みたくないわ。ねえ、ここ、出ようよ。もう関わりたくない。今さら警察に届けたって、時効でしょ?証拠もないし…」

自分の怒りにばかり気を取られていたが、確かにその通りだ。殺人者がすぐ50メートル先に住んでいるのだ。しかも毎月私は顔を合わせている。

「分かった…そうだな。君、取りあえず実家に帰ってろよ。後のことは俺が全部やるから…」
「あなたは?…」
「俺は、もう少しここに残る。倉田さんの様子、知りたいから…」
「ねえ、大家さんに言っちゃ駄目よ。あなたが危ないわよ。向こうは誰も知らないと思ってるんだから…危ないことしちゃ駄目だからね」
「分かったよ。まあ、向こうだって今さら俺が何言ったって、どうにもならないことくらい充分分かってる筈だからな。やたらと口封じなんてこともしないだろう。どっちにしろ、もう一度倉田さんと交信ができるまで、ここに残ってみるよ」

「ねえ…沙季さん、大丈夫かしら?…あの人殆ど一人よ。今まで変なことなかったのかしら?何だか心配だわ」
「でもなあ…26年前のこと見たって言ったって、信じないだろう?もしかして沙季さんが倉田さんのこと見てるんだったら、話は早いけど…」
「どうする?」
「後で、おすそ分けでも持って行きがてら、ちょっと探ってみようか?」
「あ、じゃ、あたし、何か作るわ」
「そうだな…でも、いいの?もうここに居たくないだろ?」
「いいわよ。今晩一晩くらい。その代わりずっと一緒にいてよ。一人にしないでよ」
「分かった…」


夕刻前、美江が冷蔵庫の中を物色して作った煮魚を器に盛って、2人で隣を訪ねた。しかし、いくら呼び鈴を押しても人の気配はない様子だった…

「珍しいわね…お買い物かな?…この時間はいつも居るのに…」
「ま、帰って来たら分かるだろう。後でまた呼んでみよう」
「そうね…」


夜になっても沙季が戻ってきた様子はなかった。2人はそのまま一階のダイニングで待機していた。2度目の訪問の時に書き置きを貼り付けておいたのだ。

「沙季さん、どっか行ってるみたいだな」
「そうね…戻ってないみたいね…ねえ、そろそろ、夕ご飯にする?」
「そうだな…そうしようか…」

二人とも殆ど食欲はなかったが、何とか形だけの夕食を済ませる。食後美江は隣町の実家に連絡し、明日から暫く身を寄せる旨を伝えた。もちろん詳しい事情は話せないので、夫婦喧嘩の冷却期間だと口裏を合わせることにする。

二人ともただテレビを空ろに眺めながら、悶々とした時間を過ごした。沙季は深夜になっても帰宅した様子はない…倉田との交信の機会も訪れなかった…

「どうする?そろそろ寝る?明日も早いんだろ?」
「明日はお休みする。そんなに急いでやらなきゃならないこともないし…必要な物もまとめなきゃだし…」
「じゃ、二階に上がろうか…」
「嫌だ…荷物は明日明るくなってからやる。だって、倉田さんの奥さん、寝室で殺されたんでしょ?」
「そうだな…でも、このまんまここで朝まで起きてるの?…そんならパジャマと布団、取ってきてやろうか?」
「嫌、1人にしないで…」
「じゃ、階段のとこまで一緒に来いよ。俺、ささっと取ってくるから…」
「ささっとよ」
「分かった分かった…」

テーブルを端に寄せ、その夜はダイニングの板の間に布団を敷いて、二人寄り添うように眠った。この夜が2人で過ごす最後の夜となった。

第八章へつづく…

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