桜の森の満開の下 坂口安吾
大きく息を吸う。吸い込んだ息は風船を三度膨らませる。とうとう風船が割れ、そこにいる自分にはたと気付く。そんな作品。
この作品は気付きをキーワードに四部に分けられる。
一部。美への気付き。
「大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。〜中略〜桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。」
確かに、桜の花舞い散る中で一人歩いていると、散る花が演出をしているのか、視覚で風の音を感じていたではないか。音もなく音がする。あの不思議な感覚がこの話の前提になる。
主人公は一人の山賊。追い剥ぎ、人攫いをし、七人の女房とともに暮らしている。
そんな日々を過ごす中、ある夫婦と出会した。妻の美しさに目だけでなく心まで奪われる山賊。旦那を殺し、妻を自分の女房にする。
その女房はとてもわがまま者だった。古い女房を山賊に殺させたり、ご馳走を用意しても不服を言ったり。
しかし、女房は美しかった。男の知らない都のもので飾り付けると、山賊はそこに完成した美を見る。知らない世界の知らないもので作られた、出会ったことのない美しさ。筆者の言葉を借りると、魔力とよべるほどのものだった。
美しくも怖さを感じる桜のようだった。
二部。空間の広がりへの気付き。
女は都に住みたいという。山賊は山を出たことはなく、山が空間的な際限だった。強さを自覚していた。追い剥ぎをやってきたわけだから、自分の腕には自信があった。猪でさえもさして恐るべき敵ではなかった。しかし、自分の知らない強さがあることを知る。
こうして、自分の世界の全てであり、誇りでもあった山から出て行くことになる。
三部。時間の広がりへの気付き。
女房は都会の生活を楽しんだ。欲しいものも全て手に入れることができた。生首でさえも、山賊に頼むと持ってきてくれた。毎日する生首遊びに満足する女房とは対称的に、山賊は都の生活に飽き飽きする。全てに退屈を感じるようになる。代わり映えのない毎日。ひたすら生首を持ってくる毎日。まるで無限の明暗を繰り返しているような気がした。
そんな中、一本の桜に気付く。あぁ今は山の桜は満開かと。そうして女房とともに山へ帰る。無限に広がるような時間にピリオドを打つために。
四部。生きること=孤独への気付き
心を病んでいることを察したのであろう。女房が優しくなる。愛を言葉にしてくれたり、二人の出会いの思い出を話したり。
幸せな想いで溢れる山賊は、女房を背負い山へ。
初めて会った時も、こうして背負っていたな。
桜の花の下に来る。冷たい風が吹き、女房が鬼に変わったことに気付く。山賊は鬼の首をしめて殺す。しかし、鬼だと思っていたのは女房の死体。悲しみに彼の呼吸、力、思考が止まる。
ここで最後の部分を引用。
「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔に届こうとした時に、何か変わったことが起こったように思われました。すると、彼の手の下には降りつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになってしまいました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も延した時にはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」
風船を膨らましてとうとう破裂し跡形もなくなる。
その音で我に返り、外は夕方になっているのに気付く。