カーコラム「WRCメモワール スウェーデンでの3台エンジンブローから僅か1か月。スバル、起死回生の95年ポルトガル」

 三菱がエリクソン、マキネンの1-2フィニッシュ飾った95年のWRC第2戦スウェディッシュラリー。

 このラリーでスバルはエントリーした3台に搭載された水平対向エンジンがブローアップという悲劇に見舞われた。ピストン、シリンダーライナー、このあたりの重要な部品がブローアップしてしまったのだ。

 このエンジンブローがあったのが2月の11、12日。95年WRCの3戦目は3月8~10日のポルトガル、この短い期間にエンジンの完全な見直しと対策部品をつくる必要があった。

 当時のSTi社長は久世降一郎氏、そしてスバルの社長は川合勇氏だった。エンジンが壊れたことを久世氏から聞いた川合氏は、すぐに動いた。その当時のことを久世氏は「問題のあった部品はイギリスでつくられていました。それを聞いた川合さんは、『それは私の知っている会社でつくれる』と自分で直接電話を入れると、その会社へ行ってしまいました。富士重工の社長本人が直接来たのですから、相手もビックリしたし、すぐに対策部品の製作にとりかかってくれたのです」と語ったことがある。

 かくして、部品は次のポルトガルに間に合った。この年のポルトガルは、第1レグで行なわれていたターマック部分が無くなり、3日間ともグラベルのイベントになっていた。スバルはカルロス・サインツとコリン・マクレーに加え、リチャード・バーンズを加えた3台体制で臨んだ。

 第1レグはトヨタのユハ・カンクネンのリードによって始まった。それは第1レグ終盤のSS10まで続いたが、この日最終のSS11、26.45kmのセクションで2位につけていたサインツがスーパータイムをマーク、2位タイムのカンクネンに14秒もリード。サインツは第1レグをカンクネンにプラス6秒としてラリーリーダーに立ってしまった。もはやスバルのエンジンに何の問題もないのである。

 しかし第2レグ、春のポルトガルは意外なほど気温が高くなる。生産車と同じく、エンジンの上にインタークーラーを持つ当時のインプレッサは、太陽が照り始めると吸気温度が下がらず、次第にパワーダウンし始めた。そしてカンクネンはサインツを逆転、SS14でトップに立つと、サインツに22秒の大差をつけてしまった。3位にいるマクレーとはすでに1分27秒差、最終第3レグはカンクネンとサインツ、この2人の対決になったのである。

 最終レグは雨。太陽が出れば半ソデ、しかし雨になればキルティング、それほどの温度差のある3月のポルトガルで、天候はスバルへと味方した。低い外気温によって、スバルのパワーは再び上昇したのである。ポルトガルといえばアルガニル。そんな有名なエリアを走る最終レグで、サインツは一気に勝負へと出た。その名もSS23アルガニルでSSベストをマークすると、SS25もベストタイム。一方のカンクネンはSS26~27をSSベストで、2人のバトルはヒートアップ、戦いは午後の6SSへと進む。

 午後の6本のSSも2本が終了し、残り4SSのSS30でサインツのスーパータイムを叩き出す。カンクネンを11秒もリードし、ここで2人は同秒となってしまった。こうなると追い上げる者、サインツが強い。次のSS31、再びサインツのSSベストで、カンクネンはわずか2秒負け。SS32でもサインツのSSベストとなり、2人の差は9秒となった。

 そして迎えた最終SS33、なんとサインツを悲劇が襲う。フロントタイヤを木に当てて、フロントブレーキが効かなくなってしまったのだ。だがナビのルイス・モヤは、それでもフルアタックをカルロスに指示。そのSSゴールへ入ってみたらなんとサインツのSSベスト、トータル12秒のリードでスバルとサインツは勝っていた。

 スウェーデンでのエンジンブローからわずか1か月弱、スバルの強さが再確認された95年ポルトガルだった。



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