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カーコラム「WRCメモワール 記念すべきWRC初勝利を目前にしてのリタイア! ブルーノ・ティリーの無念」

 毎年、シーズンが変わるごとにワークスシートを失う有力ドライバーたちが出現する。2001年から2002年のWRCにかけては、ディディエ・オリオールとブルーノ・ティリーがワークスドライバーの座を失うことになった。今回はそのブルーノ・ティリーの物語である。

 「いいヤツなんだけどね」とWRC関係者が口を揃えて言う、好人物のティリー。1962年生まれのベルギー人、ラリーにデビューするのは1981年である。私が彼の名前を初めて知ったのは、91年のアフリカ・アイボリーコーストだった。この年のWRC第12戦として開催されていた3272kmほどのタフ・ラリーに白いオペル・ガデットで出場していた。この時はギャランの篠塚建次郎が勝ち、ティリーは初のアフリカ・イベントに苦戦の末、12位であった。

 94年、ティリーはフォードワークスへと入り、翌95年WRC第4戦のツールドコルスにフォード・エスコートRSコスワースで出場。全22SSのうちSS19までをリードしながら、フロントハブのトラブルからリタイアとなってしまった。そして2001年、スコダのワークスドライバーとして走ったが、勝てるチャンスがあったのは95年ツールドコルスのみ。結果はWRC優勝無しのままワークスシートを失うのである。

 さて、その95年ツールドコルス。当時はコルシカ島を1周するビッグスケールの3日間で戦われていた。全22SSのトータルは489.92kmで、現在より100kmは長いSS距離。今の380kmレベルだったら、ティリーのダントツ、ぶっちぎりのWRC初勝利だったハズ。まさに無念のラリーであった。

 この3日間の戦いは、第1レグ、南のアジャッシオから北のバスティアへと向かうステージで始まる。ポート・ベキオという港町を回りながら一度南下してコルテを通り、バスティアへと北上するSS8までの1日目。ティリーはチームメイトのフランソワ・デルクールとSS1で同秒ベストタイムを出し、SS2からSS4までを単独ベストタイムと、その速さをアピール。ラリーのトップに立った。

 しかし、ブレーキのトラブル、ガソリン漏れ・・・と、トラブルが続き、デルクールに6秒という僅差で1位になった。そしてバスティアからカルビへと向かう第2レグ、ティリーは好調にリードしはじめた。チームメイトのデルクールはミッションのトラブルからトヨタのディディエ・オリオールに追いつめられ、わずか2秒差で2位。この時点でオリオールの追い上げが見えてきた。

 そしてカルビからアジャッシオへと戻る最終第3レグ、予想どおりオリオールが2位に進出。でも、トップのティリーとは35秒以上の大差があった。そしてティリーは最終レグもSSベストをSS17、SS18と出しながら、順調にトップをキープしていた。しかし残り3SSというアジャッシオに近いラリーの終盤、SS20にて大異変が発生した。

 ティリーのフォードは、フロントハブ、そのベアリングがバラバラになってしまったのだ。近くにフォードの関係者やメカニックはいるが、この区間ではサービスはできない。当然、ティリーがベアリングのスペアを持っているわけでもなく、必死でタイヤを外し、自分たちで何とか修理しようとするも、それはムリ。優勝直前、それも初めてのウィニングサークル目前でラリーをリタイアすることになってしまった。

 その後、ティリーは98年までフォード、99年はスバルで戦ったが、2000年にはシートを失い、そして2001年に再びスコダへと加わり、2002年は再びワークスの座を失った。

 "良い人"なのだけど、あと一歩というところで勝てないドライバーとなってしまった。


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