カーコラム「WRCメモワール サインツをスケールアップさせた1990年サファリ・ラリー」

 以前書いたとおり、当時のサファリラリーは大変だった。3月から4月にかけて開催されていたラリーのテストが始まるのが前年の12月、さらに1月からは本格的なテストも始まる。

 サファリのテストドライバーをまかされたドライバーは、1月からラリーの終わる4月初めまで、ナイロビのホテルに住むことになる。トヨタのミカエル・エリクソンやマルク・アレンは、そういった経験をしている。だから前戦基地となるワークショップは年間を通じて借りっぱなし、そこにサファリ用のパーツや特殊なサービスカーは置きっぱなし、という体制。サファリラリーは他のWRCの3倍、いや10倍は大変なイベントだった。

 さらに、である。日程は4~5日間で5000キロ以上も走る。だから、サファリラリーに出場したくない、そんな考えを持つトップドライバーも多かった。例えば、ターマック育ちでフランス人のディディエ・オリオールは、サファリラリーは1994年が初出場。その時、1位はチームメイトでトヨタのイワン・ダンカン、地元のスペシャリストだ。2位は三菱の篠塚建次郎、そして3位にオリオール。オリオールにしてみれば、他のWRCに行ったらダンカンや篠塚に負けるハズはない。でも、サファリでは負けた。「なぜ、オレがダンカンやシノズカに負けるんだよ。オレはこのラリー、好きじゃねえぞ」と、ラリーの後、本音を語ったことがあった。

 そんなワケだから、カルロス・サインツがトヨタに入った89年は、このサファリラリーに出場しなかった。しかし、チャンピオンを目指すとなると、そうはいかない。翌90年のサファリには初出場することになった。その年は4月11~16日の開催。毎年4月に入れば雨期のケニアだから、最悪のマッドコンディション、ドロ沼のスーパーSS1から始まった。

 初ケニアのサインツは、当時のトヨタでサファリでのエース、ビヨルン・ワルデガルドや開発ドライバーのM.エリクソンらと比べたら、とりあえず出てみようといった気分のドライバーだった。したがってレッキも1周程度、マイスターの2人に比べたらまるで走りこんでいない、といった様子。当然、ベテランのワルデガルドには大幅にリードされ、格下のエリクソンにも抜かれている。まさに、若手バリバリの、若きトヨタのエースを張っていたサインツにしては、イヤイヤ出場した走りたくないラリー、そんな感じの戦いだった。

 そしてラリーは後半に入った。サインツは4日間の日程の3日目だったと思うが、ウェット路面にスリップ、大きな岩にフロントをクラッシュしてしまった。ラジエター、インタークーラーを大破し、本人は無線を通じて「これ以上は走れない。リタイアしたい」と連絡してきた。これを聞いた、このサファリラリーを指揮していたTTEのエンジニアでサファリ大好き人間のドイツ人、後にカローラWRCを作りあげることになるレイラーは「ダメだ、カルロス。君をリタイアさせない。要求するパーツはすべてヘリで運んでやる。最後まで走れ、最後まで戦え」とサインツの弱気を感じての行動にでた。

 翌日、サインツのST165セリカGT-FOURは、グチャグチャのフロントグリル、アニマルバーにはワイヤーロープがかけられ、フロントサスペンションは八の字に開ききった、まさにガタガタの状態で4位のゴール台へと立っていた。優勝のワルデガルドから4時間半も遅れた総合4位。その結果にニガ笑いするサインツに、ナビのルイス・モヤが手をたたいて苦戦だった4日間を振りかえるような仕草。これ以来、サインツはひと回りスケールアップ。しつこい戦いで、その年のドライバーズチャンピオンを得るのである。


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