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私。

怪しい場所で出逢った怪しい霊媒師に「天狗が左肩に乗ってる」と怪しいことを言われた。待てよ、そーいえば昔から時折左肩にレントゲンには映らない謎の激痛が走る。
義経が天狗と修行してたと専ら噂の京都・鞍馬寺の奥の院へ行くよう促され行ってみた。待てよ、そーいえば小5の夏休みに、タイムスリップして義経と平氏をやっつける最高に面白い小説を書いた。
道は険しく、隆起した木の根っこが足首をガンガン狙ってくる。汗だくで到着すると、奥の院・魔王殿前のベンチに年配のおばさん二人が座っていた。その二人、私を見るなり「あらー、立派な天狗さん来はったわ。」と微笑み、手を合わせて拝んできた。話してみると、二人は霊媒師だという。怪しいぜ。そーいえば私の左肩を狙って拝んでた、気がする。
私の生まれ育った実家は神社の前にある。その神社では毎年秋の大祭が行われ、メインイベントとして獅子舞が奉納される。闇の中から案内人の提灯に照らされ獅子が現れ、神社中央まで歩いてくる。よく見ると、獅子の足は6本。舞いの中盤、獅子の腹の中から天狗が飛び出してくる。それまで厳かな雰囲気を維持していた舞いが、天狗の登場で一気にテンポアップ。獅子、精一杯のパーティナイト。やがて、疲れた獅子は蹲る。天狗はしばらく獅子に寄り添い、何かを思い出したように走って闇に消えていく。その天狗は父が演じていた。
突然他界した父の葬式で、近所のおじさんが「ええ天狗さんがおらんようになった」と号泣し、私の左肩を叩いた。その世界観に従うならば、私は天狗の子なのだ。
私は19歳で母の実家へ養子に入った。田んぼだらけの典型的な限界集落予備軍、そこには大きな神社があり、本堂の正面には天狗が祀ってある。天狗の子は、新たな天狗の村へ移り住んだというわけだ。
私は旅先でよく天狗を見る。温泉街の土産屋をウロウロしていると不意に左肩を叩かれ、振り返ると民芸品の天狗面の鼻、知らない街をほろ酔いで歩くとネオン看板の中に天狗という名の居酒屋、道路にテングビーフジャーキーのトラック。ミラノではジャパニーズテングと書いたTシャツ。ヴェネチアでは様々なマスクの中に鼻の長いものがあった。

あの時、父が演じる天狗は何を思い出し、獅子から離れて闇へと消えていったのか。何故、急いで走り去ったのか。私に何か言いたいことはなかったのか。
その場に残された私は誰だ?

私は天狗の子だ。


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