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小説 | やさしい復讐

プロローグ 北川ゆいという幼馴染が、いた。

翠川静には、北川ゆいという幼馴染がいた。

小学生の時、学年すべての男子が好きだった女の子。
男子の「誰が好きなの?」という話題で、まずみんな1番は「北川さん」。そして「じゃあ2番は?」でやっとバラけて盛り上がる。そのくらいの人気があった。

中学に上がってからは、カッコいい先輩、ちょっと悪い先輩、頭のいい先輩、運動のできる先輩、それぞれに放課後呼び出されて告白されていた。そのうち誰と付き合って、誰と付き合ってないのかは翠川にはわからないけど。

高校は、ラクロス部のエース。日本の代表選抜に参加するなど、日本のラクロスを牽引する選手に。誰に対してもフラットで、一生懸命で、みんなが応援する女の子。

そんな女の子が、繁華街で朝方、派手な化粧と服装のまま遺体で見つかった。

彼女は当時十八歳だった。

翠川静には、北川ゆいという幼馴染が、いた。




第1章 翠川静は、起業していた。

(1)DAWN inc.

「おはようございます!」

 元気のいい挨拶がオフィスでかわされる。午前9時。翠川の会社では、今どき珍しく朝会がある。毎朝、この24時間であった新しいことか、良かったことを4人1組で共有するGood & Newという仕組みを導入している。メンバーの1人が友達と自発的にやっていたものが広まって、今では会社の殆どのメンバーが参加するようになった。

ベンチャー業界の他の起業家には「宗教じゃん」と揶揄されることもあるが、勝手に広まったこの仕組を翠川自身は気に入っている。昨日の夜も遅かったが今日も参加した。今日は翠川以外に、森田、駒井、小倉の4人でグループになる。

「おはようございます。じゃあ僕から」

いつも元気な駒井がいつもどおり率先して話し始める。彼はエンジニア。特に、バックエンドと言われるサービスとして人の目に直接は触れないが、そのサービスが適切に動くようにする部分を担当する。海外のカンファレンスにも呼ばれ「彼はスーパーだ」と言われていた。エンジニアといえば物静かで職人のような人ばかりだと思っていた翠川の想像を裏切り、うちの会社のムードメーカーになっている。

「昨日、大学時代の友人と会ったんですが、そのとき、すごく可愛い子も一緒に来てて仲良くなれたんでよかったです! ちなみに、自分の好みを共有しておくと、目元がたれたパンダ顔の子みたいです。意識してなかったんですが、昔からの友達に聞くと付き合う子全員そんな感じらしいです」


駒井らしい、そう思って頬が緩む。Good & Newをやるようになって、会社のメンバーとより仲良くなった。平均年齢が20代なかばだからか、どこか友達と一緒に遊んでいるように仕事をしている。

 翠川の会社、DAWN inc.は、今では40名程度のメンバーを抱え、売上規模も十数億円。業界の中でもかなり期待されている。最近では会社の代表としてよく取材も受ける。その際「どういう想いで起業されたんですか?」と聞かれて困ってしまう。今でこそ、『働く人達がみんなもっと心震えるような体験ができるように』と心の底から思っているが、はじめはもっと適当だった。

 思い返せば、はじまりは1つのWebサイトだった。
 社会人になって3年。周りが転職を意識し始めた頃、翠川も転職サイトを覗いてみた。そこには「年収」「希望スキル」などの文字が並ぶ。「就職活動と一緒だな」と、あの頃の苦い記憶が蘇る。翠川は、そういう「正解」がある世界が苦手だった。「就活生はこうすべき」という文字の並ぶ書籍も、同じような服装と髪型で、決まりきった回答をする自分たちも、端的に好きになれなかった。
 社会人として経験を積んでも、転職するならまた同じようにするのか……。
 そう思うと、転職も気が進まない。そんなとき、ふとSNSで友人が起業するという投稿を見かけた。そこには「自分はなぜ起業をするのか」「どんな世界を創りたいのか」が熱く書かれていた。「いいなあ、こういうの」素直にそう思った。もっと色んな人の起業の話が見たいと思って検索してみたが、中々そういう情報にたどり着けない。
「ないならつくってみるか」
 そうして出来上がったのが『起業秘話.com』。
 会社を創った経営者が、どんな気持ちで立ち上げたのか、どんな世界を創りたいのかをまとめた簡単なサイト。はじめて触ったワードプレスだったけど、10日もすれば、使えるようになった。大きい企業よりも、小さい、特にこれから急成長を目指しているベンチャー企業のような企業を中心にまとめていった。情報のない企業には直接連絡をした。自らの事業を聞かれる事が嬉しいのか、ほとんどの経営者は楽しそうに話してくれた。
 Webサイトを公開し、仕事の後や休日に少しずつ情報を加えていくと、ある時から「サイトを見て、転職を決めました」「自分の会社が、こんなビジョンを持ってたなんて知りませんでした」「サイトから転職希望者が来て、内定しました」のような声がよく届くようになった。また、企業からは「こういう情報や写真も載せてほしい」「中で働く人たちのこともわかるようにしてほしい」という要望もくるようになった。

機能を日々追加していく内に、求人マッチングサイト『ココフル』が出来上がった。企業は「なぜやるのか」「どんな世界を創るのか」を中心に会社のことを語り、転職希望者は自らの「やりたいこと」「やってきたこと」を語る。給与や条件は一旦置いておいて、自分たちのやりたいことがマッチした人から気楽に出会っていく。『ココフル』から一定の売上も上がるようになり、翠川は起業することにした。自分では起業のことなんて考えてなかったけど、不思議なもんだなと。ただ、自分の作ったサイトで働く人達が心震えるような体験をしていってくれてるのをみると、頑張ろうって思える。『ココフル』でビジョンを語っている人たちを見ながら言うのはちょっと矛盾しているかもしれないけど、始まりはそんなキレイなビジョンなんかではなく、少しの行動だったのかもなーって思っている。

 そこから3年。今ではメンバー40人、登録企業数1000社、登録個人ユーザー1万人と順調な成長を遂げ、売上も十数億円となった。自分より優秀なメンバーと一緒に、どんどん成長していけるのは楽しい。でもだからこそ、残りの人生の使い方を考えてしまう。「人は案外すぐに死んじゃうからな」誰に言うでもなく、そうつぶやく。


(2)とあるBAR

考えがまとまらなくなって、翠川は近所のBARに来た。普段あまりお酒は飲まない。昔は営業という名のもとに付き合いでかなりの量を飲んでいたが、会社の代表として目の前のことではなく、5年、10年先を想像していくのに、アルコールが邪魔だと感じるようになった。ただ、今夜は飲みたかった。
「ウイスキーをロックでください」
 自分が「ウイスキーをロックで」と頼むなんて笑えてしまう。昔読んだマンガでカッコいい登場人物が頼んでいたのを真似して、大人になって頼んでみた。そこからいつもこんな感じで頼むようになった。今でもどこかそのモノマネをしているような気分になる。もしかしたら、自分が見ている大人の人たちもそんなものなのかもしれない。心の内はわからないけど。
「おまたせしました」
 カウンター越しにギャルソンに身を包んだ男がお酒を出す。随分と若い。端正な顔に、オールバックがよく似合っている。この店には割と来ているが、初めて見る顔だ。
「お兄さん、名前はなんていうんですか?」
「黒羽と申します。黒羽遊」
 いい名前だなって思う。この青年の姿形になんというかよく似合う。どこか神秘的で、だけど無邪気さが目の奥にある。名前を聞いてより魅力的に見えるようになるなんて不思議だ。
「黒羽さん、俺どうしたらいいかな?」
 黒羽との会話を楽しもうとオープンクエッションにしてみる。絡み酒になってたら申し訳ないと思いつつ。黒羽は少し驚いた顔をしたあと、微笑みながら答えてくれた。
「そうですね、決めたらいいと思いますよ?」
「え?」
「その前に、お客さんのお名前お聞きしてもいいですか?」
「ああ、翠川です。ごめんね、名乗るのが遅れました」
「いえいえ、そうですね。なにかこう翠川さん悩んでいるように見えました。いや、もっというと自分の中で決まっていることがあるけど、最後のひと押しがほしい感じというか」
 鋭いな。うなずいて先を促す。
「今日は何か特別な日なんですかね?いい日、というよりも過去悲しいことあった日、って感じかな」
 ……驚いた。
8月17日。今日は、北川ゆいの命日。翠川にとっては特別な日だ。
「すごいね」
 素直にそういった。
「適当です」
 そういいながら黒羽は笑った。笑った顔をみると、先程よりも幼く見えた。
「どうしてわかるの?」
「ほんと適当なんです。コールド・リーディングって言ったりもするらしいんですが、なんかこういうの得意なんですよね。昔から」
 妙に納得感があった。この青年には、そう思わせるなにかがあった。
「種明かししましょうか?」
「おお、きいてみたい」
「そうですねー。たとえば、翠川さん、お店に入ってきた時どこにも視線を向けなかった。多分、僕の存在に気付いたのウイスキー出したときじゃないですか?」
「そうだね、そこまで正直気に留めてなかった」
「で、僕の姿を見た時に、「若い」って思いましたよね?」
「思った思った。ほんとよくわかるね」
「で、そこで一瞬溜めがあったんですよ。なにかを思い返すような。だから自分の過去と重ねてるのかなと。そのとき寂しそうだったから、今日、ないしその周辺で悲しいことがあった日じゃないかと思って、ちょっと踏み込みました」
「それはもう才能なんじゃない?」
素直に驚いてそう伝える。
「そうですかね?」
「そうだよ! もっと活かせばいいのに」
 黒羽は曖昧に笑い、続ける。
「あと、『どうしたらいい?』って聞いてくる人は、絶対自分の中に答え持ってます。これは絶対です」
 黒羽は笑っている。
「そうかもしれないね」
 見抜かれてて恥ずかしかった。
「だから、一番インパクトのあるところから答えようとおもって、『決めたらいいと思いますよ』といったわけです。以上、種明かしでした」
 パチパチパチ。思わず手を叩いてしまった。おどけた感じで頭を下げる黒羽。妙にこの時間が居心地がいい。
「おかわりいかがですか?」
 気がついたら、グラスが空になっている。


「なんかちょっと覚悟決まったかも」
「それはよかったです」


「ところで、黒羽さん、今度お茶でもどう?」


(3)黒羽は飽いていた

黒羽遊は、飽いていた。
 ふと外を見ると、サラリーマンがハンカチでその汗を拭っている。強い日差し。おそらく外は暑いのだろう。
退屈だ。
 飽いているというのは、別に今に限った話ではない。黒羽は、小さい頃からわりと何でもできる。勉強もスポーツも。……喧嘩も。
  高校2年の夏休み、長期の留学をする先輩の家を借り、東京でバイトを始めてみた。働くのは初めてだったが、コツはすぐ掴んだ。お酒の種類も、その作り方も。東京は楽しいけど……楽しいだけだ。
 
「おまたせ、ごめん」
 翠川静がカフェに入って来てそう言った。昨夜、BARで知り合ったこの男は、今日はかなりカジュアルな装いだ。サラサラの髪の毛で、この服装。年齢はおそらく30代。若いが、二十代の若者感というものはない。
「いえいえ、別に大丈夫ですよ。今日はお休みですか?」
翠川は少し首を傾げた。
「ああ、この服装? いやいや普通にお仕事ですよ」
 黒羽の知っている「社会人」は、毎日スーツを来て、髪の毛をセットしているものだったので少し意外だった。
「興味ある?だったらちょうどオフィス近くだからそっちで話そうか」
 興味がある。僕のようなどこの誰かわからないような人間がかんたんに行けるようなものなのだろうか?ここは代官山である。うなずいてみる。
それをみた翠川は立ち上がった。店員に、テイクアウトで飲み物を頼み、黒羽を呼ぶ。
「俺、田舎者でさ。最初代官山ってものを恐れてたよ。おしゃれで冷たい人ばかりなのかなって。だけど仲良くなると普通にみんないい人。土地とか関係ないね。当たり前だけど」
 歩きながら翠川はいう。そのとおりだと思いつつ、それは翠川の人となりに依る部分も大きいんじゃないかなと思い直す。正直彼は魅力的だ。白い肌に涼しそうな目元。笑顔を見るとと心の奥のところがくすぐったくなる。先程の店員、おそらく顔なじみなんだろうが、どうみても翠川に好意を持っている。恋愛的な意味で。ただ、それが翠川にとって当たり前なのだろう。目の前の好意を特別なものとして捉えていない。誰もが自分にこのように接してくることが前提なのかもしれない。なにもそれは異性に限った話ではない。つまらなそうな男だったら誘われたからと言って黒羽もお茶なんてしない。
「ここだよ」
雑居ビル。お世辞にもキレイとは言えない。代官山にもいこういうビルがあるんだなと思った。
「エレベータ乗ろう」
 5階を押す翠川。チンッって音とともに到着を伝える。エレベーターが開いた先でまず最初に飛び込んできたのは『自然』だった。
「木?」
「ああ、これ本物なんだよね」
 ビルの中に大きな木がある。他のも多くの緑が散りばめられてる。
「ここで靴脱いで」
「え、靴脱ぐんですか?」
 驚いた。オフィスって革靴のイメージ。
「結構驚かれる。でもさ、ちょっと考えてみてよ、靴履いてるときより、靴脱いでるときのほうがリラックスしてない?」
 それはそうだ。それはそうなんだけど……。
「オフィスの大きな役割の一つにさ、仕事をするってのがあると思うんだけど、仕事ってすっごく端折っていっちゃうと、創造だよね。で、創造しやすい環境ってリラックスした空間。だから、仕事するメンバーが一番リラックスできる環境として今の形になった」
 笑顔で話す翠川。たしかに働いている人たちにも笑顔が多い気がする。ペタペタ歩く。「こんにちはー」みんなが挨拶してくれる。これがオフィスか。ふと気になって尋ねる。
「さっき、『オフィスの大きな役割の一つが仕事をする』って言ってましたけど、他にもあるんですか?」
 オフィスイコール仕事するところ、ではないのか?
「んーそうだねー。これだけオンライン環境が整って、世界中の人と仕事ができるようになったんだから、単に仕事をするってだけで、こんなハコを用意する必要ってあんまりないんだよね。だけどさ、仕事を創造って捉えたら、まぎれみたいなものが必要で、それを意図的に作り出す1つの方法がこういうハコなんじゃないかなって思ってる」
 たしかに、オンラインでいつでも誰にでも連絡できるけど、なにか新しいことを始めるのいつもみんなで集まってるときだった。
「なる、ほど。偶然とか『たまたま』みたいなのは実際に集まったほうが生まれやすいってことですか?ノリが生まれるというか」
「そうだね、ノリっていい表現かも。今度から使うわ」
 笑って答える翠川。

「翠川さん」
 突然後ろから声がかかる。振り向く翠川。
「ちょっとトラブルがありまして……」
 慌てている男性。話を聞く翠川。
「んーじゃあそこの時間調整しようか。いやいや、仕方ないから全然いいよ!謝らなくても」
 ホッとした顔で立ち去る男性。考え込む翠川。

「黒羽さん、ちょっと提案なんだけど、うちのサマーインターン受けてみない?」
 サマーインターン?聞き慣れない言葉だ。表情でわかったのか翠川が続ける。
「サマーインターンってのは、会社の業務やメンバーを知ってもらって採用につなげたいという企業の思惑と、力もつけつつあわよくば内定もGETしたいという学生との総合芸術で、職場体験をおしゃれに言い換えただけという代物です」
「ちょ、ちょっとうがって言いすぎかなー」
 背の高い女性が焦って入ってきた。
「こんにちは、採用担当の森田です」
笑顔でこちらを向く。キレイにお化粧をし、なにかいい匂いがする。感じが良い。でもそれより一番印象的なのは姿勢だ。凛という言葉がよく似合う。
「社長、ダメですよ。そんなうがった見方で話しちゃ」
「社長いうな。ごめんごめん、ちょっと最近感じてたことをつい、ね」
「もう」といいながら、黒羽の方を向き直ってサマーインターンについて説明してくれた。
「インターンシップというのが、いまベンチャー業界では結構熱くてね、簡単に言うと、就業体験を通じて、仕事や企業、業界、社会への理解を深めることができる制度、のこと。ただ、翠川さんもいったような面が企業にはあるし、正直定義は曖昧」
「アルバイトとは何が違うんですか? アルバイトも、仕事や業界のことを詳しくなる方法の1つだと思うんですが」
「良い質問ね。その違いを説明するのは正直難しい。一緒という事もできる。ただ、うちのサマーインターンはおもしろいわよ」
最初困っていたふうに見えた森田だったが、最後は自信があるのか言葉に熱がこもっていた。サマーインターン、興味が出てきた。
「えっと……」
「あ、黒羽です。黒羽遊」
「ありがとう。黒羽くんは、大学生? 翠川さんがサマーインターンに誘っているように聞こえたけど」
「いえ、高校生です。高校2年」
「え、そうなの?」
 翠川が驚いた顔でこっちを見た。
「若いんだろうなとは思ってたけど、そこまで若かったとは」
「高校生でもいいですか?」
 翠川に尋ねる。
「もちろん。そこに差はないよ。もし黒羽さんがやりたいなら是非にって感じですね」
「やりたいです。まだよくわからないけど、やるからには本気で」
思わずそう言ってしまった。



(4)インターン

「慶應大学の4年で、ゴールドマン・サックスに内定もらっています」
「東京大学の修士2年、AI系の研究しています」

そんな自己紹介が続く。大学名は黒羽でも聞いたことがあるような有名なものばかり。さらに内定先もどうやらすごいものだったと後で調べてわかった。
これは場違いなところに来てしまったかもしれない、そう思っていたとき、翠川が前で話し始めた。
「みなさん、うちの会社に興味持ってくださってありがとうございます。代表の翠川です。今回のサマーインターンでは、1つのお題を出します。それを2週間で考えて実行してください。」
お題? なんだろう。というか、翠川さん本当に社長だったんだ。冗談かと思ってた……。

「お題はこちらです」
 そういって、スクリーンに画像が映し出される。『業務用酒屋』という文字が入った店。お世辞にもキレイとは言えない。いや、むしろ汚い。道の前に自転車が煩雑に並べられ、壁も汚れている。
「こちらの酒屋、岡山にあるんですが、これを弊社で買収しようとしています。これは決して単なる妄想とか思考実験とかそういうことではなくて、本気でそう考えてます。それが何故か、みなさんにはそのことを考えてもらいたいです。もちろん正解があるわけではなく、もしかしたら買収しないほうがいいという結論もありえます。ただ、僕たちは本気で考えて買収しようとしている、そのことだけは嘘じゃないです」
この汚い酒屋を買収?代官山でこんなおしゃれなオフィスを構え、IT系っぽい会社なのに?他のインターン生も困惑しているように見える。というかもしかしてあの酒屋、あそこのか?

「どんな方法や、どんな仮説で挑んでもらっても構いません。僕らを唸らしてください」
 そういってマイクを置く翠川。続いて森田が話す。
「ここからは、会社の事業の説明です」
翠川たちの会社、株式会社DAWNは、簡単に言うと人材紹介の会社だった。いままでは、人材紹介といえば、成功報酬を企業からもらう。つまり、1人決まったらその年収の30%とかそんな風に決まる。そのため求職者をきらびやかに見せ、どんどん採用させるという方向に人材紹介はいきがちだ。ただこのやり方だと、転職後のミスマッチが多く、離職率が高くなる。離職に伴い事業の停滞も多い。そこで、DAWNは、月額固定の求人プラットフォームを開設した。会社の紹介を、給与や条件だけでなく、その会社の目指しているビジョンや存在理由であるミッションというところから語り、その物語を一緒に作り上げたい人をメンバーにする。それによって離職率は極端に下がり、SNSの発展とともに口コミでどんどん広まっていった。今では、多くの企業がDAWNのサービスを利用し、会社規模もどんどん大きくなっている。……らしい。


 正直ビジネスというものを自分ごととして考えたことは今までなかった。そんなことを翠川にあとで言ってみた。
「たしかに学校というものとビジネスってものはなかなか遠いよね。だけど、超基本というか、ビジネスの根本は、安く買って、高く売る。ただそれだけとも言える。この安く買うというのには、安く創るとかも含まれるけど、それができてたらビジネスになるんだよ。難しいこと色々言う人がいるけど、まずはそれでいいかなって僕なんかは思ってるよ」
 なるほど。BARでバイトしてるとき、お酒の仕入れ値と、お客さんが払うお金の差がすごくあることに気付いた。平日なんて自分ひとりで回せるから、実際俺の時給を足しても、だいぶ儲かっている。これが安く買って高く売るってことか。
 なんかやれそうな気がしてきた。
それにあの店ってもしかして……。


(5)発表

「……以上が、シュリンクしている酒造メーカーと適切なシナジーが生じる提携方法であり、オンラインに強みがあるDAWNが買収し取り組むことで売上を何倍にもすることができると考えます」

インターン生の発表。きれいな資料によるプレゼンが続く。非常に優秀だ。自分が学生の時と比べてしまう。こんな発表できるわけなかったと。だが一方で少し残念な気持ちもある。これらはコンサルタントであれば当然出してくる案であり、実際に事業をしている僕たちはその部分すでに検討済みである。期待は超えてこない。
 最後は、黒羽だ。久しぶりにあった彼は良く日に焼けている。海にでもいったんだろうか?
「えっと、こんな感じで資料を作るって思ってなくて、資料はありません。ごめんなさい」
仕方がない。彼は大人っぽいとはいえ、高校2年生。下手をしたらPCを触ることもなかなかないのかもしれない。
「ただ、藤田酒店、あ、この業務用酒屋の名前ですね。その藤田酒店でバイトした体験を踏まえて僕なりの買収の理由を考えました。聞いてください」


今なんて言った?バイト?
「藤田酒店は、業務用の酒屋といって、主に飲食店向けにお酒を届ける酒屋でした。販売エリアも1キロから1.5キロ。ちょうど酒屋を中心にコンパスで円を書いたあたりまでが商圏です。他の酒屋との違いで面白いのは、その商圏の中に、岡山市の繁華街がすっぽり入ることです。つまり、ナイト系の店、キャバクラとかホストクラブとかが入ります」
 そうだ。それがこの酒屋に注目した1つ目のポイント。
「で、バイトでナイト系の店にも配達している内に、お店のマネージャーやオーナーさんと話すことも増えて、その人達のほとんど全員が『採用に困ってる』そう言ってました」
 ナイト系のお店なんて、いい人が採用できただけで月の売上が10倍違うなんてことがざらにある世界。そこでは絶えず人材不足である。
「夜の店で働いている友達に、どうやって働くことになったの?って聞いたら、雑誌で探したって言ってて、さらにそれがくそめんどくさかったそうです。そりゃそうですよね、普段スマホばっかりいじってる彼女たちが、そこだけ雑誌って」
笑いながら話す黒羽。
「なんで雑誌しかないのかなって思いながら、色んな人に聞いてみたところ、どうもその理由の1つにIT企業の営業がないことがありそうだわかりました。反社と近いですし、なかなかナイト系の人の需要とかIT系の人は把握しづらいですよね」
黒羽の言うとおりだった。いわゆるIT系と言われる業種は、まずはじめにリテラシーの高い人達向けに始まる。だから、言い方はあれだが、一般的にリテラシーの低いナイト系には中々アプローチされていかないというのが現状である。
「そこで、『酒屋』ですね。DAWNが藤田酒店を買収し、ナイト系の求人サイトを作ってお酒と一緒に販売すれば、お客さんの獲得もできるんじゃないかと考えました。お店の人に確認したら、今、紹介で1人採用したら3万円、面接まで来るだけで1万円のキックバックがもらえるらしいので、その間、1〜3万円の金額であれば僕でも営業取れそうでした」
 驚いた。もちろんバイトに実際に行っていた事自体もそうだが、それよりもかなり正確な事業理解に加え、これから黒羽が調査しようと思っていた顧客獲得単価の1つの仮説まで含まれていたからだ。
「仮に月に1人面談くるようにサイトを作ることができたら月額1万円、タウンページに載っている岡山市1500店舗のうち10%が契約する事になったら、
月150万円の売上が見込めます。あとは、検索したりして出てくるようにしないといけないと思うんですが、その部分は正直まだよくわかりませんでした。ただ、雑誌からスマホへの転換はどっかで起こるのは間違いないと思うので、他がない以上、やる価値は十分あるのではないか、そう考えました。なので最後に結論を言うと、岡山のナイト求人をやるために、買収を検討していると思う、です」

 いいね。ただ一つ気になっていたことを聞いてみる。
「黒羽さん、これどうして岡山市にあるってわかったの?」
「地元、ていうかまだ住んでますが、その近くなんですよね。どっかでみたことあるなーって」
 なるほど。これはいよいよそういうタイミングなのかもしれない。


(6)事業売却

その冬。1つの事業売却のニュースが流れた。
 それは小さな酒屋の話、ではなく、DAWNが大手人材会社に買収されたというものであった。



第2章 翠川静は、起業する。

(1)岡山

大きな文字で「業務用酒屋」と書いてある看板。色は黄色。他にも「カードお断り」「現金のみ」「即対応」などのシールが外から見えるように大きなサイズで貼ってある。あまり品が良いとはいえないが、中で働く人たちはキビキビと動いていて感じが良い。なれた足取りで隣の階段を登り、翠川静は二階に向かう。

「だいぶきれいになったなー」
 3ヶ月前、初めて酒屋の二階を見たときは正直ちょっと無理だと思った。壁は汚れ、足の踏み場もないくらい所狭しとダンボールとよくわからない贈答品がおいてあった。それをちょっとずつ整理し、壁を塗り直し、ようやく人が入れるようになってきた。

「やっぱこっちでも靴脱ぐようにしたんですね」
 そういいながら黒羽が上がってきた。もともと細身で、今でも細身とは言えると思うのだが、引き締まった体がシャツの上からでもよく分かるようになった。まだ肌寒い日があるがこのところずっと黒羽は半袖である。
 藤田酒店の買収、といっても、もともと店主の藤田とは知り合いである。小さい頃から町内会でお世話になっていた。そんな藤田が、後継ぎがいない、そう漏らしていた。だから翠川は買った。もちろん単なる善意からだけではなく、計画のために必要だからだが、それでもこの小さな頃から目をかけてくれていた藤田が年々苦しそうにお酒を運ぶ姿に思うことがあったことは否定しない。
 DAWNの売却を知った友達は「儲かったでしょ」と言ってきたが、時期を早めたこと、起業当初からついてきてくれてたメンバーにボーナスを出したこと、藤田酒店を土地建物付きで買ったことから、手元にはあまり残っていない。会社の売却による税金が中々高いのもその原因だ。まあロックアップをなしにできたのはありがたかった、そう思ってここについてはこれ以上考えるのをやめた。
 サマーインターン以来、黒羽と行動を共にすることが増えた。今では高校に行きながら酒屋の配達も手伝ってくれている。黒羽が行っているのは県内有数の進学校。翠川の母校でもある。学校が終わって毎日手伝ってくれる黒に一度「勉強は大丈夫なの?」と聞いたことがある。黒羽は涼しい顔をして「授業出てますから」って言っていた。進級要件も厳しく、毎日の授業の後かなりの時間復習予習しないとついていけなかったんだけどなと少し思うところはあったが、サマーインターン以来、黒羽の優秀さを何度も見せられた。おそらくビジネス経験は初めてだっただろうに、すでにどこの企業の新卒3年目と比較しても遜色はない。成長企業の代表をやっていたから多くの優秀な若者にもあってきたつもりだ。ただ黒羽の優秀さは少し異常だ。

「で、なんです?話って」
「あ、ごめん。そろそろだと思うんだけど……」
 時計を見る。約束の時間まであと1分。

「静―」
 外から声が聞こえる。懐かしい声だ。



(2)懐かしき顔

 翠川に招かれて入ってきた二人の人が入ってきた。
 それぞれ白鷺秋人、倉田光と名乗った。

「よろしくね。えっとぉ」
「黒羽です。黒羽遊」
「遊くん、よろしく光って呼んでね!」

 満面の笑みで挨拶してくれてるのは倉田光と名乗った小柄な女性である。大きな丸メガネが特徴的で、髪はギリギリ肩にかかるかかからないかくらいの長さ。白い白いと思っていた翠川よりもさらに肌が白く、色白というのはこういう人のためにある言葉なのかと妙に感心する。

「よろしく、遊でいい?」
「はい、大丈夫です」
「そう、おれは秋人でいい」
 澄んだ声。伝えたいことだけをシンプルに伝えたいという意思が声からわかるようなやり取り。白鷺秋人からは、そういう印象を受けた。

「二人は大学の同期」
翠川が話し始める。
「社会学のゼミで一緒だった。で、端折るけど、今回始める新しい会社を手伝ってもらうために呼んでみました」
「静―。流石に端折りすぎ」
 光が笑いながらいう。
「そうだな、涙ながらに来てほしいと言った話とかはしなくていいのか?」
「うるさいよ」
 照れるように秋人に返す翠川。
「ま、二人共業界の第一線で働いているから、1年の期間限定。秋人先生は大学の助教。社会学を教えてる。暇そうだったから1年のお休みをとってきてもらった」
「おまえ、けっこう大変だったんだぞ1年休むの」
 うんざりした顔をする秋人。
「あはは、わかってる。ありがとう」
 ちょっとだけ真剣にお礼を言う翠川。
「光は、コーチングって言って、自発的行動を促進するコミュニケーションの専門家。今、カウンセリングやコーチングといったマインドやメンタルに注目がすごく集まっていて、それらのサービスを提供するスタートアップのCXOだったりもする。あれなんだっけ?」
「CCOね。チーフコミュニケーションオフィサー。新しい役割の提唱だから、全然まだ浸透してなくて、会社でも『っこ』とか言われてるけど」
ニコニコしながら話す光。CXOって偉い人のイメージが合ったけど、こんな人もいるんだ。

「というわけで、二人には同期のよしみでこれから一緒に事業を創るために来てもらった。遊も仲良くしてくれると嬉しい」
そう翠川は締めくくった。
「はい、よろしくお願いします」
「おう、よろしくな」
「よろしくね、遊くん!」
「今度大学時代の静さんの話、聞かせてください」
 黒羽がそう言うと、光が前のめりになりながら話し始めた。
「静はねーすごかったよ。ほんとすごかった」
「すごい?」
「普段は特に目立つとかではないんだけど、何かあるときの存在感はすごい。今でも覚えてるのが『結婚式』」
 嬉しそうに話すヒカリ。
「大学の同級生同士のカップルに子供が出来て、二人共大学辞めて働くことになったのね。それ自体は、全然喜ばしいことなんだけど、当面の間結婚式とかできないってのを残念そうにしてたから、静、大学で結婚式しちゃったの」
「え、え、どういうことですか?」
「わかんないよねー。私も当時静が『よし、大学で結婚式しようか』って言った時わけわかんなかったもん」
 翠川の方を見るヒカリ。翠川は肩をすくめる。
「学校の講堂借りて、先生たち説得して、ご両親や中高時代の友達呼んで、服飾系の大学の子に衣装作ってもらって、いまでいうクラウドファンディングみたいなカタチでお金集めて……。知ってる? 静。あの二人今でも仲良くしてるし、あのときの子供もう小学生だよ」
 自分のことのように嬉しそうに話すヒカリ。
「なんかねー、おかしかったの。こういうのって普通目立つ子がやったりするじゃない?だけど、静って別に目立つって感じじゃなかった。大人しい地方から出てきた男の子って感じ。その子が、全体の計画立てて、人を巻き込んで、先生方まで説得して、実行しちゃった。なんか、私その時から人ってものにすっごく興味が出たんだよね。あ、もしかして今の仕事を選んでいるのって、静のせい……?」
 考え込む仕草をする光。この人、大人なのにすごくこどもみたいだなって思った。エネルギーが抑えられないって感じで話す。


「静、あの『結婚式』、実は今でも続いてて、毎年数組、学校で結婚式あげる大学生でてきてるぞ」
「え、ほんとに? それは嬉しいなあ」
 しみじみと翠川がいう。この人は本当にいい人なんだろうな。
「ま、そんな感じのエピソード、実はまだいっぱいあるから、今度話してあげるね!」
「はい、ありがとうございます。1つ目から中々すごかったですが、こっからも楽しみにしています。あ、もちろん光さんや秋人さんのお話も聞きたいです。二人がいつから付き合うようになったかとかも」


「え?」

驚いて赤くなる光。
「俺達は付き合っていない」
表情を変えずそう答える白鷺。二人の距離感と雰囲気を見ればどう考えても付き合っているとしか思えない。黒羽は自分が予想を外したなんて信じられなかった。
「あはは、その話はおいおい」
翠川が割って入ってきた。今日はついたばかりだから一旦解散し、仕事のことは明日改めて話をするらしい。

解散したあと、翠川は黒羽のそばに来て言った。
「あんまりこの言葉は使わないようにしてたんだけど、あの二人は『天才』だ。一緒に行動すると学ぶこと多いから遊も意識してみて」
ますます、楽しみになってきた。


(3)元ランナー

昼休みを知らせるチャイムの音が聞こえる。久しぶりの学校は逆にどこか現実感がない。机に突っ伏しながら窓の外に目をやると黒羽の目に一人の女の子が映った。手になにか持っている。一瞬逡巡したあと走り出す。きれいなフォーム。すごいスピード。周りの人は何事かと道を開ける。前を歩く赤ちゃんを抱っこした女性に追いつき、止まった。何やらお礼を言われている。おそらく靴だ。靴を拾って届けたのだろう。そのまま学校に戻ってくるのかと思ったら、横道にそれた。あそこには公園があったはず。
「おもしろそうだな」
 そう呟いて、黒羽は教室をあとにした。

 黒羽が公園につきあたりを見渡すと、ベンチに先程の女の子が座っているのが見えた。ただちょっと様子がおかしい。膝を抱えて苦しんでいるように見える。

「大丈夫?」
 思わず声をかけてしまった。
「えっ」
 驚いた様子で顔を上げる。長い前髪の間から目が見えた。キレイな眼だ。またすぐに顔を伏せる。
「大丈夫?」
 もう一度聞いた。
「あ、大丈夫です」
「速いね」
 彼女は俯いたままだ。体が硬直したような気がした。
「そんなことないですよ。―普通です」

「楓ちゃーん」
大きな声が聞こえた。どこかで聞き覚えがある。
「あ、楓ちゃん、いたいた」
声の主はそういいながら近づいてきた。橋本みずき、幼馴染の同級生だ。
「あれ、遊だ。珍しいね、知り合いだっけ?」
「いや、今走ってるのが見えたから来てみただけ」
 そう答えた黒羽をちらっと見たあと、みずきは心配そうに楓を見つめた。
「楓ちゃん、ご飯一緒に食べようって言ったじゃん。待ってたんだよ」
気を取り直すかのように明るい声でみずきは話す。
「ごめん、今行こうと思ってたんだけど」
「あーさては、遊に邪魔されてたんだな。ダメだよ邪魔しちゃ」
 笑いながら黒羽を見る。こいつにはこういうところがある。誰よりも明るいくせに、本当に踏み込んでほしくないところには踏み込まない。楓と言われたこの子にとって、足が痛いことは触れられたくないことなんだろう。

「じゃまなんてしてないよ。ただ、ちょっとおもしろそうだったんで声かけてみただけ」
「……遊、3年になって更に軽くなったんじゃない?」
 じっとにらみつけるように見てくるみずきをほどほどに黒羽は続けた。
「というわけで、仲良くしてくれると嬉しいな」


--

脚が痛い……。少し走っただけなのに、こんなに痛くなるなんて。楓は自分の脚を睨んだ。もう昔のなんでもお互いのことがわかっている相棒のような感じはない。今はただ、自分の体にくっついているだけのモノ。なんで私がこんな目に、そう思う。走るのが好きで、陸上にハマって、どんどん結果も出ていた時に起こった怪我。股関節が痛くて、でも走れないほどじゃないと無理して続けてた。ある時、あまりの痛みに夜目が覚めて病院に行ったらドクターストップ。なにか難しい病名をお医者さんは言ってたけど、今みたいに走れなくなるって聞いたところから、あまり覚えていない。退院後も、そんなわけないって何度も試したけど、ダメだった。私を遠くに連れて行ってくれてた私の脚は、自分が地面にいることを思い出させる存在になってしまった。
「走るの好きなの?」
 思わずパッと顔を上げてしまった。先程ミズキに遊と呼ばれていた青年が尋ねる。私のことをなにも知らないくせに。そう思った。なにも言えず、彼の顔をみる。
「楓ちゃん、だからご飯食べようよ!もう昼休み終わっちゃうよ。お腹すいたし」
 少し慌てたようにミズキが話に入ってくる。ミズキのことだ、おそらくこの場の空気が険悪だと思ったのだろう。私が辛かった時、なにも言わずいつもと同じように接してくれたのはミズキだけだった。
「ごめんごめん、いこっか」
 立ち去ろうとする。
「好きなの?走ること」
青年が再度聞いてきた。カチンときた。
「しつこいですね。私が走るの好きかどうかなんて、あなたに関係ありますか?」
「いや、全然関係ないんだけど、さっき上から見てて、いいなって思ったんだよね。美しいなって。だから、その本人がどんな気持ちなのか興味があった。気に触ることだったら申し訳ない」
 頭を軽く下げる青年。心配そうに見つめるミズキ。悪いことをしたなって思った。
「好き……でしたよ。かなり。今も好きなのかなぁ。一方通行になったみたい。こっちは好きだけど、走るのは好きになってくれないって感じ」
正直な言葉が出た。たぶん、まだ好きなんだろうなあ。
「そっか、いいね」
「いいってなんですか」
またムッとなって答えた。
「いや、ごめん。なんか最近言葉下手かも。言いたいのは、好きなものがあるってのは、その付き合い方いっぱいあるってことだなって。男女の恋愛だと、なんというか彼氏・彼女になる、がゴールみたいな所あるけど、好きなことだとそうじゃないなって」
 男女の恋愛とかよくわかんないけど、と彼はにこやかに付け足す。この人めちゃくちゃモテるんだろうなって思った。でもよくわからない。
「どういうことですか?」
「あーと、例えば俺、マンガ好きなんだけど、マンガとの付き合い方って、読むってのもそうだし、描くってのもそうだし、誰かと話すってのもそうだしっていっぱいあるじゃん?どれが正解とかもない。今は描く力がないからかかないけど、それだって別にうまくなくてもいいなら描けば楽しいのかもしれない。『マンガ』が好きなら、それとの付き合い方はほんと自由だなって。あれ、あんまりわかんないなこの説明」
「いや……ちょっとわかります」
「おお、よかった。最近面白い大人の人と出会って、そんなふうに考えるようになったんだよね。つまんない、とか、うまくいかないってのは、まだその付き合い方を色々試してないだけなんじゃないかなって。だって好きなんだもん、どっかにあるよ自分にとって一番良い付き合い方」
 妙に腑に落ちた。走ることが応えてくれないからって、嫌いになる必要はないのかもしれない。


(4)塾構想

「塾をやろうと思う」
 翠川がそういうと、白鷺、倉田が軽くうなずいている。きっと予め聞いていたのだろう。翠川が続ける。

「今、一般的な大学受験は、学力が必須。それ自体はおかしいことじゃない。ただ、それだけだと、学校の勉強は不得意だけど、それ以外に見るものがある高校生は希望の大学に行くことが難しい。ほらたとえば、ゲームがめちゃくちゃうまいとか、イラストがプロ級とかそういう子は、学力だけだと他の子よりも不利になっちゃう。そこで総合型選抜入試だ」
黒羽の高校でも総合型選抜の話を先生がしていたのを思い出す。ただそのときはどこか「邪道な方法」のような説明をしていた。
「うちの大学でも、総合選抜型入試で入ってきた学生は相当優秀だからな。目的意識がある分、伸びが早い。正直学力テストの意味みたいなもの考えさせられるよ」
白鷺がよく通る声でそう言う。なるほど、そうなのかもしれない。勉強ができるというのは一要素にすぎない、そう黒羽も思う。

「最初は、不登校の生徒を主な対象にしようと思う」
 翠川は続ける。一般的な学力テストでもっとも割りを食っているのが、学校生活にうまく適応できなかったり、何らかの理由で学校に行けていない生徒だそうだ。

「総合選抜型入試は、情報戦だ。適切な情報を取得して、入試を突破する戦略の立案、そして実践。しっかりとやればどんな高校生でも突破可能だ。というかぶっちゃけ人が作った試験で、合格者が毎年出るようなものは、誰でも突破できる。才能とかそういうレベルの話じゃまだない」
 あっさりと言ってのける白鷺。頭がいい人のことを天才と称したりするが、どうもそういうことではないみたいだ。前に翠川から聞いた話だと、白鷺は大学在学中に司法試験と公認会計士試験に合格しているらしい。どちらも日本有数の国家試験、突破するのに何年もかかるのが普通だ。
「まあ、そうだね。その合格までの道のりの設計と、その過程で必要な能力の洗い出し、実践部分を秋人に任せたい」
「ん、わかった」
「そして、不登校 ―まあかならずも学校に行ってないことまでは必要ないんだけど、そういう子たちと一緒にやる以上、メンタル面のケアも必要になってくる。カウンセリング、コーチング部分を光に頼みたい。
「わかったー。任せて!」
「ありがとう」
「そういえば、どうやって生徒を集めるの?」
「そこはさ、やっぱ『先生』に頼むことになるかな」


(5)芦沢先生

翠川のいう『先生』は、大学のとき翠川、白鷺、倉田3人のゼミの先生のことで、今は岡山の高校で非常勤講師をしているらしい。
「久しぶり、元気そうでなにより。また楽しそうなことはじめるんだって?」
そう明るく話すのは、芦沢ゆりこ。50代ときいていたが、どうみてももっと若い。エネルギーに圧倒される。
「お久しぶりです、先生。今日はお時間作っていただきありがとうございます」
「え、硬い硬い。どしたの?昔はもっと噛み付いてきてたじゃん?」
「先生、流石に10年近く経ってますので……」
普段飄々としている翠川があわてているのが少し面白い。
「倉田さんも久しぶり!白鷺くんとは学会で前にもあったね。最近のテーマいいじゃん」
 やはりちょっとだけ緊張がみてとれる。倉田はそうでもないか。
 黒羽からすると、すごく「大人」な3人だけど、誰かの前では少しだけ「子供」になるのはおもしろい。どのタイミングで、どういう関係で知り合うのかってのは思った以上に人生において影響があるのかもしれない。今の関わり方でこの3人に出会った自分が、10年後どういう関係になっているのか思いを馳せてみる。きっといい関係なんだろうなと。
「で、今日はなんの用なの?まあかんたんには聞いてるんだけど」
「そうですね、お話したいのは、総合選抜型入試に特化した個別指導の塾をやろうと思っていて、対象になる生徒さんをご紹介いただけないか、というものになります」
「総合選抜型入試ねー。あれは確かにある種のハックもできるよね」
「そのとおりです。ただ、ハックが本質ではなくて、可能性のある高校生が、しっかりと今の社会でもチャンスを掴めるようにすることが本質なので、手段の是非は今あまり大事ではないかと」
「翠川くんは、昔から本質思考だよね」
 芦沢はそう言って、少し懐かしそうな顔をしている。
「それで、倉田さんと白鷺くんか。悪くないね。というより、これだけの人を、この岡山で集めることはそう簡単ではないことから考えるとさすがだね。ところで、二人は最近は仲良くしてるの?」

「そうでもないですね」
「そうですね!」
 白鷺と倉田が同時に答える。
「えー仲いいじゃん。この間も一緒に買物行ったし」
「あれは、必要なもの買いに行っただけだろ」
「そうだけどさー。先生にまで仲良くないとか言わなくてもいいんじゃない?」
 膨れる光。取り合わない白鷺。
「あはははは、懐かしいねそのやりとり。相変わらず仲良さそうで良かった。で、本題に戻すけど」

少し貯める芦沢。
「……ぜひ、協力させてもらいます」
「ありがとうございます!」
 翠川がホッとしたように言う。
「この3人に間違いない。そう思ってるし、正直高校というハコの中の限界を日々感じてる。たとえば、SNSなんかはメディアで聞く情報からしか指導できていない。怖いものだ、使わないほうがいいって蓋をしちゃうと同時にチャンスも逃してる。まあ、先生方が必ずしも悪いわけではなくて、そこまで先生に求めちゃうのは酷なんだけどね」
「そうですね、ぼくらとしてもしっかりと役割分担できたらいいなって思ってます」
「それにしても、この3人がねー。最初は全然みんな話が噛み合わなくて大変だったよ。だけどあの頃のゼミが一番面白かったかもしれない」
「この3人どんな感じだったんですか?」
 つい気になって聞いてしまった。
「ん?気になるかい?そうだなー、まず2人がとても対称的だった。倉田さんと白鷺くん。二人が大事にしているものと信じているものがかなり違った。一言でいうと、白鷺くんは演繹的、倉田さんは帰納的って感じかな」
 それは二人と接している黒羽にもわかった。白鷺は、自分の中にいくつかの原則を持っていて、その原則から全てを説明してくれる。たとえば、このあいだ喧嘩をして帰ってきた生徒に対して「なぜ暴力をしてはならないかわかるか?」と 歴史と哲学から紐解いて説明していた。一方で倉田は、同じ生徒を見て「誰かを叩いた時、心の中でなにか感じなかった?」と聞いていた。はじめは「なにも感じなかった」と言っていた彼だが、対話をする内に、心の中がなにかざわざわしたと言って、なにかを考えていた。そんな風に、対象的だ。
「だから、話し合いにならなかったのほんとに」
 おかしそうに芦沢がいう。
「たしかにそれはなりそうにないですね……」
 黒羽がそう言うと、「なんでだよ」とヒカリが口をとがらせていた。
「でもそこに翠川くんが入ってから結構変わったのよね。『それ一緒のこと言ってない?』って事あるごとに言ってて、はじめは納得していなかった二人も、いつからから、『一緒のこと言ってるかもしれない』という前提から話しはじめた。そこからようやく対話が始まった」
 芦沢が懐かしそうに言う。
「僕は、方法論よりどうやったら問題がなくなるかに興味があっただけですよ」
 翠川が言う。
「ほら、優しい口調だから聞き逃すかもしれないけど、『お前らの大事にしている方法論に俺は興味ない。無駄だよそんなの』って言ってるからねこれ。昔は、そのままそれ言ってたからね。私は、翠川くんが一番怖いよ」
 芦沢はふざけつつも、どこか本気のように見えた。
「でもその翠川くんが、自分の一番信頼できるだろう二人を呼んで始めるんだね。大学の時に言ってた計画をやるの?」
「そうですね、そのつもりです」
「そっか。私は未だにそのやり方でうまくいくかどうかも、うまくいったとしてそれがいいことかどうかも懐疑的だ。だけど、1つ1つの施策は間違いなくいいことだし、できる限りの応援はする」
「……ありがとうございます」


(6)牛島真

「何してるんですか?」
 オフィスのソファーでゴロゴロしていたら、上から声がかかる。
「んーゲーム」
「珍しいですね、静さんがゲームするなんて」
「いやー実は結構ゲーム好きで、学生の頃は廃人ばりにやってたのよ。最近できてなかったけど、新作出たからついさ」
「なんてやつですか?」
「ライフエンディングプラス」
「あー有名なやつですね。僕も知ってます」
「そうそう、結構シリーズにもなってるし。でさ、最近ゲーム内で仲良くなったやつがいるんだけど、そいつどうも岡山に住んでるみたいだから会ってみようかと」
「へーゲームで知り合って会うとか実際にあるんですね」
「昔はもっと頻繁にあったんだけどね。さすがに東京がほとんどで、岡山とか地方だと中々集まらなかった。いい時代になったもんだ」
「どんな人なんですか?」
「いや、超饒舌で、ばしばしおもしろいこと言ってて、ツッコミにキレがあるというか。ゲームの腕はそこそこだけど、たまに『描いてみた』ってupしてくれる絵が超うまい」
「へえ、絵師さん?」
「そうかもね。お、やったアポ取れた。今日の14:00駅前。この時間にいけるってことは大学生かな」
楽しみだ。



「SHIZUKAさんですか?」
 そう言って話しかけて来たのは、黒縁メガネで、黒い服、うつむきがちな少年だった。
「そうです、もしかしてTo-Shinさん?はじめまして」
「はじめまして……」
ボソボソと小さい声で話す彼は、いつもチャットで饒舌なTo-Shinとは思えない。
「今日はきてくれてありがとうございます。遠かった?」
「いえ、家は割と近くで……」
「そうなんだ。僕の近くで仕事していることが多いから、すれ違ったこととかあるかもね。とこでさ、あのアイテムどうやってとったの?」
「朱雀の羽ですか?あれは、結構順番が大事で、最初にアヒデ村の村長に話しかける必要があるんですよ」
早口でゲームの内容を話すTo-ShinはやっぱりいつもTo-Shinでちょっと安心する。ひとしきり盛り上がったあと、To-Shinがポツリと言った。
「SHIZUKAさん、女の人だと思ってました」
「え、そう?特にそう言ってたつもりはないんだけど」
「ああ、それはそうなんですが、なんかメッセージの柔らかさとか不意に見せる行動とかでそうなのかなーって」
「がっかりさせちゃった?」
ふざけた感じで聞いてみるとTo-Shinはあわてて
「いえいえ、ぜんぜん!むしろしっくり来てます。僕同級生くらいの女性があんまり好きじゃなくて、年上だろうとは思ってたんですが女性に会うの緊張してたんです。だけど、SHIZUKAさん今のカタチだったからすごく安心しました。あんまり性別とかって関係ないのかもしれませんね」
なにか辛いことを思い出したのか、声をつまらせながら返してきた。今はその話題に踏み込んでほしくなさそうなので、話題を変える。
「そういえば、あの絵、超すごいね!最初に描いてくれた時感動したよ」
「ありがとうございます。前から絵を描くの好きで……」
「あれはすごいよ。SNSとかでもupしてるの?」
「はい、一応。あ、これがアカウントなんですが……」
そういってスマホに表示されているのは、To-Shinが描いたと思われる可愛らしい女の子のアイコンと50万人を超えるフォロワーのtwitterアカウント。
「すご、、、神絵師だ……」
「あはは、SHIZUKAさんも神とかいうんだ」
「あ、今更だけど、僕は本名も静っていいます。翠川静。改めてよろしく」
「僕は真。牛島真です」
「……あ、音読み!」
「よくわかりましたね。そうです、だからTo-Shinです」
そう言って笑った牛島の顔は年相応の男の子って感じだった。


(7)塾集合

ガシャーン。大きな音がオフィスの中に鳴り響く。
「俺らのこと馬鹿にしてんの?」
「いや、そんなことはない。正確に情報を伝えようとしただけだ」
 白鷺は言い方がきつい。だから若い人と揉めることも多い。厳格で怖そうという評価を受けることが多いが、尖っている子からすると「敵」と認識されることもままある。今がまさにその状態だ。椅子を蹴って怒号を上げる高校生の名は龍門喜一郎という。体が大きく、声も大きい。左耳に大きなゲージのピアスが複数空いていて、髪の毛が金色。わかりやすいヤンキーという感じだ。もともとは優秀な生徒だったけど、街で喧嘩をするようになり、徐々に不登校になっていったと送り込んでくれた芦沢先生が言っていた。しかし、龍門をこの場に行くようにできた芦沢先生の底知れなさを感じる。


 今日は、不登校の人向けの総合型選抜塾の説明会をオフィスで開催している。不登校向けということもあって、中々バラエティに富んだメンバーが集っていて、いきなり白熱しているというわけだ。
「さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃ言いやがって!俺らは今のままでいんだよ!なあ?」
 そう言って龍門は周囲に同意を求める。それぞれ色んな色の髪をした男女がそれに応える。
「一度落ち着いて俺の話を聞いてほしい。一般的でに大学を出た場合と出てない場合の日本社会における比較を……」
「だからうるせぇって言ってんだよ!」


やれやれ。秋人自身は特に慌てず淡々と続けようとするが、龍門の怒号で話が前に進まない。だんだんと周囲も敵対心を強めているように感じる。また、おとなしそうな他の生徒達は目を伏せじっと固まっている。せっかく勇気を持ってこの場に来てくれた彼ら彼女らに申し訳ない。なにか対策をしなければと思考する翠川の横で、黒羽がよく通る声で話し始めた。
「龍ちゃん、ちょっと一旦話し聞こうか」
秋人に向ける敵意をそのままこちらにも向けながら振り返った龍門の表情が一瞬で変わる。怯え?
「……遊くん?」
「ね?」
「あ、あぁ」
そう言って黙る龍門。
「秋人さん、話聞いてくれるって。続きお願いします」
「ああ、わかった」
何だったんだ今のは。
「遊、龍門くん知り合いなの?」
「昔よく遊んでたんですよ」
大したことないようにそう答えて、秋人の話に耳を傾ける遊。遊んでただけであんな態度になるもんかな、と思いつつ、こいつも底知れないなと遊を見つめた。

「さっきは怖かったね―!」
やたらと明るい声が聞こえる。たしかあの子は橋本みずき。ショートカットで元気いっぱいという感じだ。不登校の子が多いこの場では、逆に珍しい。
「お前ほんとは怖がってないだろ?てかなんでいるんだよ」
「楓ちゃんの付き添いだよ!遊が変なことしないようにって思って」
「なんだよそれ。結構真面目にみんなやってるんだよ」
「冗談。わかってるよ。私も総合選抜型入試を視野に入れてるから、そういう意味で今日の話は勉強になったし、できるなら私も受けたいって思った。不登校ってわけじゃないけど……」
不安そうに翠川の方を見てきたので答える。
「ああ、それは別に問題ないよ。厳密に不登校に限定してるわけじゃないから」
「そうなんですか!だったらぜひお願いします!」
明るい、元気、ムードメーカー。こういう子が来てくれるのはすごく助かる。
今日の総合型選抜入試特化の塾「無花果」の説明会に参加してくれたのは10名。後日全員が入ることに決めてくれた。あれだけ荒れていた龍門も参加してくれるのはちょっとだけ意外だった。遊との関係か?
 荒れてる子とおとなしい子で半々くらい。中にはTo-Shinこと、牛島真もいる。初めて会って以来、ちょいちょいオフィスにも遊びに来てくれて、そこで一緒にゲームをしたり、イラストを描くところみせてもらったりしている。
「静さんがおもしろそうなことやってるのみて参加したいなって。ちょうど僕も高3だし」
 そう言ってくれたのは素直に嬉しかった。
「今日はどうだった?参加してみて」
「そうですね」
少し考え込み言葉を探す真。
「おもしろかったですね、特に秋人さんの分析部分。これなら誰でも合格できるんじゃないかって思えました」
「よかった。龍門くんとか怖くなかった?」
そこは少し心配していたので尋ねた。
「そうですねー、ああいう人もちろん全く好きじゃないですが、あまり怖いとかはないです。方向性は違うけど、そうなっちゃう気持ちは理解できるんで。ただ、あの子……は嫌いですね」
真の目線の先にはミズキがいた。意外だ。
「あの子は外見もいいし、明るい。おそらく学校でも人気者なんでしょう。スクールカースト上位者って感じです。そういう人は、僕らみたいな人間にも優しくしてくれる。……それがどれだけ僕らを惨めにさせるかを意識することなく単なる善意で。たまらないですよあの時抱く気持ちは」

ゲームの時の楽しく話すTo-Shinとも、みんなにイラスト描いてくれる真とも違った高校生の牛島真がやりきれなそうに話す。
「まあ学校とは違うんで、特に接点も増えないだろうからあまり気にしなくていいんでしょうけどね」
 そういう真は、無理に背伸びをして大人になろうとしているようにみえた。

(9)北川あやみ

オフィスで勉強していると、カツカツという音とともに急にドアが開いた。
「静くん、いる?」
 大きな声がして、びっくりした楓は思わず出入り口を見た。そこにいたのは、ヒールを履いた女性。ひと目で夜のお店で働いているだろうきらびやかな服、スラッと美しい体、サングラスを外したその顔はとても美しかった。
「静くんいる?」
 今度は優しくほほえみながら、落ち着いた声で楓に向けて尋ねる。緊張しないように気を使ってくれたのかもしれない。
「あ、いま裏で作業していると思います。呼んできましょうか?」
「大丈夫よ。勉強の邪魔してごめんなさいね」
そう言って靴を脱ぎ、オフィスに入ってきた。その時ちょうど奥から翠川が出てきた。
「静くん、どうして連絡くれないの?」
翠川により掛かるようにその女性は尋ねる。胸に手を当てるその仕草は、楓には刺激が強いが、翠川は特に慌てる様子もなく落ち着いたものだ。
「……アヤミか?大きくなったなー!」
「大きくなったって、親戚のおじさんじゃないんだから」
 そういって笑うあやみと呼ばれる女性は、はじめに感じたよりも幼く見えた。
「で、どうして連絡くれないの?」
「ごめんごめん、落ち着いたら連絡しようと思ってたんだよ。ちょうど一緒にやりたいこともあったし」
「そういっていっつも後回しにするんだから」
「ごめんって。あ、みんなにも紹介するよ」
そういって翠川はこっちを向いて話し始めた。
「みんなちょっと聞いてー。こちら北川あやみさん。……友達、の妹で小学校の時から知ってる。今はえっと、モデル?をやりつつ、クラブを経営している、んだっけ?」
「雑な紹介ありがとう。みなさん、はじめまして。北川あやみっていいます。モデルって言っても頼まれたときだけって感じで、本業はクラブの経営です。上品な大人の社交場みたいなのをつくりたくて、大学卒業後東京で働いたあと戻ってきて始めました。悪い人がいないところなんで、いつか遊びに来てくださいね。静くんにはずっと振られてばっかりだけど一方的に大好きって感じです」
苦笑いをする翠川。「静さんって何者……?」と龍門が呟いているが、それについて楓も同感であった。

(8)ナイト求人

「藤田さん、嬉しそうでしたね」
 遊の言葉にハッとする。作業に没頭していて遊が入ってきたことに気が付かなかった。
「そうだね。よかった」
 翠川は心からそういった。昨日は藤田酒店の正式な譲渡の日だった。契約書をつくり、株式のすべてを譲渡する旨をその場で合意した。お金もその場で渡した。今では銀行振込が通常だが、こういう形式を大事にするのもたまにはいい。このままだと閉めなくちゃならないなーという藤田さんから、藤田酒店を譲り受けられたことはもちろん善意だけではない。ただ、小さい頃からおじいさんで、今はもうすごくおじいさんになっている藤田さんが、少し涙ぐみながら「店を頼んだ」という姿には流石にくるものがあった。頑張ろうと思う。
 この数ヶ月、藤田酒店の業務のすべてを自分でも行った。酒の仕入れ、卸先の居酒屋、キャバクラなどへの自転車での配送、新店舗情報を仕入れた際の営業等々一通りできるようになった。日中は無花果とナイト求人のシステム開発、夕方から深夜まで自転車でのお酒の配達と中々ハードだったが、だからこそこの街にも詳しくなったし、勢力図のようなものも見えてきた。ナイト求人の事前のヒアリングもばっちりだ。サービスリリース後に利用する約束をしてくれてる店も多い。すでに黒羽は、このあたり完璧にこなす。バイトの先輩という感じで、翠川は逆に教えて貰う立場だった。



第3章 翠川静は、塾を始めた

(1)無花果

外は暗くなってきた。すっかり学校が終わったあとオフィスによるのが日課だ。今日は、志望大学を考えている。特にやりたいことないなあ、と手が止まる楓の耳に秋人と龍門のやり取りが聞こえてきた。

「センセー、俺特にやりたいこととかねぇんだけど」
 楓の悩みと一緒だ。そもそも、わたしたちくらいの年齢で将来やりたいことって見つかるもんなんだろうか。オフィスに来るようになったとはいえ、基本的には家と学校の行き来。部活やっていたとしてもそれを将来の職業にしたい人は一部だろうし。
「そうか。まあそうだろうな。そうだなーたとえば喜一郎、好きなマンガとかあるか?」
「マンガ?俺結構読むぜ。ワンピースと進撃の巨人は鉄板だな。あとちょっとマニアックだけどHUNTER×HUNTERっていう特殊能力のバトル漫画にすごくハマってる。周りで読んでるやついなくて語れないけど」
 超有名タイトルを恥ずかしげもなく披露するあたりに龍門の気持ちのいい性格が見て取れる。私だったらメジャーを避けて語ってしまいそう。ただ、HUNTER×HUNTERをマニアックということだけは許せない。幽遊白書、レベルEなど数々の傑作を世に送り出してきた冨樫義博大先生の傑作をマニアックだなんて。……いや、それよりもメジャー作品が好きな龍門にさえ刺さる作品であったことをファンとしては喜ぶべきか……。
「おお、いいな。俺も全部好きだ。じゃあ、好きなキャラクターっているか?ハンタだとどうだ?」

 少し考える龍門。
「んーキルアかな。まず強え。そしてなんというか友達を大事にする。いやちょっと違うな」
 更に考え込む。
「あー友達だけじゃなくて、大事にする順番っていうの?それがはっきりしているのがかっこいい」
「おもしろい観点だ。どういう場面でそう思った?」
「キルアは自分を変えてくれたゴンをとても大切にしている。だからこそ、ゴンが目標?を達成できるようにできることを全部やる。表でも裏でも。だから時にはゴンがその場でやりたいことを否定してでもそうする。そのほうが、ゴンの本当の目標を達成できるって思ってるから。なんかさ、友達が大事ってときにさ、そいつのいうことを全部いいよっていうこともできるのに、そしてそうしたら絶対に嫌われないのに、ほんとにそいつのこと思ってたら嫌われるかもしれないことをいうってのも大事なのかもなって思った」
「喜一郎、いいな。すごくいい。それが今喜一郎が大切にしている価値観だ。それをやりたいこととか、志望大学に合わせた表現にするとこうなる」
 そういって秋人は医療現場における優先順位の大切さや国際協力における自助努力の大切さから自らがやるべきことというカタチで話し始めた。そのどれもが先程の龍門の「大切なものの優先順位」という軸から話しているため、あたかも龍門が医療現場、国際協力現場に行くべき人間であるかのようにきこえる。すごい。

「すごいなセンセー、俺医者になったほうがいい人間みたいだ」
 同じように感じたのか龍門がそう話す。
「必ずしも医者でなくてもいい。国際協力でなくてもいい。今喜一郎が気付いた大事な価値観を発揮できる現場はどこでもいいんだ。そしてそれは変わってもいい。これから多くの出会いや別れを経験して、変わらないほうが変だとさえ思う」
「でも、俺これマンガから影響受けてるんだぜ?いいの?」
「いいに決まってる。社会における特殊な事情、たとえば生まれや事件など、そういうものからやりたいことを語れるのは素晴らしい。だけど、そういうことがなかった人が、ふと歩いている道で気付いたこと、音楽を聴きながら感じたこと、マンガのワンシーンで心動かされたこと、それらからやりたいことを決め、行動することの何が悪い?今日から、喜一郎が『医者』をみたときに感じる気持ちは、昨日とは変わっているはずだ。それでいい」
 黙る龍門。そこにはいつものヘラヘラした表情はない。
「ちょっと考えてみる」
「そうか」
そういって席を離れる秋人。真剣な顔をして何かを紙に書き始めた龍門。
 驚いた。怖い人だと思っていた。いや、口調は今でも鋭い。ただ、龍門にすごい可能性があると信じていることが、秋人の言葉から伝わってくる。「私にもなにかあるかな」そう思わず呟いてしまったとき、「ん?」と横を歩いていた光が聞いてきた。まだ恥ずかしかったので、ごまかすように「秋人さんって怖い人だと思ってました」と話したら、ニコニコしながら光が話し始めた。
「んーたしかによく言われてるねー。冷酷非道、人の気持ちのわからない頭がいいだけの人間、優しさの欠片もないなどなど」
「そ、そこまで言われてるんですが?」
「あははは、まあそこまでじゃないけど、近いことはよく言われてるんだー。でもさこの前一緒に買物に行った時……」
ふふふっと思い出すように笑う光。
「眼の前で子供がコケたのね?で、そこを秋人は華麗にスルー。あ、もちろん近くに人も多くいて大丈夫そうだったんだよ?でちょっと歩いてから、急に休憩したいって言い出してベンチに座ったあと、『トイレ』とぶっきらぼうに言って急いで子供がころんだところに戻って無事を確認してた。ふふふ、素直じゃないけどとっても優しい人」
 そんなふうに秋人のことを話す光の眼はもっともっと優しかった。
「もしかして、光先生……」
はっと何かに気付いたようにこっちをみて、少し貯めたあと「内緒ね?」という光先生は少し赤くなっていた。うんうん、と力強くうなずく。
「向こうは私のことなんてなんとも思ってないからどうしようもないんだけどね」
 寂しそうに秋人を目で追う光。こんなに魅力的な人でも、自信がないんだと意外に思った。

(2)光の内面

「そうなんだ、自分でも悪いと思っているんだね。じゃあそこの部分もう少し考えてみようか」
 不登校の子へのカウンセリング。光の本業。ときには少し踏み込む必要があるし、それゆえに柔らかい世代、多くの影響を与えかねない世代と接するときはやはり緊張する。彼女らにとって、私達の発言はときに強すぎる。
「あいつうぜえなあ。可愛くないくせに」
 光に聞こえるように生徒がいう。「またか」と少し苦笑いをしてその言葉を受け入れる。光の外見は美人とは言えない。いや、髪がボサボサであることも多いし、めんどくさいときには化粧もしない。服装もラフなのが好き。そこから導き出されるのは、『美人とは言えない』ではなく、よく言ってそれだ。まあ可愛くないんだろうなー。光は自分が外見で評価されないのは仕方がないと思っている。というか正直恋愛というものにあまり興味がない。今まで告白というものをされたこともあるが全く心が動かなかった。だからこそ秋人に対する気持ちは自分でも意外だった。秋人への気持ちに気づいてからは、今までは全く傷ついてなかった「可愛くない」などの言葉に少しだけ傷つくようになっていった。
 さっきの子も悪気があるわけではないんだと思う。自分が触れられたら弱いところを触れてきた人間に対して、思わず攻撃してしまう。しょうがない反応だ。ただ、たまたま横にいた秋人にも聞かれてたと思うと少し悲しい。わたし、まだまだ未熟だな。そう思って作業に戻ろうとしたところ秋人に声をかけられた。
「光、ちょっといいか」
「ん?なになにどうしたの?」
ちゃんと明るい声が出せて安心した。こういう弱いところを秋人には見られたくない。
「さっき、喜一郎がハンタ好きって言ってたぞ」
 秋人は、人のことをファーストネームで呼ぶ。冷たくて厳しそうな秋人からはちょっと意外で昔理由を聞いたことがある。そうしたら「自分が呼ばれて嬉しかったから」と教えてくれた。自分がされて嬉しかったことを素直に人にしようとするところ、好きだなって思う。
「えーいいね!世代がぜんぜん違うけど、好きな人いるんだねーうれしいな」
光たちと龍門たちは10歳程度の歳が離れている。そんな違う世代が同じ作品を好きっていうのはなんか嬉しい。今度喜一郎とそのことで盛り上がろう。元気出てきた。
 どこかホッとした様子の秋人。思えば、秋人から話しかけてくるのは珍しい。いつもは用件だけ伝えてくるか、光から話しかけるかしか会話が生まれない。もしかして慰めに来てくれた?そんなわけないか、と秋人を見ると眼の奥が優しい。本当に慰めに来てくれたのかもしれない。でもだとすると慰めの言葉が「ハンタ」って。思わず笑ってしまった。あんなにいつもいろんなこと器用にこなすのに、こういうところは不器用なんだなって思うとどうしようもなく秋人のことが愛おしくなった。この一年はいっぱい一緒にいられる。少し頑張ってみようかな。


(4)白鷺秋人は苦しかった。

白鷺秋人は苦しかった。
なにか特別なことがあったわけではない。ただ、秋人が人と話すとその人は必ず怒ってしまう。誤解があったのかとそれを解こうとすればするだけ相手の怒りは増していく。両親はそんな秋人にどう接すればいいかわからず放置。

誰ともうまく話ができない秋人は勉強に逃げた。勉強はいい、一心不乱に集中すれば他のことを考えなくてもいい。すると結果が出る。特に行きたい大学もないが一番難しい大学に行けばいいと思った。そして無事合格。そこでもうまく話せないが、中学高校に比べて誰かといなければならないということがない分楽だ。ただこちらでも時間がある。日本にはまだ難しい試験があるらしいからそれらの勉強を始めた。ただ、これを続けて、これらに合格したからといってなんなんだろう。生きるってこんなに苦しいことなんだろうか?

秋人が光と出会ったのは、先にいった難しい試験、具体的には司法試験と公認会計士試験に合格した大学三年生のときだった。第一印象は……正直覚えていない。なんの印象もないのだ。人がいたな、以上の印象を光に会った際に抱いていない。もっともそれは誰に対してもそうなんだが。

「白鷺くんは、自分の感じたことや思っていることをちゃんと伝えたいんだね」
 そう光に言われたときから、秋人は光を認識するようになった。光の顔をみる。まっすぐこちらを見ている。なにか言ったほうがいいのかなと思って言葉を探したがみつからない。随分自分の本音というものを表に出すことをやめていたんだなと思う。その間の沈黙も光は微笑みながら待ってくれている。ああ。本当にそうなのかもしれない。自分には相手を怒らすことしかできない。だから話さない。そんなふうに気持ちを押さえつけ黙った。だけど、それを苦しいって思っているってことは本当は伝えたいのかもしれない。
「そう……かもしれない」
 傍から見ると学生同士の当たり前の会話。だけど秋人にとっては10年以上表に出したことのない本当の言葉。そしてそれは光にとってもなにか特別なものだったようでさっきまでの微笑みが満面の笑みに変わって、うんうんと力強くうなずいている。
 このときから秋人は少しだけ世界が明るくなったように感じた。今まで気にもとめていなかった人の表情や行動の意味もわかるようになってきた。秋人の行動で喜ばれることも増えた。誘われることも増えた。特に女性からの誘いが多くなり、その求めにも応じた。
多くの人と交流するようになり、ときに自分の感じていることを共有することもできた。それは秋人にとっては長年望んでいたことであり、頑なだった自分の一部が溶けていくことを感じた。自分とは別個に存在すると思っていた世界というものに、自分自身も含まれていた、そう思うことが増えた。だからこそ不思議だった。あのときの光との会話。いや会話とも言えない、光からの言葉。多くの人と話す内に、光との会話のようなことが沢山起きるのではないかと無意識に考えていたが、どうもそうではないらしい。自分自身の言葉を表に出すという心地よさはあるものの、誰かの言葉が自分に影響を与えるということはなかった。もちろん相手が言っていることはわかるし、彼女たちがそう考えているのもわかる。ただ、それが秋人の中で価値を持つことはない。「そうか、その場合はこういうケースがあったそうだ、だからこうしてみるのはどうか?」のように自分持っている知識を共有することで相手が喜ぶことはある。ただ秋人の深く柔らかいところに触れられる感覚はない。もしかして光が特別だったんじゃないかと思い始めたのはその頃からだった。そう思ってからいつも光を目で追うようになった。
 ……少し意外だった。あれだけ話しにくい自分のような人間にも話しかけてくる光は友達も沢山いて、輪の中心にいるものだと思っていた。しかし、光は一人のことが多い。もちろん時に誰かと話しているが、あのとき秋人に向けてくれたような笑顔ではない。なぜだ。そして最近は随分一人でいることが多い。話してみたい、そう思った。ベンチでお弁当を食べている光。

「久しぶりだな」
 そう口にした瞬間少し慌てた。この言葉であってるのか?こんにちはのほうがよかったか?そしてそう思った自分自身にすごく驚いた。自分の言葉を気にするなんて。
「え?秋人くん!?」
 驚き、慌てる光。そして、白い頬に赤みがさす。


(5)倉田光は落ち込んでいた。

倉田光は落ち込んでいた。
 やってしまった。もう少しやりようはあったんじゃないか。言った事自体には後悔していない。ただ、タイミングや伝え方は他の方法があったのではないか、あの子、傷ついてないといいなあ。そんなことを何度も考えていると上から声がした。
「久しぶりだな」
「え!秋人くん!?」
 声の主は、白鷺秋人。3年生になって少しだけ話すようになった。周りからの評価は氷ノ皇子。そのネーミングは大学生にもなってどうかと思うが、人を寄せ付けない張り詰めた空気と笑わないが故に決して崩れることのないキレイな顔から、そんな評価をしたくなる周りの気持ちもわからなくはない。ただ光からみた秋人は、その内側にすごく暖かいものを持っているようにみえた。誰かになにかを伝えたい、だけどそれを抑え込んでいる、そんな感じ。そして光は自分のミスに気がついた。つい、いつも心のなかで呼んでいるように「秋人くん」と呼んでしまった。
「あ、違くて、秋人くんじゃなくて、えっと……」
「なんでだ?秋人だが」
 わ、笑った?最近柔和になったとは聞いたけど、ここまでとは。おそるべし。そして「秋人」呼びを許してもらったみたいで嬉しい。これからは遠慮なく呼ばせてもらおう。こんなタイミングじゃなかったらもっと喜ぶんだけどな。そんな事を考えて少し悲しい気持ちになった。
「勘違いだったらいいんだが、何かあったのか?」
 ほら、温かい人。普通気が付かないよ今の私が悩んでることなんて。
「ありがとう。すごいね秋人くん」
「すごくなんてない。最近ずっと光のことを目で追って、考えていたからわかるのも当たり前だ。遅いぐらいだと思っている」
「それでもありがとう。ちょっと失敗したなってことがあって」
 そういって光は、友達の悪いと思う行動を指摘したこと、それによって友達が怒ったこと、一緒にいられなくなったこと、だけど伝えた事自体は後悔していないこと、を話した。流れる沈黙。耐えきれなくなって光が続ける。
「ご、ごめんね急にこんな話して」
「いや、それは全然構わないんだが……。今自分の胸の内に生まれた感情をうまく言葉に変換できず、黙ってしまっていた。すまない」
そうなんだ。嬉しい。やっぱり暖かいね秋人くんは。少しの沈黙の後、秋人は話し始めた。
「俺は、誰かになにかを伝える時、ここまで自分の心を砕いたことはない。光と話していて暖かくなったり嬉しくなったりするのは、光がここまで向き合った相手のことを考えているからだとわかって……感動している。そうだ、『感動』してるんだ俺は。すごいな光!」
 てっきり解決策や慰めの言葉が返ってくるんだと思った。だけど秋人の話は、自分が「感動」した話。ある意味ではわがまま。だけど、その言葉がどれだけ今の光を救うか。きっとわかってないんだろうな、秋人くんは。
「ありがとう」
 なんのことだ?とばかりにこちらをみてくる秋人の目は誰よりもキラキラしていて、光は「誰だよ氷ノ皇子なんていったやつは、全然違うじゃん」そう思って思わず笑ってしまった。

(6)ナイト求人始動

「遊、ちょっとこっち来てくれる?」
 はい、と返事をして遊は翠川の側に行く。
「どうしました?」
「これなんだけど、ようやくβ版リリースできるかなって思って」
 そういって翠川はパソコンの画面を見せてくる。そこには、華やかな女性たちが並ぶ。ピンクを貴重にしているため、ちょっと眼がチカチカする。それがわかったのか翠川が笑いながら続ける。
「ああ、この色?結構きつい色だよね。ただ、色々検証した結果、おしゃれな色合いよりもこういう一見してナイトの求人ってわかる形のほうがアクセス伸びるし、応募も増えることがわかったんだよね。かっこいいほうがいいはずっていう思い込みをデータが外してくれるのとかビジネスの醍醐味だったりする」
「これ静さんがつくったんですか?」
「うん、まだ簡単なサービスサイトだからね。このくらいのコードなら書ける。ゆくゆくは人雇って改善していかないといけないけど、ベータ版としてはこのくらいで十分だと思ってるよ」
「すごいっすね。エンジニアリングもできるんだ……」
「できるって言っても、って感じだけど、自分で見た目だけでもサービスサイトが創れるってのは起業するのにすごく役に立ってる。このサイトを作って、いくつか広告を打った時に、どのくらいリアクションがあるかでやるかやらないか決めたりもできるしね。初期コストは数万円。起業って大変なことのように捉えられてるけど、ほんとに大きなチャレンジをする前にできることはたくさんあるから、あんまり怖がるものではないかな。特に今はノーコードといって、文字通りコードを書かなくてもサービスが作れたりするので興味あれば見てみるといいかも」
 起業というのはどこかのすごい人がする、自分とは関係のないことだと思っていたことを見透かされたような気がした。静さんをみていると、とても軽やかに社会に対していろんなことを試している。そしてそのほうがおもしろそうだとも感じた。
「で、こっから本題。このサービスを売っていきたいと思ってます、と。基本的なビジネスモデルはサブスク、つまり、ナイト系のお店から月額でお金をもらいつつ、求人情報を掲載する。金額は松竹梅で、2万円、1万円、5000円でそれぞれ掲載方法を変える。多くの金額を払ってくれる人に優先的に募集が集まるようにしていくってことだね」
「こういうサービスがいままでなかったお店の人たちがいきなりわかってくれますかね?」
「そのとおり。いい観点だね。東京のWeb会社がうまく地方に入っていけないのは、まだまだこのあたりのリテラシーの差をわかってないからだと思っている。どうすればいいと思う?」
 静さんが質問してくるときは、遊でもその答えに辿り着けるときで、育ててくれようとしているのを感じる。
「……そうですね。まず、一緒に作ってあげるってのが考えられると思います。写真を撮って、それこそ求人の言葉とかもお店のことと働きたい人のことをわかっている僕たちが」
 配達でよく行くスナックのママさんを想像しながら話す。
「いいね!それはすごくいいので、ぜひやっていこう」
「あと、いきなり有料は導入しづらいんじゃないかなって思うので、もし可能なら最初は掲載を無料にして、1件目の応募があったタイミングで再度交渉に行くのがいいかもしれないなって思いました。基本的にナイト系の方々、人不足なんで、しっかり成果出るなら2万円も安いと思ってもらえそうです」
「いいね、特に自分で売りに行くところまで想定して話しているのがいい。じゃあそれでやってみようか」
 あっさり決定して驚いた。
「いいんですが、今考えたことをそのまま採用しちゃって?」
「もちろんいい。今この場で意思決定できる俺が、いいと思ったアイディを採用する。持ち帰って検討してもいいことないからね。やっている途中でもっといい考えが浮かんだらそっちに変更する。後戻りができない決定以外はできるだけ早くして、都度変えながら進んでいく。これができるのがスタートアップのいいところ」
 こういうのは会議みたいなものを開いて、みんなで話し合ってから決めるものだと思っていた遊は驚いた。そうか、考えてみたらこっちのほうがスムーズだし、仮に無料で売っていくプランが良くない場合には、その後変えればいい。軌道修正はいつでも可能だ。こういうものは早く決めて動けばいいのか。だとすると……。
「今仲良くしてて、かつ、求人に困っているナイト系のお店が10店舗ほどあるので、まずはそこの1つをサンプルに募集の言葉や掲載する写真を作ってみますね。入れたほうがいい文言や必須の項目等あったら都度指摘してもらえる助かります」
 ちょっと驚いた顔をしている静さん。
「……まさにそこを指示しようと思っていた。嬉しい誤算だ。うん、そのとおり進めてもらえたら。あ、時給と住所と条件は必須でお願いします」
「承知しました。あ、一つ質問いいですか?」
「ん?」
「静さん、なんでナイト求人やろうと思ったんですか?」
 素朴に気になっていた。これだけいろんな事ができそうな人があえてこの道に進む理由ってなんなんだろうか?
「……んー、そうだなあ」
 いつもとは違い歯切れが悪い。
「んー、色々あるけど、1つはこの街のナイト系ちょっと悲惨だなって思ってて」
 静さんのいうこともちょっとわかる。あまりこの世界に詳しくない遊が見ても、ちょっと異常なんじゃないかってことが日夜起こっている。岡山にはいわゆる風俗がない。正確に言うと、店舗営業の風俗店がない。昔のイケてる市長が決めて条例ができてそうなったらしいが、その後のケアが雑だったせいで、実質的に裏でその手のお店が増えたそうだ。店舗は持てないから、キャバクラやクラブという外見で、実質お持ち帰りOKという形。風俗というものがいいかわるいか遊には判断できないが、一番可哀想なのは、そこまでする気はなかったのに、断れずズルズルとそうなってしまった女性たち。
「まあさ、別の俺も善人ってわけじゃないから、絶対に救うんだ!みたいなことまでいう気はないけど、事業をする中で、ちょっとでもこの状況が良くなったらいいとは思ってるよ。ナイトで働きたいって思った女性が、いきなり悪いところに行くんじゃなくて、健全な店で働けるようにするくらいは挑戦してみてもいいかもなって」
 そう軽く言い放つ静さん。ただ、目の奥にはそれだけじゃない何かがあるような気がした。

(8)藤田酒店は伸びている

藤田酒店が伸びている。
もともと藤田さんほぼひとりで回していたところに、遊や静が加わって、既存のお客さんに迅速にお酒が配達できるようになった。そんな折、立花楓から真剣な顔で話しかけられた。
「静さん、私、藤田酒店でバイトすることはできないですか?」
「え、どうしたの急に?」
「え、と、ナイト求人や藤田酒店、それに私達が受けている無花果を身近で見て、静さんや秋人先生の話を聞いてる内に、仕事とか事業のことが少しずつ分かるようになってきたんです。そうしたら今の状況があまり良くないなって思うようになって……」
 いつもはあまり積極的に話そうとしない楓が、自分の言葉で一生懸命話してくれる。
「つまり、無花果メンバーは、ただ静さんらから受け取っているだけで、これでは事業としては継続していかない。次につながらない」
楓は、無花果が事業として持続可能でないことを指摘しているんだろう。特に仕事の仕組みみたいなものを説明したわけではないのに、しっかりとその根幹を理解しているようで、少し驚いた。高校生ということもあって、お金のことにあまり近づけないようにしていた自分の考えが奢りだったと反省した。
「そっか……。ありがとう、提案してくれて。ただ、今年は一年目で事業としても投資のタイミングなんで大丈夫だよ。ある意味、初年度に参加してもらうってのは不確かなところに楓たちも投資してくれてるのと一緒なんで、お金をもらわないってことが単なる善意じゃないし、来年度以降の継続の仕組みも考えている。だから無理にバイトでお金稼がなきゃ、みたいなのは大丈夫よ」
少し考えるような素振りをしたあと、楓は言った
「わかりました。受験で結果が出せるように全力でがんばります。ただ、それとは別にしても藤田酒店でインターンさせてもらえませんか?」
「インターン?」
「はい、インターンです。この間、秋人先生と話していて、社会の仕組み、もっと具体的なところでいうと企業の仕組みにも興味が出てきました。だからそれを、藤田酒店でインターンとして働かせてもらいつつ、深めていきたいなって思ってます」
 なるほど、考えても見なかったが、たしかにそれはすごくいい方法だ。本や話だけでは深めることができない現場の知識をインターンとして関わることで学ぶことができる。これはそのまま総合型選抜入試にも活きるだろう。
「それは、すごくいいね!ぜひ!今はバックオフィス部分が手薄だから、仕入先との連絡や交渉、経理含めたお金周りとかを一緒にやりながら身につけてもらえると嬉しい」
「わかりました!がんばります!」
晴れやかな笑顔で楓が答える。今の自分が、彼女たちより10年分いろんな事がわかっている自分が、もし楓と同じ立場だった時に、同じような決断ができるか、そんなことを考える。勇気や本当に必要な能力、そういうものはほんとに年齢じゃないな、俺も頑張ろ。

さらにこれは静にとっては嬉しい誤算だったが、他の無花果のメンバーが藤田酒店でインターンをはじめてくれた。大学受験を決め、大学の入学金を自分の手で作るために。ちなみに藤田酒店のインターンは時給1000円である。
はじめは、ナイト系もあるし、高校生にあまり遅い時間まで働かせるわけには行かないと考えていたが、お店の人に聞くと、「日中の内にほしい」という要望も相当数あり、明るい時間配達を頼むことにした。午前10時から、深夜0時まで柔軟に対応できる藤田酒店は近隣のお店からかなり重宝されている。
「遊くん、これ先に配達いってきてもいいかな?」
「ああ、たすかる」
「よし、じゃあ行くぞ英介」
意外にも酒屋でのインターンでは龍門喜一郎が活躍している。もともとバイト経験もあったことに加えて、不登校(出ずっぱりの)であったことから時間もある。思ったより面倒見がよく、他の不登校の子達に仕事を教えつつ、一緒に配達をするようになってきた。
 もちろん学業優先で、高校生には遅い時間まで働いてもらうことはない。しっかりと親御さんと話もしている。学校にはいけないけど、藤田酒店には行きたい
という子も多く、今の所ありがたがられることはあっても反対されることはない。


(7)あやみのお店

ナイト系の求人はおもしろいようにとれた。初月10件行けば大成功だと思っていたが、すでに30件。これも遊が今まで色んな人と関係を作ってきたからだ。素直にすごいと思う。負けてられないなとも。
 遊には遊の、俺には俺のできることをやろう。そう思う。ちょっと気が重いけどあやみの店に行く。
 メインの繁華街から少し外れた裏通り。とはいってもネオンが瞬く中、あやみの店、クラブVEEの周辺にはゴミひとつない。これだけ人通りが多いにもかかわらず掃除が行き届いている。流石だな。ゆっくりとドアを開ける。
「いらっしゃいませ」
 キレイな女性に色気のある声で挨拶される。
「こんばんは、あやみさんいますか?」
 その女性はコクリとうなずくと後ろを振り向いた。
「静くん、いらっしゃい」
 微笑んで招き入れる中条あやみは、なんというか、少し、怖い。自分の魅力的な見せ方をわかった上で、あなたに興味ありますという眼でこちらを見つめてくる。幼い頃、静兄ちゃんっ静兄ちゃんって駆け寄ってきたお転婆娘はどこいったんだよ。
「お店に来てくれたのはじめてだね、『静兄ちゃん』」
 席に案内され、二人っきりになった途端、こっちの内心すべてわかったようにそう言ってくるあやみはやっぱり怖い。苦笑いしながら謝る。
「あんまり悪いって思ってないでしょう。まあいいんだけど。それで今日はなんのご用?」
 話が早い。まずはナイト求人の登録のお願いをする。
「もちろんいいわよ。うちのお店も大きくなってきているし、この調子だと次の店も出すことになりそう」
「すごいな。まだ1年ちょっとじゃないか?」
「そうね、ちょうど1年。最初は大変だったけど、みんな頑張ってくれたからここまでこれた。感謝してる」
 お店の他のメンバーを眺めつつ、子供を見守るような表情をするあやみ。あやみは、お店で男の人を相手にするときの表情より、こういうときの表情のほうが魅力的だなと静は思う。
「あやみのお店はいいね。入った瞬間。いや入る前からいい空気が伝わってくる。居心地もいいし」
「女の子も可愛いし、ね」
笑いながらあやみがいう。
「そうだね、それはもちろん。だけどそれだけじゃない。みんな自分に自信があるようにみえる。仕事に誇りを持っているのも、おしぼりの渡し方とかそういう些細なところからも見える。いい店だ」
「そこまでわかってるならもっときてよ」
砕けた感じでそういうあやみに「そうだね」とだけ返す。
「で、あれでしょ?他のお店の子にも伝えてほしいって話でしょ?」
 本当に話が早い。
「うん、そのとおり。健全なお店だけ掲載したいって思ってるから、あやみの紹介が一番信じれるかなって」
「そうね、あの人が関わっていないお店のほうがいいでしょうね」
「あいつは、この店にもくるのか?」
「うん、普通にお客さんとして。人数増えていっていると入ってもまだまだ小さいお店だからね。これが大きくなってくると、もっと近づいてくるんだとは思うけど、そこは頑張るつもり」
 強く言い切るあやみだが、少し怯えているようにも見える。
「できることあったらいってくれな?今度はちゃんとするから」
「うん……ありがとう。もしかして静兄ちゃんが帰ってきた理由ってそれだったりするの?」
 曖昧にうなずく。静は決めている。ただ、それをまだ周りに言うつもりはない。

(8)牛島真はがっかりしていた。

牛島真はがっかりしていた。
 静に誘われ、オフィスによく来るようになった。そのうち「無花果」という総合型選抜向けの塾が始まり、真も参加した。秋人の授業はおもしろい。真は自分が好きなイラストを元に進路を組み立てることに。学校ではこういう話はできなかったから、まさか自分のイラストを元に大学を選べるようになるなんて思わなかった。はじめて自分の進路にワクワクしている。
 だが、「無花果」の雰囲気は、控えめに言って……最悪だ。
 初めは落ち着いた雰囲気だったが、今では龍門喜一郎がリーダーのように振る舞って、騒がしいことも多い。学校に行ってなかったとはいえ、街では多くの友達のいる喜一郎。新しいメンバーとも仲良くなるのがはやい。最近では藤田酒店でも遊がいない間はリーダーのように振る舞っている。典型的な陽キャだ。
「なんであんなやつが学校行ってないんだろう?」
と呟いたら、遊が
「あいつにも色々あるんだよ」
そう言ってたのが印象的だった。
あと一人、橋本みずき。喜一郎とタイプは違うが、こっちも典型的な陽キャだ。誰とでも分け隔てなくしゃべる。こんなに可愛い子に笑顔で話しかけられたら男なら誰でも好きになってしまうだろう。僕はならないけど。

「今日、カラオケいかね?」
 喜一郎が突然そういい始めた。周りのみんなも乗り気だ。特に乗り気なのはみずき。
「いいねー!ちょうど行きたいって思ってたんだ。徒歩1分でカラオケ行けるとか最高。いこいこ!」
「さすが、みずき。ノリの女」
「なによノリの女って。みんなも行こうよ!」
 笑いながら、どんどん話が固まっていく。オフィスにいたほとんどみんな行くことに。
「真くんもいかない?」
みずきに誘われた。こういう自分から行きたいと言えない人にちゃんと声をかけるみずきはさすがだと思う。他の男子が「女神……」って言ってた気持ちも正直良くわかる。だけど
「ごめん、僕は今日はいいや。誘ってくれてありがとう」
「そっか、残念」
まだなにか言いたそうにミズキがこちらを見てくる。
「あの……私、真くんの絵すっごく好きなんだ。どんな事考えて、あの絵になってるのか興味ある。今度教えてよ」
「……うん、ありがとう」
 曖昧な返事になってしまった。絵のことをしってくれてて、さらにそれに興味を持ってもらえるのはすごく嬉しい。喜一郎も、うるさいけど、別に悪いやつじゃない。わかってはいるんだけど……。
 みんながカラオケに向かい、オフィスに残ったのは遊と楓と真の3人だった。遊とは比較的よく喋る。派手な外見によらず、遊はオタク文化に相当詳しい。最初に盛り上がったのはとあるマンガだった。

「どんなマンガが好きなの?」
 そう遊に聞かれた時、「わかんないだろうな」と思いつつ、ついそのマンガのタイトルを伝えた。ちょっと古いけど、歴史的な傑作マンガ。1つの設定だけであそこまで面白くなるなんて、中学時代にそのマンガを読んだ真は感動してしまった。そうすると遊は
「ああ、あのマンガ俺も好きだよ。俺はあれ、友情の話だと思ってる」
「俺もそうなんだ!!素晴らしい世界観、人間の内面の深い洞察、魅力的なところは本当にたくさんあるんだけど、あれは異種間、初めは単なるツールとしてお互いを認識していた2人が、それを超えて、生まれるはずのなかった友情を生まれさす!あそこがやばい!」
「だな。人間同士でも生じにくい『友情』を、異なる価値観をもってる違う種族の2人でさえ生じる。俺、あれに救われたんだよね。もっかい『友情』みたいな存在を信じてもいいんじゃないかなって」
 いつもは飄々としている遊が、不意に内面を見せてくれたみたいで真は嬉しかった。

「遊はカラオケ行かないの?」
「そうだな。今日はちょっとやることあって。楓も行かないの珍しいね。みずきといつも一緒にいるイメージあるから」
「そうだね。私も今日ちょっと進路のこと考えてしまいたいから」
なんとなく3人で話す感じになった。少し緊張するが、気になってたことを聞いてみる。
「橘さんは、どうして橋本さんと仲がいいの?」
「どうしてって……?」
「あ、きっかけみたいなのがあったのかなーと」
 しまった。変に聞こえたかもしれない。楓は「ああ」と軽く微笑んで理解したように続ける。
「そうだね、みずきは明るいし、友達も多い。ワイワイするのも似合ってる。私はみずきと違って、あんまり人と話すのも得意じゃない。二人でいるのは意外かもね」
 意図が完全に組みとられてる。さすが。
「ごめん、そういう意味じゃなかったんだけど……」
「ううん、いいの。昔はそんな自分が好きじゃなかったから気にしてたかもしれないけど、今は今の自分も結構好きだから」
 真から見た楓は、大人しく、少し影がある、いうならば自分と同じようなタイプ。だけど、今の自分が好きって言い切る楓は、その奥に強いなにかを持っているように感じて、真は少し驚いた。
「すごいね、僕は橋本さんや龍門くんと同じ場にいると、ちょっと気遅れしちゃう」
 ちゃんと笑えながら言えてるだろうか。大したことのない話のように言えてるだろうか。楓の沈黙が怖い。
「気後れって?」
 真剣な眼差しで問い返す楓。言ってしまいたい衝動に駆られて、真はいう。
「橋本さんや龍門くんって要は陽キャだと思うんだよね。学校にいるときは、学校の中心にいて、いろんな行事や遊びなんかも楽しそうにやってる。スクールカーストっていうの?あれの上位。僕は、あーいう人たちをみると、自分がとても惨めになる」
 吐き捨てるように言う。止まらない。
「わかってるんだよ。勝手に惨めになってるだけで、みんなは全然悪くないって。自分の問題だって。わかってるんだけど、惨めに感じるのはしょーがないじゃん。僕だって嫌だよこんな風に考える自分」
 驚いた顔をしたあと、「ふふふ」って笑う楓。
「なにがおかしいんだよ?」
「ああ、ごめんね。なんか、みずきと牛島くん似てるなって思って」
「僕と橋本さんが似てる?ぜんぜん違うじゃんか。橋本さんは、あんなに明るくてどんな場でも中心にいるのに、そういう輪に入れてない人にもしっかり声かけて、一人ぼっちをなくそうとしてくれてるし、行き過ぎたイジりには絶対乗らないの見ててわかるよ。あれで救われてる人すっごく多いと思う。あんなこと僕には絶対できない。本当にすごい人だと思う」
「……うん、やっぱり似てる」
「バカにしてるの?」
「んーん。そうだなあ。まあ別に口止めされてるわけじゃないからいっか。恥ずかしがるだろうから、みずきには言わないであげてね」
曖昧にうなずく。
「この間ね、みずき、牛島くんの絵のことめちゃくちゃ熱く語ってたの。『あの表情はヤバい。ヤバいくらいヤバい』って」
 何言ってるんだろうね、と笑いながら楓は続ける。
「それでね、いっつも落ち込むの。私には牛島くんみたいな深さがないって。薄っぺらい人間だって。牛島くんがなにか素晴らしいものを生み出しているのを見るとヤバい!って思うのと同時に少し惨めになるって」
「……嘘だ」
「嘘じゃないって。そんな嘘つく理由私にはないし」
 驚いた。そんな風に思われていたなんて。
「みずきはさ、牛島くんの見ている世界がすっごくキレイな世界で、同じようにキレイな世界を見ている人のことをわかるって思ってる。『だって、その証拠に、牛島くんと仲いいのって静さんや光さんみたいな人でしょう?今の私達から見てものすごく魅力的な人たちと同じように話してる。カッコいいなあ』って言ってた」
 だからさ、と楓は続ける。「ふふふっ」と笑いが堪えられないように。
「さっきさ、みずき、牛島くんをカラオケに誘ってたでしょ?」
「うん」
「あの時、絵が好きで話ししたいって言ったの、かなり勇気振り絞ってた。『言うんだ言うんだ』っていっつも言ってたから。多分今日夜にでも『言えた!』って連絡くるんじゃないかな」
 楓は続ける。
「みずきがすごいのは、超えるために勇気を出せるとこだよね。傷つくことをすっごく怖がってるのに、それでもやると決めた時にちゃんと勇気を出す。いろんな拒絶されてきたのを知ってるし、そのたびにすっごく凹んでいるのを見てる。だけど辞めない。みずきにとってそれが『正しい』ことだと思っているから。そこがみずきの一番カッコいいところ」
「……カッコいいね」
「ね、私もそう思う。本人はあんまりわかってないみたいだけどね。ほら、似てるでしょ?」
 全然似てない。僕はまだなんの勇気も出してない。
 黙って話を聞いていた遊が全てわかってるように「勇気出す場面、あるといいな」って言ってきた。「うるせえ」って返してると、机の上の楓のスマホが震えた。画面を覗いた楓が「ほら」と笑いながら見せてくる。そこには「絵が好きって言えた!一歩前進。頑張った!」とスタンプとともにみずきから届いていた。
 

(9)伊集院結弦

「でねでね、秋人くんがね、『ありがとう光』だって!なんでそんなに優しいの!どうしてあそこでお礼が言えるのかなー。はあぁぁ、かっこいい。。」
 優しい光が入ってくる昼下がりのカフェで、静は思わず苦笑いをしてしまう。
「光は本当に秋人が好きなんだね」
「好き!大好き!世界で一番、うん。間違いない!」
 間髪入れずにそう答える光。やはり苦笑いしか出ない。
「そんなに好きなのに、付き合ったりはしないんだ?」
「私が、秋人くんと、つきあ、う、、、、?」
 だめだ、フリーズしてしまった。
「わたし、ちょっとお手洗いに……」

静からみると、どう考えても両想いの二人なのに、どういうわけか光はそう思っていないみたいだ。両片思いというやつだろうか。思わず笑みが溢れる。自分の好きな2人がお互いに好きあっているというのはこんなにも心を暖かくするのか。

 急に影がさしたように感じて顔を上げると、さっきまで光が座っていた席に男が座っている。
「こんにちは、緑川静くんだよね?」
低くよく通る声で男が言った。黒をベースにコーディネートされた服と長いパーマのかかった髪がよくマッチしている。右目の下にほくろ。穏やかな笑顔。ただ、目の奥は笑っていない用に見える。
「そうですが……?」
「ああ、よかった。僕は、伊集院結弦っていいます」
 光が戻ってきて、不思議そうな顔をしたあと静の隣に座る。
「こちらは、倉田光さん?はじめまして」
「はじめまして……?」
「今日はデート中にごめんね。あ、違うか、倉田さんの好きな人は白鷺秋人くんだもんね。今度秋人くんにも挨拶したいな」
 光が少し緊張したのがわかった。
「なんの、ご用ですか?」
「あーそんなに警戒しないでよ。ただの挨拶だって。それよりここのケーキ美味しいよね、僕も頼んでいい?」
「どうぞ」
伊集院は「すみませーん」と店員を呼び、人懐っこい声でケーキを頼む。
「ここのケーキどれも美味しいけど、特にクラッシックガトーショコラがうまい」
同感だ。静は、クラッシックガトーショコラを食べるためだけでにこの店に来たりする。
「あと、ガトーショコラにフォークだけじゃなくてナイフも付いてるのもなんかいいよね」
「それで、お話というのは?」
「話があるなんていったっけ?」
「……」
「ごめんごめん、冗談だって。静くん東京で会社を起こして、大きいところに売却したんだって?すごいね、地元の誇りだよ!」
 大げさな手振りで静を褒める伊集院。
「ありがとうございます」
「それに藤田酒店!あ、藤田のじいちゃん元気?酒店も順調らしいじゃん。今度二号店も考えてるんだって?その調子でどんどん地元を良くしてよ。期待してるよ」
 たしかに二号店は考えているが、まだみんなにもいってない。事前に良い物件がないか不動産に問い合わせただけだ。
「そして今一番キテるのが、ナイト求人。すごいねー、いままで岡山にインターネットでナイトの求人している人いなかったもんね。それが今では、30店舗が掲載してる。街の女の子の話を聞いても、最近はナイト系の仕事探す時スマホから簡単だから助かるってさ。街の形を変えてる。これはすごいことだよ!」
 ガトーショコラが届く。「ありがとう」と朗らかにいう伊集院。
「で、さ。ほんとにすごい、ほんとにすごいんだけどさ、ちょーっとだけペースを落としてくれないかな?ほら、急な変化は無用な争いも生んじゃうからさ。友達にも困ってる人が出始めててさー」
 なれた手付きでナイフを使い、ガトーショコラを食べる。
「それかこれはどっちでもいいんだけど、うちがそのあたり調整するってことで一緒に仕事させてもらってもいいかもしれないね。ほら、めんどくさいこといっぱいあるでしょ?地方だと特に。あ、安心して、うちはヤクザとは関わりないから」
 ガトーショコラを食べ終わったあとも、ナイフを持ったまま伊集院は続ける。
「ま、さ。考えてみてよ」
「わかりました、貴重なご提案ありがとうございました」
「そんな堅苦しくしないでよー。一緒に地元盛り上げようよ。ちょっとでもよくしてさ、ユイみたいなこともうないようにしようよ」
「お前が、ユイの名前を出すな!」
 驚いた顔でこちらを見てくる光を気にする余裕はない。
「お前だけは、ユイについて語るな」
 ニッコリと笑う伊集院。
「ごめんねー。じゃあそういうことだからさ、考えといてよ。あ、急に来て邪魔しちゃったからここはごちそうさせて」
そう言って伊集院は注文表をサッと取って立ち去る。


第4章 緑川静には、幼馴染がいた

(1)北川ゆい

緑川静には幼馴染がいた。
 北川ゆい。小学1年生の時隣の席で出会い、「はじめまして、よろしくね」の握手をしたことから始まった関係は、同じ小学校、中学の卒業まで続き、さらには、同じ高校までと続いた。
 ユイは人気者だった。小学生の「誰が好きなの?」という話題では、まずみんな1番は「北川さん」。そして「じゃあ2番は?」でやっとバラけて盛り上がる。そのくらいは人気。中学に上がってからは、カッコいい先輩、ちょっと悪い先輩、頭のいい先輩、運動のできる先輩、それぞれに放課後呼び出されて告白されていた。そのうち誰と付き合って、誰と付き合ってないのかなんて、静にはわからなかった。自分の淡い恋心を自覚はしていたが、自分とは別世界の出来事だと気持ちに蓋をしていた。でもたまに「幼馴染」ということで、学校の帰り道が一緒になる。そんなときの他愛もない会話を何よりも楽しみにしていた。

「静兄ちゃん!おかえり!」
「おお、あやみちゃん。今日はもう学校終わったの?」
「うん!あ、お姉ちゃんもおかえり」
「姉の私より静への挨拶が先とは、悲しいぞ」
 おどけてそういうユイ。あやみと話しているときの自然体なユイが一番好きだなって思う。
「えへへ、静兄ちゃん好きだからね」
「相変わらず静は年下にモテますねー」
「相変わらずってなんだよ」
「あら、あの図書委員の一年の子。ショートヘアーの可愛い子」
「……なんで知ってるの?」
 昨日告白された。同じ委員で、優しくされて、好きです、とのこと。でも誰にも言ってないし、あの子も言わなそうなのに。
「んー、なんとなく?図書館でたまに見かけてて、今日からちょっと態度が変わったように見えたから?」
「……すごいね」
「付き合ったの?」
「いやいや、僕よりいい人いるでしょ」
 本心でそう思う。今は年上で優しいってことで特別に見えるだけだ。なにより、ユイに対してそれを振りかざしてきた年上の先輩たちのことがすごく嫌だったから自分がそうしないように勝手に思っているだけかもしれない。
「静はさ、すっごくいい男だと思うよ。だけど、そういう謙遜はあんまり好きじゃない。勇気を出した相手の子に失礼だよ」
「ごめん……でも、ありがとう」
 困ったように「響いてないな」というユイ。「そんなことないよ」と返す。いつものやりとり。
ほんとうにそんなことない。「はじめまして、よろしくね」の握手の日から9年間、ずっと意識して、だけど決して言うことのない気持ち。
「なんのはなしー!あやみにも教えて!」
「んー静がモテてるって話」
「え、そうなの!静兄ちゃん?」
「いや、そんなことないよ?」
 考え込むあやみ。「最大のライバルが動かないと思ったら、別のライバルが……」などブツブツ言ってる。

 高校に入学し、ユイはラクロスを初めた。性に合っていたのかメキメキと力をつけ、1年目から県大会突破の原動力に。県内優秀選手の1人に選ばれた。
 前ほど一緒に帰ることはなくなったが、2年の始まる春休み、部活帰りのユイとたまたま一緒になった。
「最近、活躍すごいね」
「そうだね。私の才能はここだったのか―って感じ」
 おどけて言う。でも、この顔はちょっとだけ本気な顔だ。
「うん、プレーの良し悪しはわかんないけど、ユイがラクロスに懸けてるのはわかるよ。ユイは昔っから何でもできたけど、ここまで熱中しているのは初めてだね」
「……やっぱ静にはわかるか」
「わかるよ。幼馴染だもん」
 ここで幼馴染って言ってしまう自分が少し嫌いだ。勇気が出ない。
「あとは勇気だけか……」
「え!?」
「ん、どうしたの?今考えてることがあってね」
 びっくりした。見透かされたのかと思った。
「うん」
「プロってどう思う?」
「え、ラクロスの?」
「うん。今県内優秀選手に選ばれて、その集まりに行ったの。そこでの話を聞くと、楽しくてハマってるラクロスってものが、自分の進路の延長線上にあるかもしれないって思えるようになった。プロの人達にも会って、その姿にも憧れた。もしかしたら……。って可能性も感じてる。でもそっちに行くと決めたら、色んなものを諦めなきゃいけなくなる。楽しい学校生活や家族とのこと。いや、違うな。やっぱ言い訳だ。ただ、今の自分にないのは勇気だけ。飛び込むって決める。ただそれだけ」
 静に向けて、というよりも、自分自身に問いかけるようにユイが話す。知らなかった。ユイはもうそこまで考えていたんだ。
「僕になにかできることある?」
「やっぱ静はいいね。理由とか意見とかの前に、自分が相手のためにできることを考えてる。モテるわけだ」
「一番モテたい人には全く届いてないけどね」
「え?」
 ……しまった。「ふふふ」と笑うユイ。
「届いてると思うよ?今はその時じゃないってだけで」
「そうだといいけど」
 真剣な顔になるユイ。
「静にお願いしたい。お母さんがパートから帰ってくるまで、あやみのこと面倒見てほしい。あやみは一人でも大丈夫って言ってくれるけど、まだ小学生だし、心配。ずっとじゃなくていいの」
 ユイの家は母子家庭。父親は、ユイが小さい頃出ていったらしい。おばさんは遅くまでパートで働いている。小さい頃から静も可愛がってもらっていて、一緒にクッキーを作って食べた時「静もおばちゃんの子になる!」って言ったという話を母からいつも聞かされる。母の日にはユイのおばさんにもお花を買うのが恒例だ。好きな人を助けられるチャンスがこの先どのくらいあるかわかんないけど、今やるって言わないとこのあとも一生ないことだけで確かなような気がした。
「いいよ。あやみちゃんしっかりしてるし、うちの家族とも仲いいし。母さんなんて「あの子はうちの子」とか言ってるよ。もうちょっとちゃんと決めるところ決めたいけど、ユイがプロになるために頑張れるよう手助けさせて?」
「……ありがとう」
 うつむくユイ。泣くのかと思ったが、顔を上げた。
「がんばるね!」
 晴れやかな顔をこちらにむけるユイ。敵わないな―と思いつつも、勇気は報いられるべきだ、そんな事を考えた。

 そこからのユイはすごかった。無名校だったうちの学校を、全国大会に連れていき、ナショナル選抜に選ばれて東京の合宿にも行くようになった。キレイで整った外見からメディアにもよく出て、これからのラクロスを牽引するひとりと評されることもあった。

「お姉ちゃん、最近すごいね」
 あやみがうちで宿題をしながら尋ねる。「そうだねー」と曖昧に答える。
「どうもファンクラブが立ち上がるみたいですよ。いいんですか静兄ちゃん?」
「いいもわるいも、いいことなんじゃないの?」
「もー、最近のお姉ちゃん告られまくりなの知ってる?同じ高校だけじゃなくて、芸能人みたいな人からも連絡がくるみたい」
「そうなんだ」
 そう答えつつも、ウッとなった。また自分とは関係のない世界にいってしまうのかと。
「煮えきらないな―。静兄ちゃんは本当に静『兄ちゃん』になれるのか?って話をしてるの」
小学六年生。随分大人っぽくなった。
「その、つ、もりだけど」
精一杯答える。呆れた顔であやみが続ける。
「静兄ちゃんは優しいし、おもしろいしで最高だけど、押しが弱いところはいまいちなんだよね。まあ妹の私と仲がいいのは大幅加点だろうけど」
 可愛いなって思う。心配されてるのは癪だけど、今の関係で続くのも悪くないって思っている。

「そういえば、おばさん大丈夫?」
「うーん、ちょっと調子悪いみたい。今日も病院行ってる」
「そっか。心配だね」
「お母さん、前から体強いわけじゃないし、よくあるっちゃよくあるんだよね。あやみも中学生になるからって更に頑張ってて、ちょっと心配。早く、おとなになりたいよ」
 静よりも大人な態度であやみが言う。
「大丈夫だよ。そうだ、今度ユイとおばさんが休みな日、みんなで水族館に行こう!香川に新しい水族館ができて、そこのクラゲがキレイなんだって」
「え、クラゲ?私クラゲ好き!色がキラキラしてキレイなのみたい!」
 気休めしか言えない静に、しっかりと笑顔で反応してくれてるあやみをみて、救われる。

 おばさんが倒れたのは、翌月の蒸し暑い日だった。


(2)病院

病院。静は昔からこの匂いが嫌いだった。何かが起こりそうな気配がしてソワソワする。病室の前、部活の途中に抜け出してきたのか、練習着のままのユイが椅子に座っている。
「ユイ」
「あ、来てくれたんだ」
 元気がない。当たり前だ。
「おばさんの様子は?」
「……ちょっと、ダメかもしれない」
「ダメってそんな……」
 違うだろ。ユイを心配しろ。いま一番つらいのはユイだ。
「今、先生の話を聞いてきた。過労で体力がすっごく落ちてるって。今夜が峠。峠って何?もうお母さんが元気にならないってこと?わかんないよ!」
 静に向かって叫んだあと、胸にもたれかかり泣き始めた。何も言えない。
「私が悪いの。ラクロスばっかりやっててお母さんに負担かけて、無理させて、だからこんなことになっちゃった。私のせいだ」
 そんなことない、そんなことないんだ。
「ユイが活躍するたびに、おばさん嬉しそうにしてたよ。『ユイが自分の娘なんて誇らしい』って言ってた。相変わらずの優しい笑顔で。だから大丈夫だよ」
 精一杯強がってそういった。「うん」とユイは返してくれた。
「いっていいなら、おばさんの傍にいよう。それが一番嬉しいよおばさんも」
「うん」
 今度は先程よりも強くうなずく。
「あやみちゃんは?」
「今、お母さんのところ。昼間から何も食べてないからぐったりとしてると思う」
「わかった。ちょっと簡単なもの買ってくるよ。ユイも食べて」
「ありがとう、静がいてくれてよかった」
「いいよ。今はおばさんのこと一番に考えて」
「うん、ありがとう」



 深夜、ユイから連絡が来て、病院に向かった。病室の前で椅子に座るユイ。
「お母さん、だめだった」
「……。」
「最期に、『あやみのこと頼む』って。『お母さん弱くてごめんね』だって。何言ってんだろうね。最高のお母さんなのにね」
 うつむきながらユイがいう。「そうだね」そんなことしか言えない自分に嫌気が差す。

「お母さん」初めはボソリと、「お母さんお母さん!お母さん!!」そして何度も何度も。ユイの眼から涙が溢れる。嗚咽。声が出てない。静も涙を抑えることができない。涙を流しながら、ユイの手を取る。こっちを見たユイの顔は涙でぐしゃぐしゃだ。ユイがギュッと手を握り返してくる。静には何もできなかった。

(3)葬式

 葬儀場の前に黒い服を着た人たちが並ぶ。みんなハンカチで汗を拭う。蝉がうるさい。葬儀に来た人たちは「この度は……」とユイに挨拶しつつもどこか楽しそうに見えて、静はイライラしていた。1晩経って、式を立派にこなしたユイはすごかった。そのユイを支えられていない自分に一番イライラ来ていた。
「静兄ちゃん?」
 心配そうにあやみがこちらをみてくる。
「ああ、ごめんごめん」
 いつもは小学生にしては大人びたあやみだが、おばさんが亡くなってからは絶えず静にくっついて甘えてくる。まるで、「ここはもたれてもいいところだよね?」という確認作業をしているようで胸が痛くなる。
「ユイは?」
「今いろんな大人とお話してる」
 あやみが目を向けた方に目をやると、喪服を着たユイが黒い服を着ている大人たちと話しているのが見えた。じっと話を聞いているが、時折首を振っているのがみえる。周りの大人の心配そうな顔。でもユイはなにかを決意したように頑なにうなずかない。
「多分、私とお姉ちゃんをバラバラにしようとしているの」
 よく話を聞くと、おばさんの生命保険だけではこのあとの生活が厳しく、ユイとあやみがそれぞれ別の親戚の家で世話になるのはどうかという話し合いをしているみたいだった。
 話し合いが終わったのか、それぞれ席を立つ。ユイがこちらにきた。
「大丈夫?」
「みんな悪い人じゃないんだけどね。そのやり方じゃあやみを守れない」
 肩をすくめて、ユイはそういう。決意の色が目に宿っている。ただ、静にはそれは危ういものにみえた。そのことを伝えようかと、口を開こうとした瞬間、新たな参列者が着て、「あ、ちょっと行ってくる」とユイがそちらに向かった。
 参列者に目をやると、この場所には似合わないくらい垢抜けた男だった。パーマをかけた黒い髪と高級そうだが趣味の悪くない腕時計。右目の下にほくろ。女性の中では背の高いユイと比べても頭一つ以上大きく、スラッとしている。その男がなにかを口にしたとき、ユイが驚いた表情をしたような気がした。その後挑むような顔で男を睨む。男は名刺を取り出しユイに渡し、お焼香をしに行った。ちょうどその時、葬儀が始まり、もれなく解散になった。

(4)北川ゆいは決めた

「ラクロス辞めて働くことにした」
 ユイから呼び出された公園に着くと、開口一番そう言われた。静に構わずユイが続ける。
「高校はお母さんが卒業してほしいって言ってたから卒業はするつもり。単位ギリギリでなんとかできるように調整する。あやみがやりたいことをやれなくならないように全部私がなんとかする」
 なにかをこの場で決意しようとしているかのように一気に捲し上げる。強気な言葉とは裏腹に、ユイは緊張しているようにも見えた。静に伝えることで逃げ道を塞ごうとしているのかもしれない。
「わかった。俺にできることある?」
 ユイの体から緊張が抜けるのがわかった。「いいの?」と小さい声で聞いてくる。
「ユイが考えて、いま一番いいのがそれだって思ったんだよね?」
「…うん」
「じゃあ、いい。できることをやろう」
 この選択が正解かわからない。けど正解にするために頑張る。
「静にまで反対されたらどうしようかと思った」
 少し笑うユイ。思えば、ユイの笑顔を久しぶりに見た気がする。
「みんなに反対されちゃってさ。ありがたい話なんだけど」
「ラクロス、期待されてたしね」
 過去形にする。意識的に。ユイはもう次に向かっているのだから。
「そうだね。でもいまいちばん大事なのはこっち。そこを迷うことはない。それは絶対」
「で、どこで働くの?」
「ここにしようと思って」
 そういってユイが見せてくれた名刺には「クラブ キララ」と書いてあった。
「これって、もしかして夜のお店、的な……?」
「そうだね。未成年だからお酒はなしだけど、時給いいし、待遇も良かった。昼間学校があるから中々他のもないし」
「……これはちょっと後出しすぎるんじゃないかな?」
「ごめんね。いきなり言うと静びっくりしちゃうかと思って」
「いや、十分びっくりしたよ」
「このお店、『お父さん』が経営しているみたいでさ」
 ユイのいう『お父さん』はなにか違和感があった。
「『お父さん』ってユイのお父さんのこと?みつかったの?」
「お母さんのお葬式の日に来てたんだ。結構かっこいい人だったよ」
「……右目の下にほくろのある?」
「あ、そうそうよくわかったね」
「あの人だけ雰囲気違ったから」
「そっか。私、父親の記憶ってほとんどなくて、小さい頃に出ていったな―くらい。お母さんからも殆ど聞いたことがない。お葬式の日のあと会った時『今までなにもできなくて悪かった。もしもう一度チャンスをもらえるなら頑張らせてほしい』ってお金も貸してくれて。正直、食費とかでどんどん減っていくお金不安だったから、助かっちゃった」
 曖昧に笑うユイ。
「そんな『お父さん』から、『うちで働くのはどうか?』ってご提案」
「危なくないの?」
「んー、どうなんだろう。もちろん普通にお店よりは酔っ払った人とかもくるから危ないのかもしれないけど、自分の娘をそんなに悪くはしないでしょ。あと、雑誌でキララの評判とかも見てみたけど、悪くないみたい」
「そうか……でも心配だよ」
「ありがとう。まー何かあったら走って逃げますよ!」
 久しぶりにユイの元気な笑顔を見たら、反対なんてできなかった。

 その後、ユイは本当に頑張った。朝は朝ごはんとお弁当を作り、昼は高校に通い、夜は遅くまでキララで働いた。ユイは元気に、大切なものを守るために頑張っていた。



だからあれは不幸な事故だ。
誰も悪くない。


 
 街中で雨が降る日の朝。北川ユイの遺体が、繁華街で見つかった。後の調査によれば、前の日の夜、ふらついて転んだ際、打ち所が悪く、かつ、朝までそのままだったことが原因で死亡したらしい。日々の疲れが影響していたのかもしれないが、はっきりとした因果関係はない。ユイが転んだ場所は、決して人目に触れないところではなかったが、その間誰も助けなかった。それも誰かのせいにすることはできない。
 この「事件」をあとから調査した際、もしユイを助けることができる人がいたとしたら3人。1人は、伊集院結弦。ユイの父親。ユイが働く中で、体調があまり良くないことを相談していた。今は頑張りどきだと休みはくれなかったらしい。もう1人は、不登校の男の子。ユイが倒れたときにたまたま通りかかったその子は「病院に電話して」と頼まれたけど無視して通り過ぎたらしい。最後は自分、翠川静。一番近くでユイの事を見ていて、一番影響を与えることが出来た人物。




翠川静には、幼馴染がいた。


第5章 翠川静は、巻き込まれた

(1)トラブルのはじまり

 夜、配達が一段落する時間帯、この時間になると藤田酒店の前も随分とにぎやかになる。静はこの時間が好きだった。仕事終わりのサラリーマン、これから遊びに行くんだという大学生などが、「今日はなにか特別なことがあるかも」と誰にも言わないけど、胸に秘めて街を歩く。そしてそれは大小様々、本当に何か「特別なこと」が起こっている。それは時がすぎると忘れてしまうものかもしれない。だけど、きっとそんなことの積み重ねが日々を頑張る活力になってたりするんじゃないか、などと思う。
 そんな事を考えながら、静がオフィスから外を見ると、藤田酒店の前に人が集まっている。いつもは酒屋の中かオフィスの中で集まるインターン生にしては珍しいなと思って眺めていると、「大丈夫?」「痛くない?」という声が聞こえてきた。気になって下に降りる。輪の中心にいたのは喜一郎だ。
「……どうした?喜一郎、その顔」
 喜一郎の右頬は赤く大きく腫れていた。右目はずいぶんと見えにくそうだ。
「ああ、お店のお客さんが暴れてるのに巻き込まれたんっすよ。大したことないっす。ちょっと痛いけど」
 照れたように笑う喜一郎。
「殴られた、とかじゃないんだな?」
「あ、そうですよ!偶然偶然。酔っ払いもいるんだからこういうこともありますよね」
「これ」
 そういって、楓がおしぼりに氷を入れて冷やしたものを喜一郎に手渡す。
「お、おう」
 素直にお礼が言えない喜一郎だったが、満更でもないようだ。特に事件性はなさそうだ。ただ、念の為、あとでお店の方にも確認しておく必要があるな。
「お店の前だと、歩いてる人のじゃまになるから、中にはいってなー」
 そう言って、静もオフィスに戻ろうとしたとき、電話がなった。
「はい、どうした英作?」
 配達に出ていた英作からの電話だ。声が少し緊張している。
「うん、わかった。すぐいく。5分以内には着くと思うから、その人には社長が来るから待つようにって伝えて。大丈夫、心配しなくていいよ」
 すぐさまロードバイクにまたがり、英作のもとに向かう。藤田酒店から2,3分の位置だ。
「おまたせ」
 英作の元に着くと、そこに190センチを超えるだろうガタイのいいスキンヘッドの男が立っていた。
「お前が、こいつの店の社長?」
「そうです、藤田酒店の社長をやっています翠川です」
「そうかそうか、いやさ、こいつがワインを割ってさ、それがかかったし、靴が汚れたし、破片を践んで痛かったんさ。だから弁償してほしい思うてさ」
 たしかにワインの瓶が割れて散らばっており、赤色の液体が道路を濡らしている。
「なるほど、それは申し訳ありませんでした。念の為、従業員からも事情を聞いてもよろしいでしょうか?」
「俺が汚れたぁゆうとるのにそれが信じれんのんか!」
 急に大きい声で怒鳴り散らしてくる男。静を見下ろす。なにかおかしい。
「すみません、しっかりとした対応をとらせていただくためにお願いします」
「別にええけどなあ。なー兄ちゃん、俺の言ったとおりよな?」
 男は英作の方を向きそういった。英作はビクッとしたあと下を向いて黙り込む。英作のそばに向かう。

「英作、大丈夫だ。心配するな。何があった?」
「静さん、すみません、俺、ワイン割っちゃって……」
「うんうん、そういうこともあるよ」
「でも、いつも気をつけてるし、特に人がいるところとかでそんなミスしたことなくて……。このワインもあの人と全然関係ないところで割ったんだけど、あの人がそのあとこっちに来て割れたワインの瓶を踏みながら『汚れちまったなあ』って。『お前じゃ話にならんから社長呼べ』って。俺、どうしたらいいかわかんなくって……」
 顔をぐちゃぐちゃにして泣き出す、英作。
 そういうことか。要は当たり屋だ。
「大丈夫だよ。あとは俺に任せて」
 とはいうものの状況は結構悪い。事実、男の靴が汚れていることから、こちら側に非が全くないとまでは言えない。間接的であれ、ワインで汚したのは間違いない。
「なあ社長さん、話できたか?夜の街、いろんな事がある。俺も別に怒りたいわけじゃあない。靴をキレイにする選択代と足の怪我の治療代をもらえたらそれで終わり。1万円もらえるか?」
 絶妙な金額だ。このガタイのいい男の恫喝を終わらせられるなら、安いとさえ思わす金額。おそらくこの男は慣れている。
「わかりました。今回こちらのワインであなたの靴を汚してしまったのは間違いなさそうですので、お支払いさせていただきます。大変申し訳ありませんでした」
「いやいや、わかったらええのよ」
「つきましては、お名刺いただいてもよろしいでしょうか?こちらの会計上の関係で、どちら様にお渡ししたかを記載しておく必要がありまして」
「あー名刺、今切らしとるんよ。すまんな」
「でしたら、運転免許証の写真を撮らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ?なんでお前にそんなことせんといかんのや」
 静を見下ろして、男は言い放つ。怖いな。だけどここは折れない。ここで折れてしまうと、この男は繰り返す。こちらを弱者と侮る。続くようなら、しっかりと法的にも対応するという姿勢を見せる必要がある。
 にらみ合う。夜の街の喧騒の中、行き交う人がなにがあったのかとこちらをみつつ通り過ぎていく。
しばらくすると根負けしたのか男が「……名刺あったわ」と言って名刺を渡してきた。
「ありがとうございます。今回は、こちらのミスでご迷惑おかけしました。今後このようなことがないように気をつけますので、何卒宜しくお願いします」
一万円を受け取った男は、もうわかったわかった、どっかいけという風に手を払っていたが、できるだけハキハキと答えておいた。

「英作、いこうか」
 そういって英作とともに自転車で走り出した。泣いていた英作だったが、少し落ち着いたのか話しかけてきた。

「静さん、怖くないんですか?」
「いやーめっちゃ怖いよ」
 笑いながらそう返すと、驚いたように英作が続けた
「まじっすか?静さんの答え方とかみてたら全然怖くないのかと思ってました!俺、あんなでかい人に睨まれたらなにも言えなくなっちゃうなって」
「俺だって怖いって。殴られたら痛いんだろうな―って思ってた。ただ、あそこで折れちゃうと一生言われるからね。殴られるくらいで済むならそっちのが楽かなとか考えてた」
「そうか、静さんでも怖いのか。怖がること自体は悪くないのか……」

 酒屋に戻ると、遊が待っていた。
「静さん、導入が決まってたナイト求人、3件キャンセルが入りました」
「あら、どうしたんだろう」
 残念だけど、サービスを提供する以上そういうこともある。
「理由を聞いたんですが、3社とも『事情が変わって』 という返事でした。同じタイミングで、同じ理由でのキャンセルはなにかちょっとおかしいと思って、お店の友達の女の子に聞いてみたら、どうもガラの悪い若者が来て、求人のことをなんか言ってたからそれじゃないか、とのことでした」
「なるほど、変だね……」
「変ですね。ナイト求人だけならまだしも、今日は龍ちゃんのこともあるし。あ、さっきの英作のは大丈夫でした?」
 簡単に事情を話す。
「やはり変ですね。一日に3つもトラブルが合ったのはじめてです。夜のお店の仕事だからトラブルが多いのはある意味仕方ないんですが、それでもこれは変だって言っていいと思います」

電話がかかってきた。知らない番号だ。
「はい」
「大変なんじゃない?」
 その声低くてはよく通る、人懐っこい声だ。
「どちら様でしょうか」
「あー伊集院だよ。急にごめんねー。なんか静くん大変なんじゃないかなって思って」
 薄々は気付いていた。
「大丈夫ですよ。ご心配ありがとうございます」
「そ?うちならそういうトラブルなくしてあげられるけど?」
 悪気なく、悪意もなく、軽々とそう話す伊集院。たしかになくしてくれるんだろう、原因そのものがなくなるんだから当たり前だ。
「お金もそんなに高いわけじゃないから。ナイト求人と酒屋の売上の10%とかだからお金持ちな静くんなら余裕でしょ?」
「結構です」
「そ、残念。ま、困ったらまたいつでもいってよ。じゃあ良い夜を」
 電話が切れた。

 翌日、配達に使っていた自転車のパンクが2件あった。その翌日、止めてあるトラックに自転車がぶつかったのとのクレーム。さらにその翌日、藤田酒店の前で若者が大声で騒ぎ、注意に行った喜一郎が軽いけがをした。その間、ナイト求人のキャンセルは続いた。


(2)かかる電話

 連日連夜トラブルが生じる。あの日から始まったトラブルは、流石に数は減ったものの、1ヶ月経って今でも日常的に生じている。毎夜出ていってトラブル対応している。寝不足だ。昼間のオフィス作業が厳しい。ただ今しかWebサイトの構築や戦略策定の時間がない。眠い目をこすって静はPCの作業をする。
 新しいサイトのデザインを考えている時、オフィスの電話がなった。知らない番号だ。「もしもし」そういって電話に出ると、相手は朝日高校と名乗った。ゆり子先生の学校だ。
「翠川さんはいらっしゃいますでしょうか?」
「はい、私です。いつもお世話になってます」
「あの、学習塾をやられていて、そこにうちに生徒も何名か参加していると聞いてます。保護者から繁華街で、夜に塾をするのはいかがなものかとのクレームが来ておりまして、一度説明を聞きたいと」
なるほど。有り体にいえば、辞めさせたいと。ようやくみんなも本気になってきてる。それはなんとしても避けなければ。
「承知しました。では一度伺って説明させていただきます。日時の調整等よろしくお願いします。こちらはできる限り合わせていただきますね」
「それでは後ほど改めてご連絡いたします」
 最近のトラブルにかまけて、無花果の方に気が配れてなかった。「ふー」と息を吐きスマホを見ると、ゆり子先生から「すまない、抑えられなかった」と来ていた。応援してくれてる人がたくさんいる。頑張ろう。そう思った。

 3日後、静は朝日高校に来た。普段着ないスーツを着て、できるだけしっかりとした印象をつくる。「こちらです」そういわれ案内された部屋に入ると20人を超える人が待ち構えていた。有名な私立だからか、裕福そうな身なりの人が多い。「失礼します」そういって頭を下げ、部屋に入る。
 椅子に座って周りを見渡すと、ゆり子先生が「ごめん」と声を出さずに伝えてくる。軽く首を振って答えてたところでいきなり恰幅のいい女性が話し始めた。
「では、早速ですが、うちの生徒たちを塾から辞めさせる件について話始められたらと思います」
「ちょっと待って下さい。今回は、弊社及びそこに関わってくださっている生徒さんの状況を説明させていただくためにこの場に来ました。今のように『辞めさせる』という結論ありきのテーマ設定はご遠慮いただけますと幸いです」
 驚いた顔でこちらをみる恰幅のいい女性。静としてもここでいきなり口を挟みたくはなかったが、最初のテーマ設定を間違えると、議論が「どう辞めさすか」に終始してしまう。最低でも「辞めさすべきか、辞めなくてもいいか」というとろをテーマの中心にしたかった。
「まーまー、では一旦今日お越しいただいた、コノテ社社長さんらに話を聞いてみましょうよ」
 そう小柄な男性がいう。「校長」という声が聞こえたことから、この人が朝日高校の今の校長の、朝日さんなんだろう。
「では、翠川さん、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい、ありがとうございます。さきほどご紹介に預かりました、コノテ社の翠川と申します。この度は、弊社の行っている『無花果』という塾について、および、その目指しているところを説明させていただいたあと、皆様が抱いているご不安点に対して、どのような対策をとっているか説明させていただきます。はじめにざっと全体を説明させていただきますので、ご質問等は後ほどまとめてしていただけますと幸いです」
 ざわざわしている。周りと話し始める参加者たち。「うさんくさい」「無礼だ」等聞こえてくるので、今のところ良い状態で話を聞いてもらえてるとは言えない。静は待つ。校長が「あの……」と続きを促してきたが、首を振ってまだ話し始めない。ようやく静が話していないことに気付いた人たちが少しずつ黙りはじめる。そこからは早く、最後のひとりが自分ひとりしか話してないことに気がついて、慌ててしゃべるのをやめる。部屋の中に沈黙が流れる。
「はい、では弊社の行う『無花果』ですが、簡単に説明しますと、総合型選抜入試―――昔で言うところのAO入試ですね、その総合型選抜入試に特化した学習塾になります。様々な観点から説明可能なのですが、その一つの特徴に、一般入試が必ずしも得意ではない生徒さんでも、行きたい大学に行くことができる、そういうことができます」
 部屋の中の数名の大人が、前のめりになったのを感じた。生徒の親御さんなんだろう。
「もちろんこれは、勉強することを軽んじているわけではありません。ただ、勉強以外にも色んな才能があって、その才能をその才能のまま、大学入試にも活かすことができるというのが総合型選抜入試の強みになります。現在、受講してくれている生徒は、貴校の生徒含め、10名となっており、それぞれ特異な才能を軸に、大学受験対策を行っています」
「どんな子達なんだろう……」という声が聞こえた。奥の席に座る男性。ラルフ・ローレンのポロシャツにおしゃれなメガネ。知性溢れる外見をしている。
「ありがとうございます」
 そう言って、静はこの男性に目をやり、独り言を拾う。姿勢を正した男性。
「今、疑問を頂いたことにお答えすると、たとえば、イラストレイターとしてすでにプロとして活動している子だったり、過去の自分の怪我からスポーツドクターへの道を模索している子などがいます」
 興味深かそうに聞く男性。
「そういう特別な子しか受けられないんですか?その、なんていうんでしたっけ、総合型入試?というものは」
 反対側の席から女性の声が聞こえる。上品な服装をしているが、どこか顔に疲労がみえる。
「いえ、決してそのようなことはありません。私達としては、すべての子供が可能性を持っていると思っています。それがわかりやすいカタチで咲いているかどうかの違いで。誤解を恐れずに言うと、いわゆる『不登校』の子もいます。彼ら彼女らは、今の教育システムにマッチしなかっただけで、別に落ちこぼれでもなんでもないです。ただ、そういう子達が一般入試で他の子達と勝負してしまうと、不利になることも多いのが現状です。だから、『不登校』であったことが不利に扱われるのではなく、有利になるようにしていきます」
「そんなことできるんですか?」
「はい、できます。もちろん全てに当てはまるわけではないのですが、例えば今うちに来てくれてる不登校の子は、自分が不登校になってしまった原因をなくすために大学で研究したいと言ってます。これは、不登校になってしまったその子だからこそ思いつく研究テーマですし、そこに乗っかってる実感は強みそのものです」
 なにか希望を見つけたような目をする先程の女性の横で、最初に話し始めた恰幅のいい女性が声を上げる。
「夜のお店に入り浸ってるって話も出てます!とても健全とはいえません。そういうお店の近くで塾を開かれる事自体問題だと思います!」
大きな声で言い切り。周りを見渡す。そうだそうだと声を上げる人も出てきた。
「まず、正確な情報から伝えさせていただきますね。場所は平和町になります。桃太郎通りのUFJを入って2本目のところですね。あの小川の横の。そうですそうです、近くに下石井公園があるところです」
「あそこ繁華街っていうか、割と普通のところのような」そんな声が上がる。
「ただ、えっと、お名前伺っても?」
「遠藤と申しますわ」
「ありがとうございます。遠藤様が、ご心配になるのもわかります。といいますのも、塾の1階は業務用の酒屋を営んでおりまして、飲食店やいわゆる夜のお店に配達もしているからです。そういう意味で、関係性はあるといえると思います」
「そうですわ!あと酒屋で塾の子たちを働かせているという噂も耳に入ってますの」
「はい、そちらの噂はほんとうです。より正確に伝えさせていただくと、インターンというスキルの身につくバイトのような形で、一定数の塾の子たちには、酒屋の手伝いをしてもらってます」
 ざわつく部屋。「高校生と夜のお店の接点はいくらなんでも……」と、先程のメガネの男性がいう。
「おっしゃりたいことわかります。私達は、居酒屋や夜のお店が必ずしも不健全だとは思っていませんが、そのようなご不安が保護者の皆様に生じるだろうことは想定しておりました」
「ほらみなさい!不潔なことしてるからそんな風になるのよ!」
「ちょっと、遠藤さん。一回お話聞きましょうよ」
 眼鏡の男性が注意を促してくれた。目でお礼を言う。
「少し長くなるのですが、背景から話させてください。こちらのインターンの件ですが、これは塾のメンバーの子からの提案で始まりました。自分の将来を考えるにあたって、ビジネスのことをもっと学びたい、実際のところを肌感としても知りたいと。その子がインターンをするようになると、他の子達も興味を持ち、インターンに参加してくれました。中には、学校にはいけないけど、塾には行ける、そういう子たちもいます。その子達が、日中の塾がない時間に、持て余した時間をインターンでお金を稼ぎ、大学に受かったときの入学金や授業料の足しにしたいと言ってます。総合型選抜入試を考えるにあたって、自分のやりたいことやこれまでやってきたことを振り返った際、両親がいかに自分にお金をかけてくれてたか、それを日に日に感じるようになったそうです。非常に素晴らしい変化だと私は捉えています」

「うんうん」と眼鏡の男性がうなずく。他にも、うなずく方が多い。
「そこで、一度ご両親にお話しに行きました。ご両親からは、『家から出られなかった子がそこまで考えて実行してくれているのならぜひ』という御返事をいただき、インターンがスタートしました。それ以降も、新しくインターンをしたいという生徒がいた場合、ご両親に毎回説明に行き、了承いただいてスタートしております」
「でも、夜のお店にも行くんですよね?」
「もちろん、クライアントなので配達することはあります。ただ、高校生が働く時間は午後8時までとしておりますので、それより前に配達で行く、ということになります。そういう意味では、普通のお店への配達と変わるところはないと考えています」
 遠藤はまだ何か言いたそうだったが、全体として納得したような雰囲気が流れた。
「でも、最近は危ないトラブルも多いんでしょ?」
 髪の毛をしっかりジェルで固めている、焼けた肌の男性が突っ放すようにそういった。この場の人とは少し毛並みが違う。
「街の人とよく揉めてるって聞いてるよ。危ないんじゃない?」
「ビジネスをする以上全くトラブルが生じないとは言えませんが、それぞれ適切に対応させていただいているつもりです」
「ほんとにー?毎日あるってきいてるよ。そういうときってどっかおかしいんじゃない?」
 藤田酒店のトラブルは決して表に出るようなものではない。おそらくこいつは伊集院と何らかの関係があるのだろう。
「その件に関しては、認識の違いがありそうなので、ほかにいうことはありません。他にご質問はありますか?」
 ムッとした顔をしたあと男性は黙る。特になさそうだ。
「それでは、私からの説明を終わらせていただきます。お聞きいただきありがとうございました」
 そういって座る。今日はこのためだけに会がセットされていたのか、校長が解散の挨拶をした。100点、とはいえないが、概ね伝えたいことは伝えられた。絡んでくるかと思った男性も早々といなくなっている。「あの」という声が聞こえ振り返ると、先程の「不登校」の話の際に質問をくれた女性が立っていた。
「あの、うちの子も不登校なんですが、『無花果』に入れていただくことは可能でしょうか?」
「はい、もちろんですよ。一度お話させていただけらと思います」
「特に、その……才能のようなものはないんですが……」
 歯切れが悪い。そう言うことを強制されているように感じた。
「先程も申しましたとおり、私達は全ての人が可能性を持っているという前提で接しています。それが見えにくいだけだと。なので、そこはご心配なく」
 顔が晴れたように「うんうん」とうなずく。
「うちの子、私に優しくしてくれるんですよ。ご飯の準備や洗い物も手伝ってくれますし。主人なんかは『そんなこと』って言うんですが、自分が苦しい時に人に優しくするのって難しいと思うんです。ほら、電車とかでも疲れてたらお年寄りに席を譲らなかったりするし。苦しくて辛い時に誰かのために行動できるのってすごい。素直にそう思うんです。あ、親バカみたいですね」
 子供の自慢を久しぶりにできたからか、微笑みながら話す女性。今度は静が「うんうん」って聞く。
「学校に行けないってことが、イコール『悪い』『落ちこぼれ』ってのは違うと思うんです。いろんな形があっていい。ただ、仮に悪くないってなっても、不利に扱われちゃうのもまた違うなって。だから総合型選抜ってものを利用して、その不利なものも変えていけたらいいなって、僕らは思ってます」
「ありがとうございます。子供と相談してまた連絡させてもらいます」
「こちらこそありがとうございます。お気軽に連絡ください」
 何度も頭を下げながら帰っていく女性。何か少しでもポジティブなことがあればいいと思う。部屋を出て、自転車置場に向かう。早く帰ってスーツを脱ぎたい。自分のロードバイクを見つけ近づくと、なにか様子がおかしい。パンクしている。あの絡んできた男がやったのか、しょうもないことするなと思ったけど、この格好で自転車屋までいくとなると、気が重くなるので、有効の手段だったのかもしれないなと自嘲的に笑う。


(3)続くトラブル

 昼過ぎ。黒羽は起きると身支度をして藤田酒店に向かう。静からは午後8時までと言われているが、藤田酒店、ナイト求人が共に気になって、ついつい遅くまでやってしまう。夏休みであることもあって、今黒羽は、この2つに懸けている。
 藤田酒店は、毎日のトラブルにも関わらず順調に契約店舗を増やして行けている。ナイト求人も、キャンセルと新規が横ばいではあるが、新しく契約してくださる店舗は、しっかりとした理念を持って経営しているところばかりで、前向きな話が多くてよい。新店舗を出すところも多く、ハイグレードの求人を出してくれる店舗も増えた。順調だ。
 藤田酒店につくと、翠川がパソコンで作業をしている。昨日も遊より遅くまで残って、トラブル対応や受発注対応をしていた。このところ毎日である。
「おはようございます!」
「お、おはよう」
流石に疲労の色が見える。よく見ると目の下の隈もひどい。
「大丈夫ですか?」
「ん?何が?」
 それ以上心配させないようにとぼけられたことから、黒羽は別の話題をする。
「順調ですね、トラブルは多いですが」
「そうだね、ここを抜けたら一気にシェアを獲得できる気がする。頑張りどころだ。遊も、もうほとんど藤田酒店の店長として動いてくれてて助かる。さすがにそっちもだったらできる気がしなかったよ」
「楽しいですからね、ほんとに」
黒羽は本当に楽しかった。自分の、そう「自分の」と言えるような会社やサービスを、自分たちで頭を振り絞って、行動を起こして形にしていく。それがうまくいくことも、いかないこともあるけど、それ自体が『生きてる』って感じさせてくれる。いままではどこかヴェールに包まれてたんじゃないかとさえ思う。そういう視点で見た時に、お金の流れや、人の気持ちなんかも前よりももっと興味が出てきた。
「ちょっと俺、商談行ってくるわ。この続き任していい?」
画面を覗き込む。いつもやっている受発注と経理処理だ。
「はい、大丈夫です。いってらっしゃい」
「いってきまーす」
ひょうひょうとした様子でロードバイクに跨り、走り出す。荷物を置き、パソコンの前に座ると、中から「遊くんおはよう」と声が聞こえた。見ると、立花が奥で作業していた。
「おはよう楓、はやいね」
「まあね。私は遊くんほど遅くまで残ってないからね」
 立花は、少し変わった。藤田酒店でインターンをすると言ってから、積極的に自分の意見をいうようになった。そしてそのどれもが、深くまで考えられているだろうことから、龍門とはまた違うリーダーとみなされることも多い。そんな立花が、声を落として黒羽に話しかける。
「静さん、大丈夫かな。私が朝来た時、もういたよ。8時位」
「そっか。静さん、昨日はナイト系の人たちとの集まりがあるって言ってたから、早くても3時、4時までは飲んでたと思う」
「長くて3時間睡眠……。私じゃ考えられない。8時間以上は寝たい」
「俺もそう。このところ毎日そのくらいだから流石に心配だね。もっと静さんの仕事巻き取れるようになりたい」

 作業に集中し、1時間程度経った頃、翠川が戻ってきた。
「おかえりなさい。うわ、どうしたんですかその頬?」
 何やら赤くなっている。腫れそうだ。
「いや、ちょっとお店の人の肘があたっちゃってさ。超痛い」
 笑いながら翠川は言うが、軽くあたった程度でなるようなものではないのは、黒羽が見てもわかる。
「わざと、やられたんですか?」
「んー、違うんじゃないかな?というより正確に言うと、わざとだって立証しづらいって感じ。目撃者もみんな『わざとじゃないよね』で押し通してきたから」
 最近、翠川はどこかに怪我をしていることも多かった。その都度、「タンスに指をぶつけてさ」「なにもないところで転んでさ」とふざけて笑いにしていたが、もしかしたらこんな風に誰かに傷をつけられていたのかもしれない。
「ちょっと奥で冷やすわ」
 と奥に歩いていった翠川の体がゆらっと揺れた。ガシャーン。積んであるビールと酎ハイの缶が散らばる。翠川の体はその缶の上に倒れ込んだ。
「静さん!」
 黒羽と立花が同時にそう叫んで近寄る。翠川は動かない。


(4)黒羽遊は怒っていた

 医者から「疲労と栄養不足だ」と付き添った黒羽に説明があった。翠川の体中の怪我を医者に怪しまれたが、そこは頑なに翠川が否定。立てるようになるまで、入院することになった。
 ベッドで横になる翠川の周りを、白鷺、倉田、立花がそれぞれ心配そうに囲む。黒羽は、入口付近でそれを遠目に見る。
「みんなごめんな。迷惑かけて」
 軽くそう言おうとしたのだろうが、弱々しい声と相まって、悲壮感が強かった。
「ちょっと俺も今こんなだし、酒屋もナイト求人も一旦ストップしよう。今いるお客さんのところだけやって、新しいこと辞めて」
 なにか猛烈に腹が立った。翠川は真面目に、真摯に大事なことをやってただけ。本気だっただけ。なのに嫌がらせで中断するのか。いや、嫌がらせに腹が立ってるのではない。こんなに大変な翠川を自分が支えられてないこと、こんなにまでするまで何も出来てないこと、そんな自分自身に腹が立つ。そうだ、黒羽は、自分自身に腹を立てた。


「静さん、それはちょっと違うんじゃないですか」
 黒羽がそういうと、みんながこっちを向く。
「そこは『俺がいなくても頑張れ』でしょう。やらしてくださいよ。大丈夫ですよ、俺トラブルに強いですし。このくらいが丁度いい。やり返すこともないし、しっかり我慢する期間だとわかってます」
「いや、でも……」
「あんたは完璧すぎたんだ。今くらいで丁度いい。それに静さんと一緒にやろうって決めたメンバーは、そんなにやわじゃない。俺、そう思います」
 みんなの方を向く。
「大事な人が本気なら、俺らも本気になろうぜ」

 静まりかえる病室。

「くっくっく。うちの遊はほんとかっこいいな。静、大丈夫だ。無花果は俺と光でやれる。静が帰ってくるまでに、みんなさらに成長する。楽しみにしとけ」
 白鷺がそういい、倉田が目を合わせてうなずく。
「ナイト求人のウェブサイト、私出来ます!エンジニアさんに教えてもらいながらだったんですが、新規の掲載方法、情報の更新、優先表示等できるようになったので、任せてください」
 立花がそういう。自発的に、サービスのことを学んで、エンジニアリングを身に着けて行ってた。ほんとに立花は変わった。
「酒屋の受発注、配達オペレーション、シフト管理は、俺ができるので、大丈夫ですね。新規開拓もやれるので大丈夫です。あれ、静さんの仕事なくなっちゃいましたね」
 みんな笑う。誰よりも翠川が笑ってる。「そうか、そうか」と何度もうなずく。
病院から帰るとき、白鷺が話しかけてきた。
「遊、すまない。本来なら俺からいうべきことだった」
「全然いいですよ。慌てた秋人さんってレアなもの見えたし」
「くく、生意気なやつめ」
 秋人が笑ってそういう。慌てるよりレアだ。
「遊くん!遊くんはかっこいい!」
 そういって倉田が頭をワシャワシャしてくる。
「わたし、がんばるね」
 立花が決意の色を顔に浮かべてそういう。
「おう、一緒に頑張ろう」
 気合が入った。やってやる。


(5)牛島真は、無視した

 夕方。随分と日が長くなった。まだ少し太陽が残っている。オフィスでは、今日も龍門が大きな声で話している。牛島はどうしても龍門が得意にはなれないが、随分と慣れた。ふとオフィスの中を見渡すと、橋本みずきが目に入った。いつも元気なイメージのミズキだが、どうしたんだろう。不思議に思って声をかける。
「橋本さん、何かあった?」
「え?」
ビックリして目を見開きこちらを見てくるミズキ。「ううん、なんでもないよ」と続ける。「そっか」と離れようとすると、「あっ」となにか言いたそうだったので、待つことにする。
「なんか最近ね、誰かに見られてる気がするの」
 いつもの元気な声とは違い、思いつめたようにいう。「うん」と続きを促すと、ミズキが笑顔になった。
「牛島くんは、否定したりしないんだね。『自意識過剰だよー』とかも言わないし」
「え、だってほんとにそう感じるんでしょ?」
「そうなんだけど、そのまま受け入れてくれるってのは救いなんだよ?気付いてないかもしれないけど」
「まあ、僕はそういう人の感情の機微?みたいなやつがよくわからないからそのまま受け入れてるだけな気もするけど」
「牛島くんって冗談もいうんだね」
 笑顔で微笑むミズキ。
「いや、冗談のつもりはなかったんだけど……」
 今度は笑うミズキ。「そっか、そっか」と嬉しそうだ。これだけ普段元気で人気者なミズキでさえ、自分の話をなかなか聞いてもらえないのか。自分には無理だなと思う。学校つまんないと思ってたけど、ある意味、牛島自身楽な方にいただけで、これはこれでいいのかもしれない。自分はミズキのようになれない、だけどそれでいい、そう思った。
「そういえば、ちょっと前なんだけど、このオフィスが背景みたいな女の子のイラスト描いてなかった?ショートカットの。あれって楓?」
 いつのやつだろう。楓を描いたことはないはずだけど。
「あの、一歩踏み出す、みたいなやつ」
「あーあれ、あれは、橋本さん」
言ったあと、失敗したと思った。楓とオフィスでミズキについて話した日、思わず描いてしまった。タイトルは『わかりづらい勇気』。決意を目に宿すことが出来たイラスト。自分としてはよく描けたし、気に入ったので、「どうせ見てないだろ」とSNSに公開した。見てたのか。ミズキの方を向けない。気持ち悪いと思われたら、もう描けない。絵描きは繊細なんだぞ。
「あれ、私……?」
つぶやくように言うミズキ。
「いや、ごめん、勝手にモデルにして」
「ううん、すごく嬉しい!――嬉しい、けどあんなに私は強くないなって思って」
「何言ってるの?橋本さんは強いよ!」
 思った以上に大きい声が出た。恥ずかしい。でも続ける。
「橋本さんは、強い。いや、強さの定義とか考えるとピンとこないかもしれないけど、能力とか外見とかそういう『持ってるもの』に関係なく、日々ちょっとした『自分が正しいと思うこと』に踏み出してるのがめちゃくちゃかっこいいとおもって」
 僕は何を語ってるんだ。本人に。
「あのイラストさ。勇気がほしいなって時によく見てたの。この子みたいな勇気がほしいって思う時。それが自分だったなんて、なんか不思議」
嬉しそうにうつむく。
「あ、もちろんすごく可愛く描いてもらってるのわかってるからね!」
 謙遜するミズキ。美少女も謙遜するんだと、なぜか感心してしまった。
「宝物になっちゃったな。ありがとう」
 こっちこそありがとうだよ、絵描き冥利に尽きるよ、そんな風に思ったが、口に出すことは出来なかった。曖昧にうなずく。

その日、無花果が終わり帰路につこうとオフィスを出た。もう暗い。階段の下を見るとミズキがいた。目があって会釈をすると、嬉しそうに手を降ってくれた。「バイバイ、また明日ね」そう口が動く。「うん」そういって手を上げて応える。
駅とは反対方向に歩いていくミズキ。
階段を降りたらもう姿が見えなかった。「速いな」と思いながら、駅の方に向かった。どこからか「いやっ」と小さく聞こえた気がした。ミズキが歩いていった方向だ。胸騒ぎがする。比較的人通りがあるとはいえ、一本裏に入るとこのあたりは十分暗い。振り返って走る。建物と建物の間。明るいときは牛島たちもショートカットに通る路地。そこの先に、ミズキの姿が見えた気がした。突っ切る。路地を抜けると黒いワンボックスカーがあった。周りには体格のいい男とスーツの男がいた。2人がこちらを見てくる。ミズキの姿は見えない。「気の所為だったか?」はじめそう思った。でももし、あの車にミズキが乗せられてたら今しか助けられないんじゃないのか。窓は暗くてここから中を見ることは出来ない。
「こんばんは」
挨拶をしてみる。2人は牛島を一瞥すると、どこかに行けというように手を払う。
「あの、女の子みませんでしたか?」
「ああ、みてねえよ。どっかいけ、ガキ」
 体格のいい男が答える。坊主ヘアーに、ラインが入っている。牛島より30センチは大きい。心臓が跳ね上がる。
「ロングヘアーの子なんですけど」
 一瞬男が車の中を見た。
「だから知らねえって言ってんだろ」
 脅してくる男。
「おい、もういい、行くぞ」
 スーツの男がそういって、車に乗り込もうとしている。その男の服もどこか乱れているような気がする。
時間がない。車に向けて走る。窓に顔をくっつける。うしろで男が「おい、ガキやめろ」と引き剥がそうとしてくる。制服が見えた。確証はないがミズキと同じだ。ドアを開けようとする。開かない。鍵がかかっている。車から引き剥がされた。
「おまえ、なにやってんだよ」
「友達が乗ってる気がして」
「ああ、いねえよ!どっかいけ!」
「おい、大声出すな。人が集まる。もういい、早く乗れ」
 やばい。走り出されたらもう何も出来ない。違ったら土下座しよう。コンクリのブロックを1つ両手で持つ。車の前に周り、フロントガラスにそれを叩きつける。はじめ、1箇所だけ凹んだ。その後バリバリという音共にフロントガラスが細かくひび割れた。
「おいクソガキ、なにやってんだよ!」
 坊主の男が車から降りて牛島を掴む。その間、何度もブロックをガラスに叩きつける。少し穴が空いた。その時「ゴッ」という音共に景色が歪んだ。男と距離ができてる。おそらく殴られた。地面に叩きつけられ、擦りむいた頬が熱い。
 ブロックをもう一度持つ。
「うわああああーーーー!!!」
 叫びながら走り出す。今度は後ろのガラスを割るために、叩きつける。「あーーーー!!!」「あーーー!!!」なんども何度も大声で叫びながら叩く。車が動いた。急げ。ガラスが割れる。ミズキだ!体ごと中に入る。「橋本さん!」叫ぶが反応はない。気を失っている。ミズキを抱える。後ろのドアを開けると、車が動いているのがわかった。まだそんなにスピードは出てない。ミズキの頭をしっかり抱える。背中から飛び降りる。「ドン」衝撃が体中を走る。息ができない。意識が遠のく。



「はっ」
 目を覚ますと白い壁が見えた。天井か。ズキッと痛みが走る。頭と背中が痛い。すごく痛い。そして思い出す。
「橋本さんは!」
急に起き上がったら目眩がした。自分は今、ベッドに座っているみたいだ。周りを見渡すと泣きそうな顔でこっちをみているミズキが見えた。
「ああ、良かった」
「良かったじゃないよーこっちのセリフだよ」
 泣きそうな顔から、泣き顔に変わったミズキがそう言ってベッドまで近づいてきた。
「橋本さん、大丈夫?」
「大丈夫、なんともない」
 眼を赤くしながらもはっきりと答える。よかった。
「牛島くんは大丈夫?今先生と牛島くんのお母さん呼ぶね」
 どうやら大事には至ってないみたいだ。右手をグーパーグーパーする。ちゃんと動く。良かった。頭に包帯と顔に大きな絆創膏が貼ってあるらしい。そのあたりがすこぶる痛い。
「すぐ来るって。今丁度、牛島くんのお母さん買い物に行ってて」
「そっか」
「牛島くん、助けてくれて本当に本当にありがとう」
「あ、いや」
 真正面からお礼を言われると照れてしまう。「でも」とミズキが続ける。
「危ないことはしないで。起きた時、牛島くんボロボロで死んじゃうかと思ったよ。包帯や絆創膏が血だらけになってて、本当に怖かった」
「ごめん……」
「あ、謝ってほしいとかじゃないの。ほんとだよ。牛島くんいなかったらどうなってたかほんとわからないし」
 あれは何だったんだろう?いきなりミズキが拐われるなんて。ふと、右手に熱が触れた。ミズキが両手で牛島の手を包む。「本当に本当にありがとう」何度も繰り返す。「いいよ」と照れながら返す。震えているのがわかる。
「……怖かった。急にすごい力で連れて行かれて気を失って。何も覚えてないの。気を失っている間にどこかに連れて行かれてたらと思うと震えが止まらないの」
 牛島の手を握る手に力がこもる。牛島は何も出来ない。
「あはは、私自分のことばっかりだね」
 パッと手を離そうとするミズキ。その手を握り返す。
「無事で良かったよ」
 驚いた顔でこちらを見る。顔が歪み、涙が溢れる。ミズキはこどもみたいにわーんと泣きはじめる。牛島は何も出来ない。

(6)牛島真は向き合った

「よ、武勇伝ができたな」
 病室に入ると、できるだけ明るい声で黒羽は牛島に話しかける。深刻にならないように。大丈夫だ、得意だろこういうの。
「うるさいよ、こんなに痛いなら武勇伝なんていらない」
 笑いながら牛島が答える。その顔は包帯と絆創膏で痛々しい。傷が痛むのか、笑ったあと「いてて」というのが聞こえた。
「ミズキも随分と真と仲良くなったなー」
 甲斐甲斐しくリンゴを食べさせるミズキが、ぱっと赤くなる。
「遊……うるさい」
「はいはい」
 良かった。2人共、だいぶ調子がいいみたいだ。事件の後、ミズキはかなり取り乱していた。自分に起こったことだけじゃなく、牛島が自分のせいで大怪我をしたことで。このまま2人共事件のことを忘れて行くといいのにと思う。
「静さん、どうしてる?」
「ああ、だいぶ良くなってきたみたいだよ」
 黒羽は答える。体調については嘘はついていない。翠川は回復に向かっている。ただ、今回の件がだいぶ堪えているみたいで、精神的にはむしろ悪くなっているかもしれない。
「あとで、一時退院してここに来るって言ってたよ」
「僕、静さんに言いたいことあるんだよね」
 牛島がそういった時、病室のドアをノックする音がした。「どうぞ」と牛島が答えると、ドアが開き、翠川が入ってきた。
 翠川は、ひどく疲れた様子で、思いつめた様子だった。
「真、ごめんな」
 深々と頭を下げる翠川。
「俺がいながら、一緒にやっておきながら、こんな事態になるなんて。いや、『なる』なんていうのはずるいな。こんな事態を起こしてしまった。本当に申し訳ない」
 牛島は何も答えない。翠川も頭を上げない。
 体感的には多くの時間が流れたように感じたが、実際には数分だったのだろう、牛島が話し始めた。
「静さん、それってなんに対しての謝罪?」
「……それは」
「静さんはさ、全部自分のことだと思いすぎてるよね。それは逆に僕らに対して失礼だよ。今回の件は、僕が自分で決めて、自分で実行して、自分で責任を負う。それだけの話。もちろん未成年だし、範囲は限られるけど、少なくても僕はそう思って行動している。静さんはそこがわかってない」
 黒羽は意外だった。牛島は良く言えば人に合わせるのがうまい、悪く言えば自分の意見のないやつだと思っていた。3日合わざれば、というやつか。
「しかし、こんなトラブルが起きるなら、無花果は続けられない」
「静さん!そうじゃないでしょ?」
 病室に声が響く。傷が痛いのか牛島が顔を歪める。しかし、真剣な表情はそのまま、続ける。
「一緒にやってる、なんていうか、仲間、が、一緒にやってる仲間を助けたんだよ?言うセリフは『ごめんね』じゃない」
 ぱっと顔を上げる翠川。少し考えた末いう。
「真、さすがだ。よくやった!」
「そう、それだよ」
 満足そうに笑う牛島。
「ありがとう……真」
「どういたしまして。これでやっと名誉の負傷になった。こっからはこっちのターンでしょ?」
 からかうようにそういった牛島に、翠川は笑って返す。目に力が戻った。
「そうだな。ちょっと俺に考えがある。今回の件、違和感が多い。ここからは、俺に頑張らせてくれ」



(7)犯人探し

「お前がやったのか?」
 高級なバー。一人で酒を飲む伊集院に声をかけ、隣に座る。
「あれ、静くん、よくここがわかったね」
 一瞬戸惑ったあと、すぐに落ち着き。翠川に尋ねる。
「まあね。そのくらいはわかるようにできてる。で、お前がやったの?」
「随分好戦的だなあ。日々のトラブルとかなら、そりゃ多少は……」
「そんな話をしているんじゃない。昨日の話。高校生が連れ去られそうになってた」
「連れ去り……?」
 とぼけている様子はなさそうだ。伊集院は本当に知らなかったと見ていい。
「やっぱりお前じゃないか。昨日黒いハイエースに、高校生の女の子が誘拐されそうになった。うちの真が、未然に防いでくれたが、あれがもし連れ去られてたら色々取り返しがつかなかったと思う」
 正直に話す。伊集院が前のめりになったのを感じた。
「俺らもバカじゃない。今まで、お前のやってきたトラブルや嫌がらせはすべてログを残し、メンバーも特定している。『伊集院とどういうつながりか』までリスト化しているから、いざとなったら徹底的に戦える。こんなに街の人に詳しくなるとは思わなかったよ」
「それは怖いな」
冗談か本気がわからない言い方で伊集院が答える。
「でも、昨日の奴らは、そのどこにも所属していなかった。今この街でなにか目立ったことをしているやつはだいたい分かる。にもかかわらず、だ」
 考え込む伊集院。目の前のグラスで氷が溶ける音がする。
「1日くれ、見つけ出してみせる」
「いや、ダメだ。一緒に今から探す」
「俺なんかと一緒に動いていいの?」
ふざけた調子でいう伊集院。翠川は怒っていた。牛島を、ミズキをあんな目に合わせた奴らに。そして、その落とし前を自分一人でつけられないことに。伊集院なんかに頼らないとならないことに。だが、自分のプライドやこだわりなんて今はどうだっていい。二度とこんなことが起こらないようにする。それだけに本気だ。
「探すぞ。これが真の描いてくれた犯人の顔だ」
「うまいな、これは」
 紙には、坊主ヘアーにラインの入った体格のいい男と、スーツを着ている男が描かれていた。
「スーツを着ている男のほうが主導権を持っていたらしい」
「これうちのメンバーにばら撒いて探すか?」
「ああ、頼む。まだ街を出てないなら。クラブやラウンジにいる可能性が高いと思っている」
「わかった」
 そういって携帯を取り出し電話を掛ける。
「ヤス、ちょっと人を探してほしいんだ。あとで写真を送るわ。こいつらをクラブ、ラウンジ中心にこの街全部探してもらえるかな。よろしく」
 電話を切る。こちらを向き直して伊集院は言う。
「これで、1時間くらいで全店舗回れると思う」
「そんなに早いのか?」
 驚いた。大小様々とはいえ、数百件はある。
「まあ、ね。よくあることだし。ま、こっからは過去のこと水に流して仲良くやりましょ」
軽く言う。
「勘違いしないでほしい。今までうちにお前がやってきたことも、ユイのことも俺が許すことはない」
肩をすくめる伊集院。翠川は続ける。
「許すことはない、が、この街でもう二度とユイのようなことが起こらないようにしたい。そのために必要なら、お前のようやつとも組む。それだけだ」
「ユイの敵なのに?」
カラン。グラスの中の氷が溶けた。いつもどおりの声にも関わらず、張り詰めた空気をまとう。
「そうだ。ユイの死の原因の一つだとしても、だ」
翠川は自分の発言に驚いた。少し前まで、伊集院は、ユイの敵だった。でも今はそう考えていない。原因の一つ。伊集院という人間だけが悪いわけじゃない。こういう存在を、街が許容していたのが問題だ、そう考えている。そこから変わっていかないと行けない。そんな風に思った。
伊集院も意外そうな顔をしている。「そうか」となにかに納得したようにカウンターに置かれるグラスに目をやる。翠川も同じように前を向く。まさか伊集院とこうしてお酒を飲むことがあるとは思ってもいなかった。

 電話がなる。電話に出る伊集院。少し話したあと「わかった」と電話を切る。
「見つかったか?」
「ああ、クラブLのVIPルームだ」
「行こう」


(8)発見

「あら結弦くん、いらっしゃい」
 雰囲気は派手だが、落ち着いた口調の和服の女性が伊集院を招いた。きらびやかな世界。翠川も東京で働いていた頃、接待でよく行っていたが最期まで楽しいと思うことはなかった。こういうのには向き不向きがある。
「美咲さん、おじゃましますね」
「そちらは?」
「ああ、『友達』の静くん」
「あら、お友達連れてくるなんて珍しいわね」
笑顔で振り返る伊集院。こういう立場で知り合ってなかったら魅力的な笑顔だなと思うだろう。つくづく、人との出会い方は大切だ。
「美咲さん、さっきヤスから連絡あったかな?ちょっとVIPルーム行くね」
「あまり無茶はしないでね」
 心配そうに伊集院を見る美咲に「わかったわかった」と軽く答える伊集院。


「静くん、ちょっとここは僕に任せてくれない?」
「大丈夫なのか?」
「うん」
「わかった」
 二人でVIPルームに入る。そこには、牛島の描いた通りの坊主の男とスーツの男がいた。店のキャストにはタイミングを合わせて外してもらっている。
「こんばんは」
 伊集院が軽やかに言う。
「あ、誰だお前?」
坊主の男が反応する。
「まあまあ、誰でもいいじゃないですか」
そう言いながら、伊集院は坊主の男の横に座る。
「はあ、あっちいけやおどれ!」
坊主頭の怒声を無視し、伊集院がスーツの男を見て話し始める。
「お二人は、大阪からいらっしゃったのかな?河辺さんと矢作さんだっけ?」
二人を順に見ながら伊集院が言う。
はっと二人が顔を見合わせる。
「何を言ってるんだ?」
 矢作と呼ばれたスーツの男が話す。
「貴方のほうが矢作さんね。しらばっくれなくてもいいのに。てか訛ってるからね、あんたら」
 バカにしたように笑う伊集院。「ああ?」と凄む坊主の河辺は完全に無視だ。
「僕らのこと舐めすぎだよ。あんたらが四条組の構成員であること、四条組がこの街を新しいターゲットにしようとしていることとか筒抜けだからね」
「だったらどうした。ヤクザに手を出すのか?」
 勝ち誇ったように笑う矢作。
「出すよ?」
 そう言って、伊集院は素早くナイフを取り出し、河辺の手のひらを刺した。「ドンッ」という音が響く。あまりの速さに、誰ひとり動けなかった。河辺の手から血が流れる。「ううっ」といううめき声が男から漏れる。立ち上がる矢作。
「まあまあ、座りなよ」
 いつもと変わらない調子で話す伊集院。右手のナイフをグリグリと動かす。テーブルから落ちる血の量が増えた。河辺は動けないでいる。
「正直むかついてるんだよねえ。こっちは色んな均衡守りつつ、こっちのヤクザな人たちともいい距離保ってたのに、急に入ってくるからさ」
 うんざりした表情で伊集院は言う。ただどこか芝居がかっている。
「聞いてるの?」
「聞いてる。わかったすぐにここを出ていく」
「いやいやいやいやいや、何言っちゃってんの?許すとか思ってるの?」
 伊集院がナイフを河辺の手から抜く。ナイフは真っ赤だ。河辺は右手を押さえてうずくまる。血が滴り落ちる。
「ヤス―!」
 伊集院が、後ろを振り返って呼びかける。「はい!」そういって男たちが入ってきた。5人。ヤスと呼ばれた男以外はすべて格闘家のような体をしている。その男たちが、河辺と矢作を取り囲む。
「連れてっていいよー。いつものところによろしく」
「はい、わかりました」
 ヤスが姿勢を正して答える。
「おい、いつものところに連れて行くぞ。お前らはこいつらもってこい」
 翠川と目が合うと、軽く会釈をしてヤスらが立ち去る。あっという間だった。

「と、まあこんな感じで。あとはやっとくよ」
 こっちをみて伊集院が軽く言う。「ああ」とだけ答える。圧倒的な暴力。それが必要な場がある。ただし、自分はそうならない。そう決めるしかない。
「ちょっとこれは街にいられなくなるな」
 そうつぶやいた伊集院が印象的だった。


エピローグ 

(1)争いのあと

街の電気が灯る時間。繁華街を歩く翠川。少し肌寒くなってきた。あの夜から1ヶ月。街は何事もなかったかのように今日も始まる。
 電話がかかってきた。
「はい」
「あ、静ちゃん?オレオレ伊集院」
「どうしたんだ?」
「あ、ちょっと僕、街でなきゃいけなくなってさ。あとのこと静ちゃんに任そうかと思って」
「任せる……?」
「僕すごいと思ってたんだよね、あんだけ嫌がらせしても反発せず耐えて、ちゃんと自分たちのやるべきことに向かっててさ。そこが器の差かなとか思った」
あの日以来、トラブルはやんだ。関西のヤクザと言われる2人のことが話題に登ることもない。
「だから、任す。あとの細かいところはヤスに聞いて」
 彼がそういった時、後ろから「うす」とヤスが出てきた。
「お前はどこに行くんだ?」
「ちょっとねー。あ、そうだ。あの眼鏡の子、真くんだっけ?にお礼言っといてよ。あそこでもし女の子連れ去られてたら、僕止まれなかったと思うんだよね。そしたら最期までやってた。やっぱこの街好きだからさ」
 そういって電話が切れた。こいつも最後まで嫌わせてはくれない。彼には彼の正義があってそれに正直だった。
「ユイ、俺また何も出来なかったよ」
 そう空に向かってつぶやいてみる。何も変わらない。何も出来ない。だけど、今からやれることはある。それをやるだけだ。


(2)みんなの行末

「静さん、受かりました!」
 楓がオフィスに駆け込んでそう叫ぶ。翠川はそっと胸をなでおろす。よかった、これで全員第一志望に合格だ。
「楓、すごいな!おめでとう!」
「これも静さんらはじめ、みんなのおかげです。めちゃくちゃ嬉しい。こんなに嬉しいのはじめてかもしれない」
 興奮が溢れ出るのか、足をバタバタさせて喜ぶ楓。普段の大人びた楓からは想像できない。だけど、こういう楓を可愛いなって思う。
「楓は特に頑張ってたもんな。受験だけじゃなく、インターンも並列してやりきってた。うちには欠かすことが出来ない戦力になってたし」
「……正直プレッシャーだったんですよ」
 それはそうだろう。高校生にとってただでさえ受験はプレッシャーのかかることなのに、並列してインターンをやるなんてなかなか出来ない。
「ここで私が第一志望に合格しなかったら、インターンをさせてくれた静さんが悔やんじゃうかもしれないなって。だから頑張りました」
 彼女は笑顔でそういう。自分が大変な時に、誰かのことを考えられる楓は本当にカッコいいなって思う。
「でも意外だったよ。経営学部に行くなんて」
「んーそうですね、初めはスポーツ関係で考えてました。自分が短距離できなくなった時に助けてくれた人たちみたいになりたいなって思って。だけど、ホントの意味で救われたのって、ミズキと出会って、遊くんと知り合い、この『無花果』で静さんたちと関われてからなんですよね。そこから、ビジネスってものがすごく『人』で動いてて、そこに関わる人が傷ついたり、救われたりすることに興味が出てきて……。だから、過去、どんな経営の成功と失敗があったのかを改めて一度知りたくなった。実際は実務のほうが楽しいのかもしれないけど、学生の内にできる贅沢かなと」

「でも一番驚いたのはこいつだな」
 白鷺がそういって黒羽を指差す。
「遊くんはいつ勉強してたのよ?」
 倉田が笑いながら黒羽をつつく。
「んー、事業忙しかったし、一般の入試は間に合わなそうだったので総合型選抜入試に切り替えて、短期間勝負しましたね。哲学科の試験、普段から考えてたことだったりしたのでまあいけました」
「生意気―」
 ミズキがいう。「そうだね、僕らこんなに勉強したのに」と牛島。二人は距離が近い。「僕ら」というは牛島とミズキのことを指すのだろう。なかなか似合ってるなと思う。
「これで、俺らの後輩だね。ようこそ」
「哲学科でも、俺の講義取れるだろ?くればいい?」
「あ、秋人さんの受けたいと思ってたんだ。ありがとう。冷やかしにいきますわ」
随分気安くなった。こんなみんなの関係がすごく好きだ。


(3)やさしい復讐

 目の前を桜の花びらがひらひらと落ちる。今年も河原沿いは桜でいっぱいだ。白鷺、倉田は各々のフィールドに戻り、無花果の高校生は大学に旅立っていった。みんな、自分の世界で頑張ってる。「また一人か」そうつぶやく。この1年がまるで夢だったように感じる。ふと顔を上げると前髪の長い学生服の男の子が歩いてきた。急にぱっと顔を上げ翠川の方に向けて走ってくる。すれ違ったあと声が聞こえた。
「大丈夫ですか?」
 振り向くとしゃがみ込む女性に声をかけている。「ええ、ありがとう」そう答えて笑顔で立ち上がる女性。再び二人は何事もなかったかのように歩き始める。少したったところで、男の子が拳を握りしめるのがみえた。喜びをそこにぶつけるかのように。
 やさしい世界。少しは近づけたのかもしれない。




〜 fin 〜



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