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「役に立つ」は疲れる。

最近息子の成長著しくて、なんとかこれを僕の脳みそに残し続けることはできないかと試行錯誤の末、10年日記を書き始めたやまだです。みなさんどうもこんばんは(毎日寝る前に書いてて楽しいです)。

さて、「役に立つ」ということばかりやり続けると体調崩すという話をしたいと思います。もうこの一文で終わりです。あとは蛇足です。


僕は属性の1つとして「弁護士」というものがあるので、法律のこと教えて!契約で困ってる!登壇して!みたいな話をいただくことも多いです(ありがたいかぎりです)。

また、スタートアップ界隈?の片隅に位置しているので、大いなるVisionをもった起業家の方々にも沢山お会いし、投資のお話などをさせていただいてます(ありがたすぎるやつです)。

さらに、最近書籍を執筆中でして、タイトルはおそらく「クリエイターのビジネススキル大全」みたいになる、僕なりにこの世界でこの本があれば絶対クリエイターさんのトラブルが減って世の中に作品が増えるぜ!というのを突っ込んだ力作書いてたりもします。


つまり、僕は最近「意味とか意義のある仕事」をめちゃくちゃできてるわけです。こんなきっかけをいただけていること、このような立場になれたことにほんと多くの感謝と奇跡を実感せざるを得ないのですが、ここ数日体調を崩してました(ちなみにコロナじゃなかったです)。

僕は割と体のシグナル的なやつを信じてる方でして、普通に嫌なことやってたり、違和感をそのままにしていると体痒くなったり、熱出たりするので

嫌なことやってる→体調崩す

から

体調崩す→なにか嫌なことやってる?

と逆も対偶も無視した→を考える癖があったりするので、いまからnoteを書きながらそのことについて考えてみたいと思っているわけです。


1つ明確に思いつくのは、「役に立つ」で繋がることの無意味さですね。
僕という、些細な一言で凹んで、それをどこにも言えないからこじらせて、匿名でブログを書いて、またそこへの一言で凹んで、今となってはこんなめんどくさいnoteを書いてしまうくらい頭の中でぐるぐる考えているような人間であるにもかかわらず、「助けてくれるから」「教えてくれるから」「なんでもきけるから」という機能面のみにおいて接点を持つことの気持ち悪さみたいなもの。そういうのがあります。

そして、昔はこういう自分が感じたことを素直に書くことも厭わなかったのですが、個人のブランディング?的なものだったり、社会的な立場?だったり、お世話になっている人達の顔だったりというものがちらちら浮かんで、書いてみては下書きにしまい込むということをやっていることもよくないなと。
(そしてこれも下書きに行く可能性は極めて高いです。もしこれを読んでいる人がいるならば、ぼくはもうこの世に...的なやつかもしれません)


もちろんきかっけとして「役に立つ」から入って、Beで繋がるというかそういうのは全然あるので悪いわけじゃないんですが、まぁそればっかりだと疲れるよね、というやつです。


2つ目として、主観と客観のズレによる期待値ギャップがあるかもなって思いました。
わかりやすくするために、図解すると、横軸「スペシャリスト」「ジェネラリスト」、縦軸「バリバリ働く」「ゆるゆる働く」があったとしたら、僕は主観的にはこの辺なんですよね。

ただですね、先に上げた意味とか意義深いことをやってるとですね、何となく感じる客観的評価このあたりなんですよ。

「客観的評価なんてどうでもよくない?」
ってのはまぁそのとおりではあるんですが、このギャップによって何が生まれているかというとですね、細かいところだと17時以降にメッセンジャーで返事をしないと、次の日「遅くなりました!」からスタートしないとよくないみたいなのがあったりします(僕のマインドの話という説も大いにあるけど)。

また、「なんで東京にこないの?」という問いをめちゃくちゃぶつけられます(もちろん善意で、です、はい)。

さらに弁護士=専門家みたいなのは確かにあって、知らないことを聞きにくいみたいなのもあります。
(個人的に、弁護士はまだ専門家でもなんでもなくて、初期値「かしこさ」に能力振っただけのよわよわの生き物で、こっからのたゆまぬ努力で専門家になっていってるだけだと思ってます。それはその人がすごいのです。弁護士だからすごいわけではなく)


このあたりストレス感じてたんだろうなーと。


3つめは、「役に立つ」ために「役に立つ」ことばかりしてたんだと思います。

この一文を読んでみてください。

意味や意義のあることをするために、必要な情報を効率よくインプットしていく事が重要。

どうですか?
これ読んでみて。
普通のよく見る文章じゃん?って思います?
特に違和感とか無いですかね?

僕はここ最近意識的か無意識的かに関わらず、これを思っていたんだと思います。

でも一旦、「ふー」ってなってから、この文章を見ると、なんかすごく違和感があります。
僕が体験したり味わったりする出来事や、心震えるような物語への出会いを、「情報のインプット」という言葉は全部殺します。

さらに、現時点の「必要」「不必要」で、「効率」「非効率」を決定して、先細る人生に自ら進んでいる気持ちさえします。


そうじゃないでしょ?

と、東京を離れたときから何度も何度も自分に問いかけてるのに、うまくいってしまうとついそっちに振れてしまう。なんという弱き生き物なのか...。



ということをnoteを書きながら気付きました。
僕にとって文章を書くというのは瞑想とかそういうのに近いんでしょうね。非常に良きです。

あ、なんか全体的にネガティブ感あるんですが、実はそんなこともなくて「振れ幅」なんちゃうかなと思うようにもなりました。

今までの僕の人生における、いわゆる社会的な成功とか評価とか意義とか意味とかって、めちゃくちゃ悪い言い方すれば単に捨てちゃえばいいだけのものだったとも言えると思うんですよね。自分が望んだことじゃない部分も非常に多いですし。だから弁護士も辞めたことあるし、仕事も一切しなかった時期もある。

ただ、今自分がやっていることってのは、自分で選んで、心の底からそれをやりたくて、創りたい世界があって、本気でってことで、それにも関わらず、それだけじゃだめだって思えているってのが良い状態なんだろうなと。答えでなくてスッキリしないんですが、それ自体が良い状態だと。止揚させ続ける、過程でありつづける、なんかそんな気持ちです。


みなさんはこんなこと考えたりします?
こんな風に考える人がいるのかいないのかもわかりませんが、こんな風に考えちゃう人はすごく好きなので、今度お茶でもぜひとも。
おあとがよろしいようで。




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