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「使命」ってすごいことのようだけど、「まぁこれは自分がやった方がいいかな」くらいの感覚が一番近いのかもしれない。

この時間が結局好きなんだなって、こうして書いてるとよく思います。まーじゃないとこんなに書かないかやっぱ。よく文章術系の本に「まずは書きましょう」みたいなこと書いてあって、それはすごく同意なんだけど、何かのために書くんじゃなくて、ただ書くことを楽しむ、が一番伝わったらいいなって。だって、合格するために生きてるわけじゃないし、成功するために生きてるわけじゃないし、死ぬために生きてるわけじゃないんだから。その時間自体を楽しむってのが、生きるってのを楽しむってことと同義だと思うわけです。書くことからいろんなことが学べますね。

みんなこういうの持ってたりするんですかね?
そういう話をしてみたい。
でもこういう話って、飲み会1次会じゃでなくて、2次会でも怪しい。もっとぐだぐだ無駄な時間を過ごさないと出ない。むずいっすね。アドレナリン系だけだとどうしても消えちゃう会話がたくさんある。

先日から起業家数人にビジネス戦闘力をつけるようなことさせてもらってる。これも僕でいいのか?という疑問はあるものの、見渡した時にまぁこれなら僕がやるのが一番いいなって思ったからやってて、感覚としては、旅行行こうってなったときに、まぁこれ場所とか選ぶなら僕が一番適任かなってグループでいるときになる感じに近い。

これおもしろくて、その感覚同じまま、この会社でやるなら僕かな、この地域でやるなら僕かな、この日本でやるなら僕かな、みたいな感覚で自分の仕事とかやることとか決めってきてたりします。他にも適任いるんだろうけど、このタイミングで、この状況なら僕が最適だろうなーみたいな。やっぱりいつまで経っても完璧な状態で何かが決まっていくってことはないからか、そういうものなのかもしれない。

僕からみて明らかに「使命」とか「天命」みたいなのを背負って動いてる方と話してて、「あ、それ同じ感じよ」って言われたのが心に残ってる。僕たちはある時急に神から「お前の使命はこれだぞ」的に降ってくると思っているけど、実はそうじゃなくて、旅行の調整を引き受けるのは自分しかいないって感覚が使命、天命、Callingと言われるものに一番近いのかもしれない。


やりたいこと探しとか、好きなこと探しとか、何者かになりたいって僕たちの周りはみんな悩んでるけど、この間イベントで「悩んでる人?」って聞いたら2名しか手をあげませんでした。40人くらいいたのに。まじか。

あなたはあなたのままでいいですよ、って広まった結果、好きに生きてたけど、社会に出たら急に至らない自分を突きつけられて悩んで、しかもそんなときに、SNSで自分がやってることを100倍上手くやってる人がいて、絶対自分が辿り着けない境地を日常にしてる人がいて、「何者かになりたい」って思う。そんな人ばかりだと思ったから衝撃でした。

いや、正直にいいましょう、絶対残りの38人も思ってるから!むしろそこ素直に手をあげた人の方がだいぶちゃんと自分と向き合ってるから。思ったことない人なんて存在しないって。絶対みんな一度は通る。抜けたか抜けてないかはともかく、そんなこと思わない人生なんてないよ。何のための人生か、何者かになりたいんだ、はぼくらの人類の永久の問いですよ。


いるという前提で話をつづけます。
(実際本当に一度も思ったことない人いたら教えてください。謝罪します)

使命みたいなやつ。ほしいですよね。わかりやすいし、迷わなくていいし。迷い続けるのって大変ですもん。知力体力めっちゃ使います。そんなときに「自分はこれだけやっておけばいいんだ」ってのは救い。誰か、それは神かもしれない、そんな自分よりすごい人に決めてほしいって気持ちはわかります。でもなんかここおもしろいのは、上でも言ったけど、「まー自分がやったほうがいいか」くらいの感覚の連続なんですよね。

僕の例ですが、学校に行ってない子がいて、まー時間的にも余裕あるし、一緒にやってくれる力強い友達もいるし、場所も見つけたし、他に心からお勧めできるような場所ないし、自分らでやろうかなって感じで不登校の子向けにフリースクールを始めて、そうするとその子の人生とか生き方とか考えた時に出席認定とかとれたらよりよいなーって、取れるように動くし、高卒取って大学で研究したいって子がいたから、じゃあ高卒も取れるようにするかってなって、そもそもそういうところに教育者がもっともっと入ってくる仕組みがあった方がみんなはっぴーだからやるかって大学作るようの動き始める。

これ全部「まー他の人がやるより僕らがやった方がいいよね」って感じで始まってる。今この時この場所でこの熱量を持ってるのは僕らが一番でしょという感じというか。それもアドレナリン的なやるぜー!!!ではなくて、まぁやろか、くらいのじんわりあつい感じ。

ここまでくると人は「すごい使命を持った人たち」みたいに見てくれる。多分過去の偉人たちもこのくらいだったんじゃないかなー?「天命得たり」と言ってる人も後輩にかっこつけただけで、本当のところは「まぁ自分がやるのが一番いいっしょ」くらいの感覚だった気がします。そうすると、明治維新とかの話もおもしろく読み直せる。新撰組とか、薩長同盟とか、松下村塾とか。燃えよ剣とか、竜馬がゆくとか。

昨夜友達が「地域にうまく入って行けてすごいですね!」って言われたって言ってた。まぁそう見えるんでしょう。けど彼が地域でうまくやってるとか全く僕は思ってなくて、ただたんに好きなことをやって、好きだよー楽しいよーって周りの人に言ってるだけ。もっというと、ここやるなら自分でしょってくらいの感覚しか彼は持ってなくて、地域の未来も、大いなる野心も持ち合わせてない。そのへんにいくらでもいる人間。だけどただそれを自覚して、その自覚の通りしがらみなく動き回ってるだけ。

だからしがらみホルダーの方々からすると、そのしがらみを解きほぐしてうまくやったようにみえる。けど、彼にとってしがらみは初めからなかっただけ。そりゃしがらみないように動くよ、しがらみないんだもん。

僕たちはもしかしたら初めからないものをあるかのように自ら囚われに行ってるのかもしれませんね。男女の境目も、東京と地方の境目も、お金の境目も、年齢の境目も、全部幻想。あることを知らなければ、もっと自由なのかも。


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頭の中がうるさい。でも、それでいいのかもしれない。

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