見出し画像

【活動録】7月16日

こんばんは。カムクワット読書会のTomsongです。
本日はオンライン読書会の予定でしたが、参加者が集まらなかったので、事前にお願いしていた友人とLINEにて感想会を行いました。

また、午後には東京国立近代美術館へ「ゲルハルト・リヒター展」へ行きました。
こちらの感想と合わせて一つの記事にいたします。

オンライン読書会

課題作品は鈴木涼美さんの『ギフテッド』です。予告した時期が開催日に近かったことと、Discordというものに馴染みがなかったためか参加者が集まりませんでした。
参加者が集まらない気配を察したわたしは知人にAmazonで本を送り、LINEで感想共有をしました。

文芸誌と単行本

知人はしっかりと読んでくれていたので、傷と母娘関係を中心に小説の話しができました。
しかし、困った点がありました。先日『ギフテッド』が単行本化していたため、知人には単行本を送りました。

それに対してわたしは文芸誌を読んでいました。

「このページでこんなセリフがあって…」のように説明しようとしても、ベースが異なるため「どのへんのこのようなシーンのところで…」といった回り道が必要になりました。
これがオフラインの読書会であれば、本文をそのまま見せればよかったのですが、オンラインならではの難しさを感じました。

傷は愛か

わたしが気になったのは、母親が娘につけた傷は愛なのかという問題でした。
美しさゆえに被るマイナス面から娘を守るため、その美しさを損なわせる傷を与える。
傷つけられた側からすれば、どのような理由があろうと傷が残る。
それでは傷つける側はどうだろうか。娘を守るためといったヒロイックな気持ちがあるから「良い行い」として消化できるだろうか。
そもそも「守るため」という理由は真実か。後付けの理由ではないか。
人はさまざまな行いに理由をつける。理解するために意味を見出そうとする。
おそらく、この行為には一つの確たる理由があったのではないだろうと思うのです。
確たる答えが与えられないことこそ、大切なことなのだと感じました。

ゲルハルト・リヒター

東京国立近代美術館で開催中の「ゲルハルト・リヒター展」へ行きました。

わたしはリヒターについて詳しいわけではありませんが、赤と黒などで描かれた抽象画のポスターを見て興味を持ちました。
写真を絵画にし、絵画にしたものを写真にする手法や、写真に絵の具をのせる手法から汲み取られる何らかの意味。
具体的な出来事をテーマにしながら抽象画で描くことの意味。
あらゆる点で絵それ自体を超えた意味を持っている様は現代アートなのではないかと思います。

館内撮影OK

この展覧会の面白い点は、一部を除いて撮影が許可されていたことです。
そこには「複製時代における絵画」の在り方に対する画家の意思を感じます。
これに関して詳しく知りたい方は、ヴァルター・ベンヤミンの著書を読んでいただけらばと思います。

抽象画を切り取る

抽象画を鑑賞しながら写真を取る際に、どこに注目するかで見え方が大いに変わると感じました。
もちろん全体像が一つの作品です。

全体像

しかし、視点を一部で切り取るとまるで違う顔が見えてきました。


右下を切り取る

そもそも、タイトルがない抽象画をどのように見るかという問題があるように感じました。
《ビルケナウ》のようにテーマや対象物の事前知識があれば、それを画家がどのように描いたかに焦点があたると思います。
一方で名前のない抽象画は、まさに抽象的なものであり、それを抽象的ななにかとして受け入れることもできれば、何かを意味しているのではないかと考えることもできます。
一部の色が景色に見え、ある点が人物に見える。
抽象画を鑑賞することには、ある種の解放感がありました。


次回以降の読書会について

開催予定の読書会は下記の記事にまとめています。
来週、再来週と続けて予定しております。
お気軽にご参加、お問い合わせいただけると嬉しいです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?