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薩摩腐れ芋外道黒田清隆の妻殺し 2

旧姓中山清が黒田清隆29歳に嫁いだのは、まだ若干16歳。父は旧幕の家臣で大身の旗本だが、明治維新で零落した身とあらば、娘を政府高官に嫁がせ姻戚関係を結ぶのは、その栄華にあやかろうという計算があったのも致し方ない。一方、維新で功を立てて成り上がったとはいえ、元は田舎の下級武士にとって、大身の旗本の娘というのは美貌揃いの上に教養も気品も高い高嶺の花。それを嫁にするのは一種のステイタスである。両者の目論見からして、最初から幸せな結婚生活など望むべくもない。

清は黒田の子供を一男一女産んだが、いずれも病弱で早逝している。そして例の酒乱乱行である。今でいうDV、暴力は日常茶飯事、さらには黒田は稀代の遊興好きで、連日柳橋や新橋で芸者幇間あげてのどんちゃん騒ぎ、やがてそういった花柳界の連中を自宅に呼びつけて、豪勢な酒盛りをしつつまたもやどんちゃん騒ぎ、果ては自宅で芸者相手に酒食に耽るという有様。たまりかねた清が窘めるとお決まりの殴る蹴るである。

清は薩摩閥の西郷従道や松方正義に家庭の恥を晒して相談し、黒田に意見して貰ったが、当の黒田は聞く耳持たず、それではと清は離縁を願い出たが、それも聞き入れて貰えず、そうして生傷の絶えぬ8年の夫婦生活の果てが斬殺である。

俺はふと夏目漱石の「坊っちゃん」に登場する清は、黒田の妻から取ったのではないかと思った。単に名前が同じだけの根拠もない妄想みたいなものだが、両者には旧幕の零落した出自という共通点がある。坊っちゃんは清についてこう言っている。

「この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、つい奉公までするようになったと聞いている」

黒田が清を斬殺した1878年、漱石はまだ小学校を卒業したばかりで、この事件を見聞した可能性もなくはないが、裏付けるものは何もない。だが俺はそう信じることにした。

漱石は江戸趣味の文化人である。明治維新を「瓦解」と表現してるところに、滅びゆく江戸に対する思いが込められている。旧幕の出の娘だった清を広大無辺の愛情を坊っちゃんに注ぐ存在にしたのは、江戸の娘に女性の理想像を見ていたのではないか。江戸が薩長に翻弄されたが故に維新ではなく、江戸から見ればそれは瓦解だ。ならば薩摩腐れ芋野郎になぶりものにされた清は瓦解そのものを象徴している。「坊っちゃん」が書かれたのは、清が殺害された28年後の1906年、清が生きていれば52歳。当時としては婆さんといっていい年齢だ。清が黒田の手に籠絡されずどこぞの下女となって生き延び、そこで愛情を注ぐ相手を見つけ、死ねば主従関係を超えてその方の墓所に葬って貰えた。幸せなことであったろう。そのように漱石の「坊っちゃん」の清と旧姓中山清を同一視することで俺なりの清に対する供養としたい。

ちなみに「坊っちゃん」の清の死因は、清と同じ肺炎である。

次回は「薩摩のもっさり野暮天芋野郎黒田清隆と落語」のこころだー

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