薩摩の無粋腐れ芋黒田清隆と落語 2
薩摩人から殆ど相手にされなくなった黒田清隆は、前述通り旧幕臣らと関係を密にするがそこで知ったのは、上は大警視川路利良から下は平の巡査に至るまでほぼ薩摩の人間で固めた警察の評判の悪さだった。おまわりと言えば昭和のつい先ごろまで「おいこら」と高飛車で偉そうにしてやがるのが通り相場だが、それは明治からのある意味伝統である。薩摩ではペーペーの下級武士だった者が、東京に出て来ればやれ田舎者芋野郎とバカにされる。そういう連中が巡査となって権力を盾に鬱憤を晴らすが如く市井の人々に当たり散らす。これで評判が良いわけがない。返って江戸っ子の抵抗精神を煽る結果になり、明治初期では上野戦争の延長とばかりに江戸っ子と薩摩の小競り合いが頻繁に起こっている、
そういう話を聞かされて黒田は心を痛めた。何とか警察の、いや薩摩っ子の評判を引き上げたい。愛される警察でありたい。てめえこそ妻殺しを国家権力を嵩に懸かって隠蔽した腐れ芋野郎外道の癖によく言えたもんんだと呆れ返るが、黒田は本気だった。江戸っ子は薩摩人を無粋だ野暮だ間抜けだ芋だと侮蔑するが、その了見を知りたい。
内閣では泣かず飛ばずの閑職だった黒田だが、爵位をいただき黒田伯爵となっている。つまり上流国民である。その権威をもってひとりの落語家を自宅に招き「ひとつ、おいに江戸つ子つうもんを教えてくれんね」と乞うた。薩摩の芋は江戸っ子と言えず江戸つ子と発音してしまうのだな。芋野郎め。その落語家とは落語中興の祖である大円朝こと三遊亭円朝である。円朝は「ようがす」と自作の「文七元結」を演った。
「文七元結」は円朝が創作した江戸落語を代表する人情噺である。ウィキペディアにこうある。
「田舎侍が我が物顔で江戸を闊歩していることが気に食わず、江戸っ子の心意気を誇張して魅せるために作ったとされる。江戸っ子気質が行きすぎて描写されるのはこのためである」
これを我が意を得たりとばかりに、大政治家にして伯爵である黒田清隆の前で演る円朝もすごい度胸だと思うが、初代三笑亭可楽は将軍徳川家斉の御前でバカ殿を嗤う「将棋の殿様」を演ったという話もある。噺家とは本来そういう反骨精神を持っている者なのだ。
円朝が黒田に示したかったのは、「文七元結」における佐野槌の女将の気風、娘おひさの孝行、文七の忠義、長兵衛の侠気、などであろうか。「これが江戸っ子の気風であります」と一言だけ申し上げて円朝は噺を終えた。黒田は何を感じ何を思っただろうか。それはものすごく意外な形で市井に現れるのだが、続きは「薩摩の無粋芋野郎黒田清隆と講談」でご機嫌を伺うと致しましょう。
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