薩摩の芋野郎黒田清隆の妻殺し 1

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黒田清隆は、伊藤博文に次いで二代目総理大臣となった、薩摩の軍人あがりの政治家である。明治政府最初期、長州と薩摩から交互に総理大臣は選出されている。そういう取り決めでもあったのだろうか。

生家は貧しい最下級の薩摩藩士の出であったが、長じて砲術を学び、幕末の度重なるいくさの度に戦功を立て、双六のように徐々に出世していく。箱館戦争では、五稜郭に追い込んだ敵将榎本武揚を降伏させるという大武勲を立て、一方捕縛された榎本武揚の助命嘆願のために剃髪するなど、敵味方に関わらず侠気のあるところを見せた。戦後はそのまま北海道に居座り、開拓次官、陸軍中将に出世したのち、順調に双六の駒は進んで、北海道屯田憲兵事務総理、開拓長官となり北海道の頂点に立つ。この時箱館戦争で降った旧幕臣を開拓使に登用するなど相変わらず親分肌を発揮したが、これがのちに薩摩閥で浮いた存在になる遠因になるとは、黒田の親分も知る由がなかった。

1877年西南戦争が始まると、黒田は辞表を携えて北海道から九州に飛び、熊本城で苦戦する山縣有朋を助け、政府軍と合流する。戦争が大好きなんである。このとき北海道から引き連れて行った自ら育てた屯田兵が大活躍したという。軍略に長け豪胆で親分肌の黒田清隆であるが、人望は薄かった。なぜかというと、ものすごい酒乱だったんである。飲むと必ず大暴れする。それも人死にが出るレベルである。北海道では酔った勢いで船舶から大砲をぶっ放し、住民2名を死に至らしめた。これは周りが示談金でうまく誤魔化した。

西南戦争の翌年1878年、酔って帰宅した黒田は、出迎えが遅いと激昂して妻の清を一刀両断に斬り殺すという大事件を起こす。黒田は示現流免許皆伝であり、この時もチェストーっっと刀を抜きキェェェと猿叫と呼ばれる奇声を発してぶった斬った。か弱い婦女子などひとたまりもない。ほとんどキチガイである。

薩摩閥はこの事件を公にしなかった。そりゃそうだ、長州閥と政権争いの中、敵に格好の口実を与えることになる。そこで清は元々肺を病んでいたのでそれで亡くなった、ということにして埋葬した。享年24歳。

だが、人の口に戸は立てられない。どこからか話は漏れ、嗅ぎつけた新聞が報道してしまう。一説によると使用人が告発したらしいが、詳細は不明だ。これでここぞとばかり弾劾を叫ぶ伊藤博文を筆頭とする長州閥。黒田は進退極まって辞表を提出するが、長州閥はそれで収まるわけもなく、法に則った厳罰を要求するなど追及の手を緩めなかった。

ここで薩摩閥の最有力者大久保利通が「黒田はそげんこつする男じゃなか」と薩摩弁で鶴の一声。いや酔った黒田ならやりかねないと誰しも思ったが、大久保は構わず、子飼いの大警視(今の警視総監ですな)川路利良に調査させると公言した。これは勿論お手盛りだ。大久保の意向を忠実に実行する川路利良は自ら子飼いの医師を伴って、清の墓を掘り起こし鼻をつまんで棺桶の中を覗き込み、医師に「刀傷はなかとです」と言わせた。

川路利良は、黒田は無実であると正式発表をして、この件は落着した。黒田は辞表を撤回してしれっと政府に戻った。完全に揉み消しだ。この事件の2ヶ月後、大久保利通は暗殺されるのだが、実行犯が持参した斬奸状の箇条書きの中に、黒田を庇い天下の法を私物化しているという箇所があった。黒田の妻殺しは大久保暗殺に繋がっている、政界に復帰したものの黒田からはますます人心が離れていくのだった。ざまあみろ。

とはいうものの、若干24歳で酒乱黒田の手にかかり理不尽に惨殺された清が哀れでならない。なので、俺が供養しようと思う。

続く


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