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壊れたガラスのピースは他人が持っているのかもしれない

壊れたガラスのピースは他人が持っているのかもしれない

日常生活をしていて心が粉砕した人というものは話たりするとなんとなく察しがつく。

具体的な特徴をあげるなんて無粋なことはしないが、これ読んでる読者もなんとなく察する事があると思う。声に陰気なものを感じるわけではないけど、鬱っぽいというわけでもないんだけど、苦労人のけがあるのも違うだろうけど、一度心が壊れた前と後の「後」にいる人間はその後にいる独特の匂いをまとっている。もちろんこの匂いをまとう必要はない。

周りを見る分で「人生」という大きな区切りとして考えてみると、この「壊れる」というイベントは大体の人が遭遇していて、それはもう人生にはじめから設計されている必須イベントなんじゃないかと個人的に思ってしまうぐらいだ。ほぼ断言してしまうが大抵の人は体感30歳までに一度は挫折している。たまに運良く壊れないまま生き残っている人がいるけどそれはいいとして、そういう人はそのまま突っ走ってほしいとも思う。

巷でよく例えられるように、人間の心はガラスのようなものだ。生まれたときはきれいでキズ1つない。そして生活しているうちにキズが増えてきて、大切に研磨して、多少強度があり、けれども強い衝撃を受けると文字どおり粉砕してしまう。だから大切にしましょうねみたいな話はよく聞く。けれどもそんな世間一般の目標が達成されることはなくて、大体の人は日常生活のどこかでなんか起こって壊れてしまう。そして1度壊れてしまうと、もうもとには戻れないことにも壊れからやっと気がつく。

改めて心をガラスと例えたのは秀逸だと思う。ガラスは繊細で強固で一度壊れると取り返しがつかない。それにガラスは割れると後片付けをしなければならないし、回収したガラスをいくら丁寧にかき集めたとしても、いくら精密に元の形に接着したとしても「それ」は「完全にもとのガラス」の完全性が損なわれている。繋ぎ止めてなにか足りないことに気がついてももとには戻れない。心だって同じだ。心が壊れた前と後との違いはたとえ外から見てもわからなくてもなにか、本人にはポッカリとした穴をどこかに感じている。

さて長い前提を書いてきてここからこの記事の本題に入る。この記事で話題にしたいのは「壊れてしまうともう元に戻らない」話ではなくて「壊れた後のガラスのかけらを拾い集める作業」についてになる。

繰り返しになるが、このガラスを集めてつなぎとめて補強して、やっと日常生活を送れるぐらい強度をもつようになったとして、生きていくうえでそれっぽい形になっていたとしても、形は以前と同じだというのになぜか心がポッカリと空いたような気分になることがある。それは言うなれば心のピースがどこか足りてないような感覚に近い。立体的なパズルをしていて完全な状態から一度バラバラにして正しく埋め直しても何故かところどころピースが欠けているような、けれどもあたりを見渡してもどこにもそのピースがないような、そんな感覚だ。首を傾げてもう一度パズルを組み立ててもまたどこかスペースが開いている…この繰り返しをしている。

僕も心が粉砕して組み立てを繰り返しながら今ですら「こいつと一生付き合うのかな」みたいな気持ちになっていて、虚しさみたいな、そういう心のうちの空いたパズルピースのような空間を眺めては「これが大人になることなのか」みたいな諦めだろうか達観だろうかそういう感情を持っている。心が壊れていようが壊れていなかろうが日常は続いていて、壊れる前でも後でも同じような出来事は起こっていて、それは実のところ受け手の気持ち次第だったりする。子供の頃に読んでいた小説も大人になって読み返すとまた感想が変わるように、心が壊れる前と後では世の中を見る目や感想や気持ちがほんの少し変わっている。この変化は失われた感性のようで思い返すとほんのちょっと寂しい気持ちになる。

最近のことだ。最近僕は縁があっていつもとは違うコミュニティに参加することになった。そこでの出来事はみんなが考えるような新しいコミュニティで起こりうる出来事が一通り起こったと考えていいとして、その過程で重要なイベントがあった。それは自分の明確な欠点と思うようなことをそのコミュニティではとても評価してくれたのだ。一生引きずるようなコンプレックスに対して「別にいいと思うよ、むしろいいじゃん」みたいな軽い肯定、そして本当に気にしていないような口ぶり。このとき僕は「そうかもしれない」と思った。

僕は子供の頃から自分の物差ししか信じていないところがあった。(いるかわからんけど)僕の過去の記事を読んでもらったら雰囲気で察しているかもしれないけど、なにかあっても自分ひとりで立ち上がれるように、自分一人の物差しを大事に大事にすることそのものが「自分を信じる」ということで自信につながるのだ(意訳)みたいなことをずっと言ってきたし、いまも十全にそう思っている。この軸は変わらないと思う。

けれどもこのコミュニティで言われたなにげない言葉がすっと自分の中に溶け込んだとき、心の欠けていたピースが埋まったような感覚があった。コミュニティのメンバーにとってはなにげない率直な評価だったと思うんだけど、僕にとって「言われたい言葉」だった都合のいい話になるかもしれないけれども、この言葉がすっと入ってきたとき僕が思ったのは「あぁ…失ったピースは他人が持っているのかもしれない」だった。

自分一人では限界があるというのはみんながみんな言っていることだし、自分は周りに生かされているみたいな言い回しもめちゃくちゃ聞く話ではある。なにげない一言がその人の人生を変えた…みたいなエピソードも探せばいくらでもあるだろう。僕が言いたいのはそういった陳腐なエピソードではなくて、いや客観的にみればあまり変わらない話ではあるんだけど、自分が生きていく上で「自分が埋められない空白は他人が埋めてくれるかもしれない説」という話になる。

もちろん言われたい言葉を無限に言わせるのは良くないし、言われたい言葉を無限に言ってくれる人に依存するのも絶対にダメだ。けれども自分の物差しではわからない領域に達してしまってどうしようかと立ち尽くしているときに、周りにいる人達だれでもいい、知らない人の場合だってある、そういうだれか他人のなにげない一言が心のパズルピースになってすっと溶け込んで埋まることがある。こういう出来事に遭遇すると「ずっと探していたものがここにあったのか…」みたいな気持ちになる。それは意外なことに身近にあったりする。

心を粉砕した人がなお他人を信用できるかって言われれば、いまもなお他人を信用しきれてない僕みたいな人間不信に受け入れろって言うのも酷だろうかと思う。けれども心のポッカリと空いた部分を埋めるのは他人であるのは確かだと個人的に確信に近いことを思っている。それは家族かもしれないし、彼氏彼女かもしれないし、仕事の同僚かもしれないし、買い物先のお客さんかもしれないし、旅行した先にいる人かもしれない。そういう人のぽろっと言った一言が人生においての大事な一言となることがある。

前の方に挫折が人生の必須イベントかもしれない。みたいなことを言っていたんだけど、同じようにこのガラスを拾い集める作業も人生の必須イベントかもしれないかと思ってる。むしろ僕はこの「ガラスのかけらを集めること」こそ人生なのではないかとすら思ってる。日常をなんとか乗り過ごしながら、粉砕されることで一度失った感性や、あのワクワクするような出来事を追体験とまでは行かないけど、当時思った感情を思い出しながら割れたガラスを拾い集めて、自分の宝箱に入れてゆく。たまに組み立てて、けれども足りなくてあたりを見渡していると、不意に現れた人たちからピースを渡されたりする。そうしていつの間にか新しい「ガラス」が出来上がる。

心が粉砕されることは悪いことではない。その後が問題になる。拾い集めてまた組み立てればよい。
それぐらいの気持ちで毎日を過ごしたいです(散らかったガラスを回収しながら)。

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