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妄想邪馬台国外伝「菅原道真の怨霊」



第60代天皇の醍醐天皇(在位は延喜年間)は、のちの第62代天皇・村上天皇(在位は天慶年間)とあわせて「延喜・天暦の治」として天皇の権威を見せつけた皇室政治を行なったことから、聖代として、後世で高く評価されました。しかし、当時は国家の社会的統制力が弱まっていた時期であり、皇室政治を実施していたかどうか疑問の声もあります。

突然ですが天皇とは何者なのでしょう?

そもそも天皇は、天孫降臨などという超自然的な事象から生まれ出たものではなくて、気候や天変地異を抑制するための呪術師であったと思うのです。そして、その呪術儀式は、新嘗祭などによっていまだに続いているのです。無論、天皇は気候変動を行える超能力者でもありませんから、強いて言うなら神社のお祓いのようなものを行なう人です。

もともと、そういったものに免疫のない一般市民は、ITに席巻される現代になっても、まじないや祟りなどの超自然的な事象を信じやすいのです。古代には、その呪術的な儀式を神格化して、それを物部、蘇我、藤原などという豪族が権力掌握のために利用してきたというわけです。

特に藤原氏は、長期にわたって権力掌握を行なってきた一族です。

まずは中大兄皇子(天智天皇)を、そそのかして、それまでの権力者であった蘇我氏を乙巳の変によって粛正して実権を握った中臣鎌足(藤原鎌足)以降、天皇を実質隷属させてきたのです。

天皇は国の象徴ではなく、権力の象徴だったのです。

醍醐天皇の父・宇多天皇は、藤原氏の権力に疑問を持っていました。そこで菅原道真を起用して藤原氏の力を弱め、天皇による政治を実現しようとしたが、在位時には実現できませんでした。しかし宇田が醍醐に譲位してからは、醍醐の影で藤原氏の排除を狙っていました。

醍醐の即位から3年の昌泰2年(899)2月14日に藤原時平は左大臣、菅原道真は右大臣となりました。醍醐即位時の公卿は、藤原氏が5人、源氏が6人、皇族ひとりに菅原道真という顔ぶれでした。道真の起用は宇多天皇の差し金でした。

代々、学舎の家に生まれた菅原道真は、文章博士・式部大輔(しきぶのたいふ:式部省の上位者。式部省は今の文部科学省)をつとめていました。エリートということですが、それに妬む人間も多くいて、文章博士・式部大輔から讃岐守に落されてしまいます。しかし、臆することなく本来の力を力を民政に発揮して、遣唐大使、中納言、大納言を経て右大臣となります。

道真は、宇多天皇に戒めるなど、臣下の中でも大きな力を持っていたようです。面白くないのは左大臣の藤原時平です。当時、道真の娘が天皇の弟・斉世(ときよ)親王に嫁いでいたことから、時平は、醍醐天皇を失脚、斉世親王を即位させて権力掌握を狙っていると讒言(対象者を陥れるために出鱈目を伝えること)します。

その結果、昌泰4年(901)、道真は太宰府に左遷され、道真の息子4人も流刑に処せられてしまうのです。これを「昌泰の変」と言います。道真は左遷された2年後の延喜3年(903)に太宰府で失意のまま死んでしまいます。

「道真の怨霊」

道真の死後、都には、たて続けに異変が起こります。

讒言で道真を失脚させるきっかけをつくった藤原菅根が、延喜8年(908)に病死。道真失脚後に意欲的に政治改革を始めていた時平も、延喜9年(909)に39歳で死にます。醍醐天皇は「道真の左遷」を後悔します。道真に対して贈位などを繰り返しますが、発病してしまいます。

醍醐は息子の保明親王を跡継ぎと予定しますが、その保明親王も延喜23年(923)に20歳で亡くなります。保明親王の死後、保明の第1王子で、時平の外孫であった慶頼王(やすよりおう)が皇太子に立てられますが、2年後の延長3年(925)に5歳で亡くなってしまいます。

延長8年(930)6月26日に平安京の清涼殿に雷が落ち、多くの死者が発生しました*清涼殿落雷事件 せいりょうでんらくらいじけん。下記参照)。それを都の人びとは「道真の祟り」と噂します。

藤原菅根、藤原時平が死ぬのは、道真が死んだ年の延喜3年(903)から、5年後、6年後のことです。醍醐の息子たちが死ぬのは、道真の死から20年あとのことであり、清涼殿落雷事件も、醍醐が死ぬのも道真が死んでから24年経ってからのことです。これを菅原道真の怨霊によるものなのかは、甚だ疑問です。

*清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)Wikipedia参照

延長8年(930)6月26日に、平安京・内裏・清涼殿に落ちた雷による小規模災害です。この年、平安京の周辺は干ばつで、6月26日に“雨乞い”実施を行なう是非について醍醐天皇のいる清涼殿で太政官会議が行なわれることになっていました。

その日、午後1時頃より愛宕山(京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山)の上空に黒雲が発生し、そのまま平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎます。それから約1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷。

この時、その周辺にいた公卿・官人たちが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫の衣服に引火し、さらに胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。清貫は陽明門から、希世は修明門から秘かに外に運び出されましたが、希世もほどなく死亡します。

落雷は隣の紫宸殿(ししんでん)にも流れ、右兵衛佐・美努忠包が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれて、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなりました。さらに警備の近衛兵も2名死亡してしまいます。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩して3ヶ月後に崩御してしまいます。

延長8年(930)醍醐天皇の危篤を受けて、寛明親王(第61代天皇・朱雀天皇)に践祚(せんそ)、7日後に醍醐が崩御すると、朱雀が(8歳・滿7歳3か月)で即位します。

その朱雀天皇時には、多くの天変地異が発生しただけでなく、天下を揺るがす大きな事件が続けて起こります。それが「承平の乱(平将門の乱)」「天慶の乱(藤原純友の乱)」でした。




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