釣魚大全「山中湖のブラックバス」
「おお、ナベちゃん、バスじゃん!」
背後から音量調整のできない頭の悪そうな声が聞こえた。岩井夫婦だった。
「何だ、お前ら、キャンプ場に行ったんじゃねぇのか」
「美紀ちゃんが、ナベちゃんをひとりにしたら可哀想だって言うから戻ってきたんだよ」
「ナベちゃん、可哀想じゃん…あ、凄いね、魚釣ったじゃん。針外してあげなよ、可哀想だから」
「オレとブラックバスはどっちが可哀想なんだよ…」
「へへへへ」
岩井夫婦とは、西新宿の十二社(じゅうにそう)にあった美術総論の広告営業部で一緒に働いた仲間だった。
美術総論とは、今で言うオレオレ詐欺のような雑誌で、努力して何らかの賞を受賞した新人画家に電話営業して受賞作の雑誌掲載を依頼するのだ。美術総論はその収入で発行されている雑誌だった。正当な掲載依頼ならば良いのだが、電話営業している僕たちは、受賞作の実物を見たことはなかった。
掲載依頼までの流れはこうだ。都内だけでなく、近郊で開催される美術展に、腕の良い絵画専門のカメラマンたちを派遣する。ここで、彼らは全ての受賞作を撮影する。雑誌掲載のための準備である。
次に美術展で販売される受賞作カタログを100部購入してくる。カタログには美術展開催側が撮影した受賞作が全てカラーで掲載されている。購入したカタログは都内にある美術総論の広告営業部に配布される。広告営業部では、20人ほどの営業担当者にそのカタログを渡して電話営業を行う。
営業担当者は、カタログの受賞作写真を見ながら「先生の絵は大変素晴らしかったです。同行していただいた美術評論家の先生も褒めておりました。そこで、美術総論に掲載させていただきたいのです。申し訳ありませんが、掲載には費用がかかるのですが、美術評論家先生の講評も同時に掲載されますので、是非、お願いしたいのですが…」などと猫なで声で掲載勧誘を行うのである。
ここで力になるのが営業担当差の芸術的素養だ。未熟だが絵を描いたことのある僕のような者はカタログを見ただけで受賞作がどのように描かれたかは想像できる。それを営業に生かすのである。しかし、営業担当者のほとんどは芸術に興味がない人間ばかりだった。
講評をもらう美術評論家は、そこそこ有名であり、美術総論の専属ライターのようなものである。掲載決定後に連絡がいき、評論家はカタログを見ながら講評を執筆する。当然、執筆料が支払われる。勧誘された多くの芸術家の卵たちは評論家の講評付きで掲載されるので、自分たちが騙されたとは思わない。
オレオレ詐欺のようなものだと言ったが、金だけ取られて対価がないオレオレ詐欺とは大きく違う。納得済みであれば、誰も損はしない。しかし、芸術的な素養もないチンピラのような電話営業担当者がカタログ写真だけで掲載勧誘を行うのは明らかに犯罪レベルであったと、営業に加担した自分を戒めたい。
岩井夫婦は、美術総論で働いていた際に知り合って結婚した。双方とも僕より6歳下の若者だった。
「なべちゃん、ブラックバスが苦しんでいるみたいで可哀想じゃん…」
釣り上げたブラックバスは、釣り針が大きな口に刺さったままだった。桟橋の上でバタバタしているブラックバスを見て迷った。掴み方がわからなかったのだ。
「なべちゃん、こうやるんだよ」太郎がブラックバスの口から釣り針を外しすと、口に親指を入れて口を押さえ、残りの指を使って頭部を支えて持ち上げた。バスは持ち上げられるとエラをパカッと開けてブルッと震えた。
「へぇ、太郎、スゲーじゃん」僕は素直に驚いた。
「何だか獰猛そうな顔してるね…怖い」
「釣れるかもしれないから、お前らもここで釣ってみな」
「うん、じゃ、ジムニーからロッド持ってくるよ。ほら、なべちゃん」と、太郎は持っていたバスを僕に向けて突き出した。
「えっと…親指を入れて…こう持つんだな」太郎からバスを受け取ると、岩井夫婦は「なべちゃんでも釣れたんだから、俺らにも釣れるぜ」と叫びながら愛車に向かって走って行った。
「この野郎っ!オレでも釣れたって言うなっ!」
僕は手に持ったブラックバスを頭から尻尾まで再確認すると、同棲していた女性を思って、「あいつにもバスを見せたかったなぁ…」と呟いて、ため息をついた。彼女とは何度か釣りに出かけたが、自然の河川湖沼で魚を釣ったことがなかったからだ。
水中から引き上げられたバスは、すっかり元気を失っていたが、まだ生きていた。生命力の強い魚だった。ブラックバスは食用としても美味しい魚だが、骨が太くがっちりとした筋肉質の魚を食べる気にはならなかった。水中に返してやることにした。
「お前、死ぬなよ…」
僕は桟橋の上からブラックバスを放り投げると、小さな弧を描いて水面に落ちた。バスはしばらく水面に浮いていたが、自分が水中に帰還したことにやっと気がついたようにブルッと反転して水中に姿を消した。
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