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災害の多様性「戦争と平和」

*見出し写真はマイクロエースのプラモデル「戦艦大和」の箱絵

また8月15日がやって来る。日本が自ら招いて国民を不幸に貶めた敗戦の日だ。

僕は昭和32年生まれだから、敗戦後12年後に生まれたということだ。強制されて戦地に送られ、特攻に大空襲や原爆と地獄のような戦争から、たった12年しか経っていないのだ。しかし、戦争のことなんか少しも知らないし、子どもの頃も周囲の戦争の傷跡に気づかないで育った。両親も親戚も戦争体験のことなんか話してくれなかった。

考えれば不思議なことだ。太平洋戦争の悲惨な不条理を誰も話そうとしなかったのだ。そんなことよりも、一方的な空襲の焼け跡から必死に立ち直り、国民総貧乏の時代は終わり、皆、戦後の経済発展の時代を謳歌していたように見えた。

気づけば冷蔵庫に洗濯機といった便利な電化製品も家庭に入り、テレビや自家用車も持てるようになった。プロレスや相撲に野球…と国民はテレビ画面に釘づけになったし、週末の映画館は常に満員だった。染みついた不条理な戦争の穢れを娯楽や享楽によって洗い流そうとしていたのだろうか?

しかし、日中戦争を含めると昭和12年から昭和20年までの約8年間、日本は貴重な国の資産と人材を失う無駄な戦争をしていたのだ。

戦争を始めた人間たちはどうなったのか? 強制されて、あるいは周囲に流されて戦争に加担していた国民の多くは戦後どうなったのか? 彼ら彼女らは心から反省し、2度と戦争はしないと決意できたのか? 

いつの世も、権力を持つ者は、国民の税金で禄を食んでいるという意識もなく、自分たちが得をする法律を作り、国民の資産を勝手に無駄に使いまくるそれを許す国民も国民だ。

「父の戦争」

僕の父は福島県猪苗代町に生まれた。野口英世の生家から1キロほど西に位置する地域だ。大正15年生まれだから戦時中は戦争に行くはずだった。ある日、僕は父に「戦争中は何をしていたの?」と聞いた。すると父は「航空士官学校にいた」と言った。戦争経験がないのに士官学校に入れたのだろうか? 「本当?」と聞き返すと父は何も答えなかった。それに父は津田沼にある工業大学生だとも言っていた。大学に入学して士官学校に? あり得ない話ではないが、何だか怪しい。父は単なるホラ吹きなのだろうか? 父が死んで22年。今となっては知る由もないが、要は戦地に行ったことはないのは確かだ。

「母の戦争」

僕の母親は、終戦間際の8月10日に岩手県一関市駅で電話交換手として働いていた際に空襲に遭った。防空壕のなかで駅員のひとりが、かばってくれたおかげで死なずに済んだが、その駅員は亡くなってしまった。

僕は毎年8月10日になると岩手の方に向かって駅員の方に手を合わせるのだ。


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