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消雲堂綺談「隧道」

もう30年以上前になる。当時、同棲していたU子から不思議な話を聞いた。

その年の夏、U子は岩手県にある実家に里帰りし、高校の同窓会に参加した。同窓会には彼女が高校時代に交際していた及川嘉男も参加する予定だったが、会場には彼の姿が見えなかった。

「嘉男君はどうしたの?」U子が親友のS子に聞くと、好奇心が動いたのか全員がこちらを見て何か言いたそうな顔をした。U子は嘉男に何かあったのだろうと感じた。

「U子、知らなかったの? 入院しているのよ」

「病気なの?」

すると、好奇心の塊のような男子たちがU子の側に寄ってきて「あだまが、おがしくなっちまったんだぁ」と笑いながら言った。

「んだ、んだ」皆、叫ぶように笑った。

U子は、自分の元恋人を悪く言われたような気がして不快になり、テーブルを叩いた。

「冗談言うでねぇよ!」

「冗談なんかでねぇ、ほんとのこどだがんな。嘘だど思うんなら病院さ行ってみればいいべっちゃ」

「やめれって、嘉男君のごどを馬鹿にするみでぇに言うがらU子が怒るんだべ」

見かねたS子が男子たちを制した。

「嘉男君は、随分前に、おっかない目にあって、おかしくなっちゃったのよ。ほら、駅の裏にある精神病院に入院しているのよ。みんなでお見舞いに行った時には、ベッドの上に座って目が虚ろでさ、反応がなかったのよ。退院まではだいぶかかるんじゃないかな」

「おっかない目…って」

「幽霊トンネルで幽霊を見だんだ」

「幽霊トンネル…」

「んだ、あのトンネルだ」

S子とクラスメートたちは堰を切ったように話し始めた。

以下は、U子がS子とクラスメートたちから聞いた話を僕がまとめたものだ。

「幽霊トンネル」

及川嘉男は19歳。岩手県一関市の山間の集落、絶谷(たつたに)という集落に両親と住んでいた。嘉男は一関市駅前の居酒屋で働いていた。仕事が終わって帰宅するのはいつも日が変わった深夜だった。嘉男は軽自動車で通っていた。勤め先から自宅までは車で40分ほどの距離だ。

その日、彼が居酒屋を出たのは午前1時過ぎだった。市内から自宅がある絶谷までは5キロほどだが、起伏の激しい照明のない狭い山道を越えなければならない。

嘉男は理由があって家路を急いでいた。市内では法定速度を守って走ったが、磐井川沿いに走る県道342号線の高速インターを越えたあたりで彼はアクセルを強く踏んで家路を急いだ。彼が急ぐには訳がある。磐井川が源流近くになり川幅が狭くなるあたりに渓流美を楽しめる観光地「磐美渓(ばんびけい)」があって、彼の家はそこからさらに山奥に寂しい山道を2キロほど進まなくてはならない。その途中に長さ200メートルほどの古いトンネルがあって、そこが地元では「幽霊トンネル」と呼ばれて恐れられていたからだった。

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幽霊トンネルには午前2時ちょうどになると決まって恐ろしい女性の幽霊が現れ、しかも幽霊を見たものは必ず死ぬという噂だった。といっても実際に誰も噂の真贋を確かめることをしないから、現実にそこに幽霊が出るのかも、幽霊を見た人間が必ず死ぬのかも定かではない。でも、嘉男は、午前2時前にトンネルを越えれば幽霊を見ることはないと信じていた。だからこれまで午前2時になる前にトンネルを抜けて帰宅していた。そして1度も幽霊を見たことはなかった。

「午前2時の怪異」

この日は売上金の額が合わなかったので、その確認作業のために遅くなってしまったのだった。「よかった。トンネルは2時前に越えられそうだ」嘉男はハンドルを握り締めてアクセルを強く踏んだ。嘉男は磐美渓を過ぎて山道に入るとカーラジオの時間表示を見た。デジタル文字は「1:38」となっている。幽霊トンネルはもう目の前だ。10分もあればトンネルを抜けることができる。「今日も2時前にトンネルを越えられるな」と嘉男はホッとため息をついた。

真っ暗な山道を嘉男が運転する軽自動車のライトが、2本の光の筋を作る。嘉男の車が走り進むと光の筋の後方は一瞬にして漆黒の闇に包まれる。こんな時間に対向車とすれ違うこともない。

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嘉男の目の前に幽霊トンネルの薄暗い照明が見えた。(午前2時に決まって現れる幽霊だが、幽霊が時計を持っているわけでもないから、たまには2時前に現れることはないのだろうか? 今までは現れることはなかったが、今夜出ないとも限らないではないか?)そう思いながら 嘉男は緊張してアクセルをさらに強く踏んだ。

トンネルの入り口にさしかかると嘉男の緊張感は増幅した。そのときだった。

突然、「ドン!!!」という音が嘉男の車の前方から聞こえた。「ん?」不思議に思った嘉男はゆっくりとブレーキを踏んだ。車はトンネルの10メートルほど中で停まった。

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「何だろう・・・狸でも轢いたのかな?」と、呟きながら嘉男はドアを開けて車の外に出た。トンネルの天井に設置された古い照明と車のライトでトンネルの中はかなり明るかった。そのために彼は、ここが幽霊トンネルの中であるということを忘れていた。嘉男はライトに照らされた車の前方を確認したあと、車の下も確認してみたが何の異常もなかった。

「気のせいか・・・あ・・・」嘉男は青ざめた。彼はここが幽霊トンネルの中であることにようやく気づいた。「もしかしたらさっきの音は幽霊の仕業なのかもしれない」嘉男は急に恐ろしくなって周囲を見回してみたが、異常はない。もしかしたら幽霊が自分の後ろにニヤリと笑いながら立っているかもしれない。背筋が凍る思いをしながらゆっくりと振り返ってみる。そこにも異常はなかった。嘉男はホッとため息をついて車の中に入った。

シートベルトをしながらトンネルの中を見回してみた。何の異常もなかった。カーラジオの時計表示は「1:58」になっている。「わ・・・2時になっちまう」嘉男はアクセルを強く踏んだ。車はタイヤを鳴らして走り出してしばらくするとトンネルを抜けた。「やった・・・助かった」呟いてため息をついた。抜けた所でラジオ時計を見ると「2:00」を表示していた。バックミラーに徐々に小さくなっていく幽霊トンネルが見えた。

車は再び闇の中を自宅へ向かって走っていく。5分ほどで自分が住む集落の僅かな明かりが見えた。小さな集落だが数えるほどの街灯はあった。しばらく県道を走ると、ようやく自宅の上に着いた。

嘉男の家は集落の中でも1戸だけ県道から2メートルほど下った川沿いにある。県道から細い坂道を下ったところに車庫があって、そこから少し離れて平屋造りの自宅が建っている。

嘉男は県道から、その坂道をゆっくりと下りていく。すると車の屋根からズズズと何かが引きずられるような音がする。「何だ?」気になったが、停めてから確認しようと、そのまま車庫の奥まで車を入れてからブレーキを踏んで車を降りようとした。すると車の屋根から何かが滑り落ちてズルズルとフロントガラスに粘りのある赤黒い筋を引きながら、そのままボンネットを滑り落ちて、車庫の壁にもたれかかるように立った。車のライトに照らし出されたのは首が異様に曲がった血まみれの若い女性だった。

「わぁっ!!!」嘉男は叫んだ。そして、あまりの恐怖に腰を抜かして車から出ることもできなかった。しばらくすると息子の叫び声を聞いた父親が家から出てきた。「嘉男っ!」父親が自分を呼ぶ声がしたのを遠くに聞いたような気がして、嘉男はそのまま気を失った。

「身元不明」

警察から嘉男の両親が聞いた話によると、嘉男は幽霊トンネルの前で若い女性を撥ねて、女性は即死、女性の死体は撥ねられた反動で車の屋根の上に乗った。これが嘉男が聞いた「ドン!!!」という音だ。嘉男は車の屋根の上を確認せずに自宅に戻り、車庫までの坂道で死体が徐々に滑り落ちてきて、車庫の中でかけられたブレーキによって完全に落下するのだが、偶然にも車庫の壁と車の隙間に落ち、さらにその隙間が狭かったために女性の死体は倒れずに立位を保ったのだそうだ。

意識を取り戻した嘉男は、警察から“自分が女性をひき殺した”ことを知らされると、「自分は女性を轢いていない。突然、女がトンネルの上から落っこちて来た」と必死に弁明したが、警察は現場の状況から嘉男が女性を轢き殺したことに間違いがないと結論づけた。

嘉男は、警察の事情聴取が終わって自宅に帰ると、自分の部屋に引きこもった。人を轢き殺してしまった罪の意識に、車庫で見た女性の恐ろしい姿が重なったのか、毎晩、恐ろしい叫び声をあげて、暴れるようになった。不安になった家族は嘉男を精神病院に入院させてしまった。

嘉男の車に撥ねられて死んだ若い女性がどこの何者なのかは現在でもわかっていないそうだが、死体があるので彼女は幽霊ではなさそうだ。


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