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不思議な街

夢ではない。昨日のことだ。本当の話だ。でも面白い話ではない。何てことのない話だ。

久しぶりにY屋まで牛丼を食べに出かけた。かみさんと一緒だ。このY屋の店舗は、だいぶ前にはドライブスルー付きの○クドナルドだった。そのために内部は奇妙な作りになっている。

Y屋になってからも、2度運営方針が替わっている。スタート時点には普通の牛丼屋だったが、ある時期から“セルフサービス”となった。セルフサービスとなると血が通った営業はできない。大方は気楽なのかもしれないが、僕のような年寄りには、水を自分で給水器から汲み出し、注文した品物を自席まで運び、食べ終わったら食器を受け取り口まで運ぶ…というのは損した気になる。「金払ってるんだから水もってこい」「注文取りに来い」「食器の片付けなんかまっぴらごめんだ」なんて気持ちがあるのかもしれない。そのためか客も少なくなった。店の前を通るとガランとした店舗内には店員の姿しか見なくなった。

しかし、ドライブスルーへの車の出入りが多かったのを見ると、多分、ドライブスルーの方は順調だったのかもしれない。

1年後には、その血の通わぬセルフサービスから、「水持って来てくれる、注文とりに来てくれる、注文品を持って来てくれる、食器は放置」という元の状態に戻った。セルフサービス以前よりは客は少なくはなったが、客の姿もチラホラと見えるようになった。

昨日は僕たち以外に客の姿はなかった。ドライブスルーの客は何組かあるようで店員はマイクに向って注文の復唱をしていた。

席に座ると“飛沫を防ぐアクリル板”の代わりに“A3の透明なファイルケース”が粗末な金属ポール1本にピンチ止めされていた。緊急事態宣言は解除されたものの、こんな状態では食事をする気にならない。最悪だ。

「酷いな」かみさんと顔を見合わせて苦笑いした。

我慢して、店員に「牛丼アタマの大盛り」と、かみさん用に「牛すき鍋膳」を注文した。早く食べて店から出ようと思った。

しかし、注文品が運ばれてくるまで、かなり時間がかかった。

そのうちに数人の客が入ってきた。そのうちのひとりが変だった。

その男は僕と同じ年くらいに見えた。僕たちが座る席の窓から彼が駅の方向から歩いてくるのが見えた。

店舗に入ってくるなり、厨房の方に歩いてウロウロしていた。それを見た店員は「あ、お客さま、そちらの席にご自由にお座り下さい。メニューをごんらんになって注文がお決まりになったからブザーでお呼び下さい」と言うと「ああ、俺さ、どこから来たのか、誰なんだかわからないんだ」と言って笑った。店員は「冗談を言っているんだろう?」と思ったのか「ああ、そうですか…」と言って、いい加減に対応していた。

「いや、ほんとなんだよ。俺は誰なのか、どこから来たのかわからないんだよ」

「ああ、そうですか…」愛想笑いをして頷いた。

店員という仕事は大変だ。僕ならば全く相手にしないだろう。

そのうちに、男は、その店員を呼んで「牛丼の並」を注文した。

しばらくして牛丼の並を店員が運んでくると男は「金は持っている。忘れると困るから、先に払うからさ」と言って千円札を1枚出した。店員は千円札を受け取るとレジを動かしておつりを出した。

店員は「ありがとうございます」と言って、男におつりを渡した。

男はあっという間に牛丼の並を食べ終えて立ち上がった。そのまま店員の歩いて行く歩いて行くと「あのさ、誰かが俺のことを探しに来るかもしれないからさ。来たら大丈夫だって言っておいて…」と言うと、ドアを開けて出ていこうとしたが、再び振り返って「誰かが来るかもしれないから、よろしく言っておいて」と叫びながら店を出て行った。

今度は彼がやって来た方向とは反対側に向って歩いて行った。

僕だけが店員と男のやりとりを見ていた。他の客も素知らぬ顔をして注目していなかった。野次馬な、かみさんはでさえ、そのことに気づいていなかった。彼女は牛すき鍋をつつきながら夢中になってご飯を食べている。その顔が死んだ義父にそっくりで思わず笑ってしまった。

「何で笑ってるんだよ」かみさんが怒りだした。

僕が「食べる姿が、お前のオヤジに似ているんで凄く面白いんだ」と言うと、さらに怒った。

ところで、自分が誰だかわからないという、あの男はどこに行ったのだろう? それから10分ほどあとに僕たちが食事を終えてY屋を出て、男が歩いて行った方向を見たが、男の姿はなかった。時間が経っていても、僕はまだあの男が店の前に佇んでいるような気がしたのだ。


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