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死に逝く者 父の場合「喪失」

21年前…のことです。

その日は担当雑誌部門の打ち上げがありました。月刊誌の編集が終了したあとに必ずやるんですね。でも、僕は酒が飲めないので、この無駄な習慣が大嫌いでしてね。僕だけ家が遠いので早めに切り上げました。御茶ノ水駅から千葉の自宅に帰るんですが、駅に着く直前の聖橋の上あたりだったかな。神奈川に両親と一緒に住んでいる妹から電話があったんです。

「帰ってきたら、お父さんが倒れてたの。これから病院に行くからあとで電話するね」と言われました。

「ああ、わかった。千葉に帰るから、また電話してくれ」と返事をしました。

とりあえず1時間半かけて千葉の自宅に帰って風呂に入って休んでいると、午前0時を少し過ぎてから、また妹から電話があって「お父さんが死んじゃった。今から来られる?」と言うんです。父が死んだ?父はこのときまだ74歳でしたから、いきなり死ぬなんて現実感がありませんでした。でも、人の死とはそういうものなんですね。

当時の僕は、それなりの給料をもらっていたのですが、その頃は「浪費癖」による借金で、大変な状態でした。浪費家には貯金もありません。タクシーを飛ばして神奈川に向うお金はありませんでした。自分でも信じられない言葉が出てきました。

「親父、死んじゃったんだろ? だったら、明日の朝に行っても同じだ。明日電車で行くよ」

妹は暫く黙っていましたが、冷たい兄に諦めたように「うん、わかった…」と言って電話を切りました。

あの時の僕は「家族が死ぬ事に対しての感情」がなかったように思います。

翌日は土曜日でしたから、かみさんと一緒に電車で神奈川に向うのですが、「どうせ親父は死んでるんだから、ゆっくり行ってもいいさ」と、最寄り駅を9時に出て、昼近くに神奈川の実家に到着しました。

神奈川の実家に着くと、妹は「今頃になって来やがって」というような顔をして僕を出迎えました。怒っていましたね。「ごめん、ごめん」と謝りながら部屋に入りました。奥の部屋に入ると、父は布団に寝かされていて、顔には白い布がかかっていました。母はその横に正座してボンヤリしていました。

「顔見ていいのかい?」と母に言うと、コクンと頷いたので、白い布を取って父の顔を見ると、青黒い蝋人形のような表情で目を瞑っていました。鼻には綿が詰められていました。

「こりゃ何だい?」

「葬儀屋さんがやってくれたのよ」

「ふーん」僕はぼんやりと父の顔を見ました。顔に触ってみると冷たくて、顔の皮膚は、頭蓋骨を覆った薄い脂肪の上に張り付いた冷たいゴムのような触感がありました。

ーやっぱり蝋人形だな…と心の中で呟きました。

僕のかみさんは僕の後ろに座って泣いていました。肝心の僕はというと、涙が出てくる様子はありません。だって、それほど悲しくなかったんですからね。泣けませんよ。

それまでも僕より若いイトコたちの死顔は何度か見てきましたが、その時も蝋人形のような死顔に僅かな恐怖を感じるだけで、悲しいなんて感情はありませんでした。何だか他人事なんです。


「どうして死んだんだ?」と妹に聞くと、母が割り込むようにして「昨日の夕方5時くらいにね、ご飯を食べた後に寝ると言って部屋に入ったら死んじゃったんだって」と言いました。

「うん、お父さんが5時くらいに夕食を食べた後に寝室に入ったんだって。それからお母さんが食器を洗ったり、テレビを観てたりしてお父さんに声をかけなかったの。9時過ぎに私が帰ってきたら、お父さんがベッドの上にうつ伏せで倒れていたの。もう息をしていなくてね、びっくりして、すぐに救急車を呼んで中央林間の病院に連れて行ってもらったのよ」

「病院から電話をくれたのか?」

「うん。でも、病院に着いたときはまだ死んでいなかったのよ」妹は泣いた。

「そうなの?」

多分、妹は医師が死亡宣告するまで生きていたと思いたかったんだろう。ベッドで見つけた際には既に死んでいたんだろうと思う…などと考えてみる。

小津安二郎の映画「東京物語」を思い出しました。映画では主人公の老夫婦が東京に住む長男と長女を訪ねながら東京見物を終えて帰郷する途中、具合が悪くなった妻は、帰郷するとすぐに亡くなってしまう。葬儀のために帰郷する子どもたち…自分たちの母親が亡くなったのに、両親と同居する次女以外の兄弟たちは、冷たい。皆、それなりの年齢になっているからだろうか?人が死んだという諦めの気持ちの中に母を失った哀しみは秘められているのだろうか?

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