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「湯河原温泉」


僕は夏が嫌いだ。四季の中で一番嫌いだ。暑いからだ。暑いことに何の意味も感じない。裸に近い格好をして能天気に歩き回る若者の姿を見るのも嫌だ。汗だくになって外回りをしていた頃の息苦しいほどの暑さを思い出してしまうのも嫌だ。

その大嫌いな夏が終われば、涼しい秋がやってくる。僕は秋が一番好きだ。秋といえば紅葉で、旅行の季節でもある。

湯河原温泉に出かけたのは秋だった。会社勤めを辞めて少しばかり退職金が入ったし、仕事を辞めて時間が自由になったことで宿泊料金が安い平日に温泉旅行にでも出かけてみようということになった。妻が2004年に乳がんを患って左乳房を全摘してから初めての旅行だった。

「おっぱいがないから温泉に入れない」と言う妻を不憫に思って“部屋風呂”がある温泉旅館を選んだ。

東京駅から新幹線に乗って熱海で降車し、そこから各駅停車で引き返すという奇妙な行程で湯河原駅に着いた。駅前から宿泊予定の旅館に電話をして、送迎車で迎えに来てもらおうと思ったら、「送迎はしていません」と冷たい返事が返ってきた。

仕方なく駅前のロータリーに停まっていた奥湯河原行きのバスに乗り込んだ。駅から坂を下るように温泉街に入っていく。バスの進行方向の左右には古びた店や旅館が並んでいる。街中には川が流れており、その川に沿って紅葉した樹々の後ろに大きな旅館がいくつも見えた。

「ようやく旅行らしくなってきたね」と妻が笑う。

温泉街を抜けると対向車がやっと通れるぐらいに道幅は狭くなり、上り坂となった。バスは山を登るように後方に傾いで、大きく左右に揺れる。数十メートル前に見える小さな橋のわきに「●●屋」という看板が見えた。目的の旅館だ。

僕は「次で降りるよ」と妻に言って停車ボタンを押した。バスはしばらく走ると、ゆらゆらとブレーキをかけて橋の前の停車場に停まった。妻の後からバスを降りて橋の方を見ると、橋の下は街中を流れる川の上流で、滝状の堰堤になっている。勢いよく堰堤を落ちる水の音が旅情を掻き立てるのだった。

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