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没イチ…

僕の家族は、かみさんと実の妹と義妹の3人だ。妹は神奈川県の実家に一人住まいしている。義妹は昨年から遙か遠くの北海道に住んでいる。家族や親族が呆気なく死んでしまうので、「次は誰が死ぬのか?」「いつ自分が死ぬのか?」なんて考えることが多くなった。僕は永劫回帰支持者であるから死んだ後はどうなるのかはまったく気にしてはいない。

ただ、自分がいつ死ぬのかは気になる。だって、今、僕が死んだらかみさんが経済的に困るではないか? 貧困であるから貯金もない。それに、かみさんの祖父、父は重度の認知症だったことも気になる。彼女が認知症になったら…と考えると、彼女の面倒を誰が診るのか? 彼女の妹は北海道にいるが、多分、面倒を診てくれないだろう…そういう性格なのだ。それは確信している。

僕と結婚したばかりに、酷い苦労ばかりをさせてしまったかみさんにこれ以上苦しい思いをさせるわけにはいかないと思っている。だから経済的に安定するまでは死ぬわけにはいかないのだ。といっても、来年は前期高齢者の仲間入りであるからして、ま、諦めるしかないのかもしれない。

逆に、かみさんも妹たちもいなくなって、ひとりぼっちになるのも怖い。恐ろしいのだ。幸い家事はこなせるが、毎月の銀行振り込みだのなんだかんだの自身への采配なんか人嫌いな僕にできるわけがない。どうすりゃいいんだ?なんて毎日悩んでいる。

だから、僕がいつ死ぬのかが気になる。寝ているうちに発作を起こして死ぬのか、交通事故で死ぬのか、それとも病気で死んでしまうのか…? 死は突然やって来るものだ。

以前から書店で気になっていた「没イチ」という漫画を買ってきた。

細君に先に逝かれたらどうすればいいのか? 大変申し訳ないけれど、池袋の暴走車事件で亡くなられた奥さんと幼い娘さんの記憶から抜け出せないで号泣されている旦那さんの姿をテレビで観るにたびに、「皆、ああなのだ。突然として伴侶を失った人たちの気持ちは彼ら彼女らにしか理解できないのだ」と思っていたから多分、この漫画もそういった内容なのだと考えて読みたくなったのだ。

「没イチ」である。これからの展開を見なければわからないものの、漫画の表紙から「泣ける」物語かと思っていた…ら、違った。伴侶の喪失から残された者が「どう生きるか?」の物語のようである。

その死因や状況に残された者の性格などから大きく違うが、泣ける人と泣けない人がいるのだ。この物語の主人公はあまりの突然のこととして夢のような現実に対応できずに泣けないのだ。これも僕は経験者としてよくわかる。もしかすると自分自身が死ぬときまで泣けないかもしれない。ま、それはいい。

人が自宅で亡くなった「変死」扱いの現場検証などの情景などは経験があるだけにわかるし、親族への連絡なども“突然のことでボーッとしている”ことから妙ちきりんな言葉しか出てこないこともよくわかる。

ただ、バツイチというふざけた表現が大嫌いな僕は、「没イチ」と表現する不謹慎さに嫌悪を感じる。もしかしたら没イチという言葉が「バツイチ」同様に一般に使われる日も来るかもしれない。

当然、伴侶の突然死から前向きに生きる…ということは大切だ。しかし、やはり日本語は大事に使わなければいけないと思う。没イチなんて言葉で励まされるような人間にはなりたくない。

僕は死ぬのも怖いし、死なれるのも怖い。死は恐ろしいのである。


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