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古き事を記す1

「国生み」

天と地が2つに別れた。

高天原にはじめに現れたのはアメノミナカヌシノカミと合わせて三柱(柱とは神を数えるときに使う)の神だったが、皆、独神(ひとりがみ 男女に分れる以前の神)だが、いつの間にか姿を隠してしまった。

次に、地上の国々がまだ固まっていないときに現れたのは二柱の神だったが、また独神であったためか姿を隠してしまった。以上の五柱の神は「天つ神 アマツカミ(高天原に現れた神のこと)」のなかでも特別な神々だ。

続いて現れたのはクニノトコタチノカミとチヨクモノカミだったが、これも独神だった。この二柱も同じく姿を隠してしまった。

続いて男女五組の神が現れた。その五組目だったのがイザナキノカミとイザナミノカミだった。クニノトコタチノカミからイザナミノカミまでを「神世七代(かみよななよ)」と言う。

以上までの神々は、アメノムナカヌシノカミ、タカミムスヒノカミ、カムムスヒノカミ、ウマアシカビヒコヂノカミ、アメノトコタチノカミ、クニノトコタチノカミ、トヨクモノノカミ(以上、性別なし)、ウヒヂニノカミ(男)、スヒヂニノカミ(女)、ツノグヒノカミ(男)、イクグヒノカミ(女)、オホトノヂノカミ(男)、オホトノベノカミ(女)、オモダルノカミ(男)、アヤカシコネノカミ(女)、イザナキノカミ(男)、イザナミノカミ(女)の十七柱だ。

アマツカミたちは、イザナキノカミとイザナミノカミに「海上に漂う土地を固めて国を造れ」と言って天の沼矛(アメノヌボコ 神聖な矛)を授けた。

イザナキノカミとイザナミノカミは、天地の間に架かっている「天の浮橋」の上に立ってアメノヌボコの先で海をかきまぜた。矛先からしたたり落ちる海水が海上に積もって島ができた。これが「オノコロシマ」だ。

イザナキとイザナミはオノコロシマに降り、天の御柱(神聖な柱)と八尋殿(広い御殿)を建てた。

ふたり(二柱)は、天の御柱の周りを回って、出逢ったとことで、まずイザナミが「なんて素敵な男の人なんでしょう」と言うと、イザナキが「なんて可愛い娘だろう」と言い終えたあと、性交した。その後、水蛭子(ヒルコ)という子を産んだが、(何らかの理由があって)葦の船に入れて流してしまった。続いて淡島を産んだが、この子も正式な子どもの数には入れなかった。

よくない子どもが生まれるのは何故だろう?とイザナキとイザナミは天つ神に聞いた。天つ神が占うと「イザナミが先に言葉を発したのがよくなかった。やりなおしなさい」と言った。

イザナキとイザナミは再び御柱をまわって性交すると、淡路之穂之狭別島 アワヂノホノサワケノシマ (淡路島)を産んだ。その後、七つの島を産んだ。合わせて八つの島を先に産んだことから大八島(オホヤシマ)と言う。さらに二柱は吉備児島(キビノコシマ)をはじめとして六つの小島を産んだ。ここまでが国産みである。

国産みを済ませたあとには、二柱は、たくさんの神々を産んだ。

イザナキとイザナミから生まれた島は十四、神は三十五にもなった。

「イザナキとイザナミから生まれた大八島と小島」

・大八島

オオヤマトアキツシマ(本州)、サドノシマ(佐渡)、アワヂノホノサワケノシマ(淡路島)、オキノミツゴノシマ・アメノオシコロワケ(隠岐島)、イキノシマ・アメヒトツバシラ(壱岐島)、ツシマ・アメノサデヨリヒメ(対馬)、シラヒワケ(筑紫国)、ツクシノシマ(九州)、タケヒムカヒトヨクジヒネワケ(肥国)、トヨヒワケ(豊国)、タケヒワケ(熊曾国)、イヒヨリヒコ(隠岐国)、エヒメ(伊予国)、オホゲツヒメ(粟国)、イヨノフタナノシマ(四国)、タケヨリワケ(土佐国)

・小島

水蛭子(ヒルコ)
淡島(アワシマ)
𠮷備児島(キビノコジマ)タケヒカタワケ
小豆島(アヅキシマ)オホノデヒメ
大島(オホノシマ)オホタマルワケ
女島(ヒメシマ)アメヒトツネ
知訶島(チカノシマ)アメノヲシヲ
両児島(フタゴノシマ)アメフタヤ

・天の沼矛の先から生まれた島

淤能碁呂島(オノゴロシマ)

「国生みとは何か?」

以下は、あくまでも個人的な意見です。

古事記が編集された時代は天武天皇の頃であったと思われます。天武天皇は天智天皇亡き後の大友皇子との後継争いと思われる壬申の乱によって、大友皇子(明治になって弘文天皇として歴代天皇の中に入れられた)を倒して王権を手にしました。

舒明天皇と皇極天皇(重祚して斉明天皇)の子どもである天武天皇は、天智天皇の弟ですが、実の兄弟ではなかったと思います。天皇として血筋を絶やさないために、何人もの後継者を作っておかなければなりませんから、正妻以外に何人もの側室を設けて後継者の予備をたくさん産ませておく要がありました。

天武天皇は、舒明天皇の子ではありますが、皇極天皇から生まれたのではなく、実は側室の子で、その側室は朝鮮半島から渡来人であったと思うのです。当時は渡来系の人たちはたくさんいました。というか、天皇家も弥生時代に渡ってきた半島からの渡来人であったという説が。人間には先着優先というイヤラシい本能があります。縄文時代に半島から渡来して来たのが天皇と呼ばれることになる一族(というか縄文人を駆逐する侵略者の一族)が先に到着したので、あとから来た同じ民族を差別したのだと思います。この差別意識は現代にも残っています。

天武天皇は即位するまで大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれました。名前からして海を渡ってきた渡来系であるという印象があります。額田王(ぬかたのおおきみ)という有名な女性がいましたが、はじめは大海人皇子時代に大海人皇子の妻であったらしいのですが、その後、天智天皇にも寵愛されているのです。まあ、横取りしたのでしょう。

天智天皇の即位前の斉明天皇の時代には「白村江の戦い」という戦いがありました。

斉明天皇六年(660)に、朝鮮半島の西部にあった百済が新羅と唐(中国王朝)に滅ぼされました。唐は、朝鮮半島北部の高句麗を侵略するために百済側から高句麗を挟み撃ちしようという考えでした。

そこで斉明天皇は筑紫の朝倉宮に遷幸(天皇が他の場所に移ること)して、百済復興を支援するために日本軍を半島の西部の中央部にあったと思われる白村江(現在の錦江河口付近)に派遣して、百済の残軍とともに、新羅と唐連合軍に挑みました。

ところが日本軍が出発する直前に斉明天皇は崩御してしまうのです。不幸は続いて白村江の戦いにも敗れてしまいます。唐と新羅の連合軍による日本攻撃に恐怖した中大兄皇子(天智天皇)は、大和から大津宮(滋賀県大津市)に遷都し、さらに国土防衛の政策の一環として水城や烽火(のろし)に防人を設けました。

この斉明天皇が仲哀天皇の皇后である神功皇后のモデルであるという説があります。

つづく

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