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深海樹林「フィトン・チッド」

多分、夢ではない。

昼なお暗い森の中を歩いている。それでも時折、木漏れ日は見えるのだ。
僕は末期の悪性腫瘍患者だ。ある人から「森の中で暮らしていたら癌細胞が消滅した」という話を真に受けて、こうして森の中を歩き回っていれば、癌が完治するのではないか?と考えたのだった。

確かに森の中の空気は清浄で、呼吸によって気管から取り込まれた森の酸素が肺の癌細胞を駆逐してくれるのではないだろうか?

昔、読んだ記事のことを思い出した。

森には動物の死骸や排泄物などの堆積物がある。死骸や排泄物は不快な臭気になるはずだが、森の樹木や植物によって臭気を浄化しているのだそうだ。

「フィトン・チッド」という物質がある。

フィトン・チッドは、旧ソ連のB.P.トーキン博士によって発見された。そして博士は、フィトン(植物が)チッド(殺す)と名付けた。維管束を持つシダなどの高等植物(高等下等など価値観は植物にふさわしくないと死語になりつつあるそうだが)は傷つくと、傷口から菌や細菌などの侵入を防ぐために周囲の植物を死滅させてしまう物質を発する。この物質がフィトン・チッドだ。

もしや、このフィトン・チッドが、人間の体内にあるがん細胞までも死滅させてくれるのかもしれない。

僕の母は肺がんで死んだ。

担当医師は「肺の入り組んだところに癌があって、高齢であるし、癌を取り除く手術はできない。余命は3ヶ月でしょう」と言った。

僕は「余命を告げるなんて、あなたは神なのか?」と腹を立てたが、医師が言うとおりに母は余命宣告から3ヶ月目に死んだ。

「がん細胞が増殖した内臓を身体の外に取り出すことさえできれば、取り出した内臓の患部に直接放射線を当てたり、焼き切って細胞を殺してしまえば癌なんかで人は死ぬことがないのだがね…」

僕は増殖するがん細胞を抱えながら森の中を歩くのだ。

毛細血管のように入り組んだ樹木の枝がシルエットになって、魚網のようだ。僕は、さしずめ網にかかった魚のように森を彷徨っている。

ハナニラやナツユキソウの花が咲き乱れている。季節は春なのだ。
木の根に抱かれるようにして花が咲いていたりする。

しばらく森の中を彷徨っていると森の突き当たり(深い森に突き当たるなんて事があるのだろうか?)に、一見、滝のようにたくさんの花を吊り下げた巨大な木が見えた。花は藤の花だ。藤はツタ植物であるから巨木に寄生しているのだ。

巨木は何の木なのだろうか?藤のツタがグルグルと巻き付いてクリスマスツリーのようになっている。

見上げると、巨木そのものが藤の木のように見える。とても寄生しているとは思えないほど自然なのだ。

そういえば7年前に死んだ母は藤の花が好きで、一緒に亀戸天神の藤の花を見に行った事がある。この藤の寄生巨木を見たら本当に喜ぶだろう。

それにしても植物とは恐ろしいものだ。彼らは哺乳類と違って、それこそ永遠に生命を維持できる。その姿こそ不老不死と言っても良い。おまけに花を落とした種があれば周辺だけでなく遠方までに種を飛ばして種族を増殖させることができる。哺乳類胎内に宿って生命の元を根絶させてしまうがん細胞とは大きく違う。

人間も健全な細胞を外部に分裂させてクローンを無限に作れればいい。本体が生命維持できなくなれば、分裂体が生命を維持するのだ。もちろん植物のように自然なる自己の生存本能によってであるから罪ではない。

実は僕はクローンの一体なのだ。

僕は胎内で増殖を始めた“がん細胞”を根治・寛解させるために50年前にこの森に来た。その間、49体の僕が死滅した。僕は最後のクローンなのだ。

残念ながらフィトン・チッドはクローンには効果がないようだ。

しかし、まだ冷凍された僕の本体が残っている。“がん細胞を根治させる医療技術”が発見されるまで彼は冷凍されているのだ。

もしかしたら僕の本体にはフィトン・チッドの効果があるかもしれないが、遅い。僕はもう死ぬのだ。





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