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過去ブログの記事から 「会津鶴ヶ城落城のあと」

僕は2004年から色々なブログや投稿媒体を使って文章や写真を投稿してきました。今読み返したり見返したりすると、それは、もの凄い分量なんです。ここらで整理しようと思い、noteに集約させようと考えています。人に読んでいただくためではありません。あくまでも自分のためです。ですから大変申し訳ありませんが、とりとめもなくハチャメチャな文章がアップされていきますが、ご勘弁下さい。

「会津落城のあと」

会津鶴ヶ城の開城後のことです。明治3年から城の取り壊しが始まりました。藩主の御座の間は長命寺の本堂に姿を変え、本丸御三階は阿弥陀寺に移築されました。翌年には塀と北出丸の角櫓(すみやぐら)が取り壊されて、7年には鶴ヶ城の廃城が決定します。

廃城の理由は、それまで新政府が県庁庁舎にしていた鶴ヶ城本丸を出て、若松市内に新築された庁舎に移動することになったからです。さんざん大砲や銃によって穴だらけになった鶴ヶ城は邪魔なだけってことです。

もうひとつの理由は…。

征韓論が通らず、当時の政府首脳だった参議の半数と軍人、官僚約600人が職を投げ出したために、国内は不満不穏な空気に満ちていました。

新しい世の中についていけない古い侍たちは新政府によって地位も禄も奪われて…つまり身ぐるみ剥がされてしまったので不満は募るばかり…。そうこうしているうちに、ついに佐賀の乱が起こって、またまた内乱か?って空気に恐怖した明治政府は、会津藩の戊辰逆襲も恐れたのですね。鶴ヶ城に篭られてまたまた抵抗されたら困る。だから鶴ヶ城を廃城にしようとしたのです。

この際に、現代の政治屋さんたちに通じる話があります。

若松県令の沢簡徳(さわかんとく)が城を修繕して保存しようとしたのですが、責任者である仙台鎮台長官である三好重臣(みよししげおみ)に反対されるのです。で、破却(原型を止めぬように壊すこと)が決定して、鶴ヶ城の建物46件を一般入札にかけたんです。建物を切り売りするわけです。

その告示を見た会津市民は中止嘆願を何度も行います。入札期日が来ても入札するものはいない。それでも廃城は中止しないと言う沢。

納得しない市民は「せめて廃城にする前に城の中を見せろ」と沢に要望。

沢は「しょうがねえなぁ~」と悩みましたが「あれだ!」って膝を打つ。明治政府は明治10年頃までに殖産産業を奨励し、その一環として全国で博覧会が開催されていたのを思い出した沢県令は鶴ヶ城を博覧開場して城内を一般公開するべぇと考えたのですね。

しかし、三好長官は、「大勢の人間が場内に入ったら城の損傷する」と言って首を縦に振りません。

困った沢は、若松の街の取り締まりを行っていた町野主水(まちのもんど)という男に相談します。町野が懸命に動いてようやく862円(いくらくらいなのか調べるの面倒です)で落札され、見事に博覧会が開催されることになるのです。

しかし、これは表向きの話で、沢は初めから「城郭破却」を進言していたのです。自分をキレイに見せるための落としどころを計算していたのですね。今の政治屋さんと役人さんみたいでしょ? 腐った近代的ヤラセ構造は明治時代から始まっているんです。

沢の「城郭保存は危険である」と書かれた文書が国立公文書館に残っているそうです。

………………

博覧会が終了すると、すぐに鶴ヶ城の破壊工事が始まってあっという間にすべての建物は取り払われてしまいます。

しかし、明治政府は城跡も競売にかけてしまいます。鶴ヶ城を跡形もなく消し去ってしまおうというのが狙いでしたが、旧会津藩士の遠藤敬士(えんどうけいし)という人が私財”2500円”を投じて入札してしまいます。遠藤は仙台の七十七銀行の頭取でした。

遠藤は「会津は我がふるさとである。城跡は戊辰の逆境にあったときに弾煙、硝雨の間に幾千の魂魄(こんぱく)を留めた古戦場である。これを保存して千古に伝うべし…」と言い、城跡を入手すると、会津松平家に献納しました。さらに松平家は後に若松市に寄贈しています。


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