見出し画像

福谷たかしさんのこと(写真追加版)

昭和54年(1979)に、僕は漫画専門誌「ぱふ(前身だっくす)」(*)と「ガロ」に、漫画のようなモノを高野聖(たかのひじり)というペンネームで投稿していました。4作描いて、うち1つを「ガロ」に、2つを「ぱふ」に投稿、残りの1つは未投稿という状態でした。結果は、ガロ投稿作は、そのまま返送されてきたので、腹が立って破り捨てました。ぱふ投稿作の方は、2つともに選外佳作となりました。

*1974年に清彗社から無題で創刊され、同年に『漫画界』という名が付けられた。1975年7月号から月刊化され、1975年10月号に『漫波』、1976年10月号に『まんぱコミック』、1977年8・9月合併号より『だっくす』に改題すると共に漫画評論誌としての性格を強め、1978年6・7合併号より出版取次を介して流通する「全国誌」(雑草社による表現)となり、1979年1月号から更に『ぱふ』と改題した。(wikipediaぱふより)

ぱふに投稿した選外佳作の1作目「深淵でのある状態」は、表紙だけが同誌面に掲載されました。その同じ号で佳作となったのが福谷たかしさんの「ジェリー・ロール・ベイカー・ブルース」でした。当時の福谷さんは27歳でしたが、何故か年齢を20歳としていました。

漫画専門誌「ぱふ」2・3合併号(1979年)

以下は、2006年に青林工藝舎より刊行された「レジェンド どくだみ荘伝説」を参照しています。

福谷さんは昭和27年(1952)に岡山県に生まれ、幼い頃から漫画を読むのが好きで、自分でも漫画を描くようになります。そのうちに福谷さんの描く漫画が上手だと評判になります。小学校6年生の頃に画家のベル串田(*)さんに漫画を見せ「出版社が多い東京に出るべきだ」とアドバイスを受けます。

*ベル串田は、日本の洋画家。岡山県上道郡金田村(現・岡山市東区金田)出身。藤田嗣治、東郷青児に師事。サロン・ドートンヌ会員、二科会理事・審査員。国連本部へ絵画作品が寄贈された画家。仏像や東北の子供など様々な画風を持つ。(wikipedeiaベル串田より)

父の転勤で広島県に転居。広島工業大学付属高校デザイン科に入学しますが、父がくも膜下出血で死去すると、地元の不良グループと親しくなり、窃盗事件で逮捕され、高校は退学、保護観察処分となります。

昭和52年(1977)、1970年に状況して、VANショップ(*)などで働くのですが、いずれも長続きしませんでした。立ち食いそば屋でアルバイトをしていたときに、書店で見た漫画誌に漫画家の山松ゆうきちさんがアシスタントを募集している記事を見て、応募します。緊張からか飲酒して面接に行き、技術的にも未熟だったために不採用になりましたが、1日分の手当を貰ったことに感激、真剣に漫画家を目指すことになります。

*石津謙介(福谷さんと同じ岡山出身)が大阪市南区で創業した企業。ニュー・イングランド風のファッションを、アメリカ東海岸名門大学グループ「アイビーリーグ」にちなんで「アイビー」と呼んだが、このアイビー・ファッションをVANブランドとして打ち出し、急成長を遂げた。(wikipediaヴァンヂャケットより)

昭和53年(1978)に、漫画専門誌「だっくす→ぱふ」に「とうきょう あでゅう」を投稿して佳作入選(これはのちに週刊漫画に発表されました)。翌、昭和54年に山松ゆうきちさんのアシスタントをしていた酒井ゆきおさんの紹介により「週刊漫画ゴラク」に「ボヘミアン・ラプソディー」を持ち込んで採用されます。これがデビュー作になります。面白いのはこの時点でも「ぱふ」に投稿して佳作入選となっていることです。多分、ぱふに投稿したのと同時にデビュー作発表となったのでしょうね。繰り返しになりますが、この時の「ジェリー・ロール・ベイカー・ブルース」掲載号で、僕の「深淵でのある状態」が選外佳作になっているのです。

ちなみに福谷さんは、この時期に数多くの作品を描いています。その中には僕同様に「ガロ」風の暗い内容の作品もあったようですが評判が悪く、採用されませんでした。

それから福谷さんは積極的に作品を発表していきます。昭和55年には「どくだみ荘」が人気を呼び、毎号連載を試みますが、当時はアシスタントもいなかったので、すぐに行き詰まってしまいます。

翌年にはアシスタントを採用して「どくだみ荘」の隔週連載を開始します。当時、福谷さんは阿佐谷に住んでおり、地元の飲み屋「クヨクヨハウス」の常連客でしたが、同じく常連客だった俳優の松田優作さんを紹介されて親しくなります。

昭和56年(1981)から昭和63年頃まで「どくだみ荘」を中心に順調に作品を発表していましたが、昭和64年には前年に発表したどくだみ荘のエピソードが「蔑視・差別表現」にあたるとして抗議を受けて激しく動揺します。同年には親しかった松田優作さんも病死したことで、精神的に支障をきたすようになります。

平成2年(1990)には連載を落とすようになり、人気作の掲載維持のために、過去の作品を元に編集部が別のストーリーを作り、切り貼りしたコピーで構成したモノ(番外編と呼ばれるものらしいです)を掲載することもありました。このことが福谷さんの“読者への罪悪感”と“次作へのプレッシャー”として福谷さんの精神を追い詰めていくのです。

以降も連載は続きますが、作品のマンネリ化と、ソレを打破できる新しい構想が浮かばず、徐々にどくだみ荘に対する情熱が喪失していきます。そして遂に平成3年には「もう描かない」と宣言し、どくだみ荘の連載を648回目に終了してしまいます。

編集部からの熱望により「新・どくだみ荘」の連載を開始しますが、過去の作品中に「他の漫画家作品の構図を模倣」したとして抗議を受けます。本人も模倣を認めて使用料を支払います。そのショックで連載は15回で終了します。この頃から殆ど酒浸りの生活が始まります。

平成9年(1997)に、食道静脈瘤破裂で手術を受けます。酒で肝臓機能が衰え血小板が減少し血が止まらなくなったのが要因でした。

以降、作品を発表せず経済的にも困窮します。アルコール中毒により体力は衰えます。断酒を決め努力し、一時的に体力は回復しますが、酒をやめることができず、幻覚を見るなど精神的にも異常をきたすようになります。

そして遂に、平成12年(2000)の9月9日、都内の病院にて40日間によるICU治療の末に福谷さんは肺水腫で亡くなります。48歳の若さでした。

福谷さんは、どくだみ荘全盛期にTV番組(11PM)にも出演して、漫画家として成功を掴みましたが、成功と同時に物語を創出する力を失っていきました。僕は漫画家でもなく、物語を作る職業にも携わっていないので、よくわかりませんが、物語を作るという仕事は本当に大変だと思います。作品を作り上げる一方で、私生活も維持していかなくてはなりません。様々な葛藤が精神や肉体を蝕んで行くのだと思います。

画像1

僕は漫画(のようなものですが)を捨てて別な世界にいましたから、福谷さんが、どくだみ荘で有名になったことも、福谷さんが亡くなったことも知りませんでした。写真の単行本を購入した2006年に福谷さんの死を知って驚きました。漫画専門誌の同じ号に掲載されただけですし、面識もないのですが、僕の知らないうちに、投稿仲間(と言って、よいのでしょうか?)のひとりの人生が終わっていたということが凄く衝撃だったのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?