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妄想邪馬台国「これまでのまとめ」

登場人物:異能清春(群馬の国立大学生)、水無月治子(埼玉本庄市の短大生)、稗田阿流牟(群馬の私立大学生)


1978年の初冬。赤城おろしが吹く季節になった。

群馬県伊勢崎市連取本町の平和荘。地元の国立大学に通う異能清春の部屋だ。異能の部屋の北側には歴史書、法律書や犯罪心理学書、それにどこから持ってきたものか気味の悪い死体検案書や犯罪者の陳述書のコピーなどが積まれ、西側には探偵小説や怪奇小説が同じように積まれている。いずれもカビ臭く湿気を伴っていることから相当に古いものだ。本以外は布団がかかったコタツしかない。異能はこの万年コタツで寝ているのだ。万年床だから臭かった。おまけに異能は、僕が誘わない限り銭湯にも行かないから、もの凄臭かったのだ…。

臭かったという過去形であるのは、異能が、やや清潔になったからだ。異能は、少しだけ変わったのだ。それには事情がある。

群馬県や隣の埼玉県の大学生による上野(こうづけ)探偵文学倶楽部を創設してから変わったのだ。埼玉県本庄市の短大生、水無月治子(みなずきはるこ)が倶楽部に加入してから、コタツから寝布団を外して、まめに天日干しするようになった。それだけではなく、コタツ布団を新調して、部屋も掃除するようになった。ただし、掃除をするのは治子が来る編集会議のときだけである。異能は治子に一目惚れしたのだ。

異能清春と水無月治子

今日は、その上野探偵文学倶楽部が発行している探偵小説同人誌「推理」の編集会議の日である。異能はいつの間にかガスストーブまで購入して、部屋の中は暖かい。治子はいつも素足にジーンズのミニスカートを穿いてやって来た。異能は治子の美脚に魅了されたひとりだった。

「ねぇ稗田くん、邪馬台国ってどこだと思う?」治子が僕に聞いた。次号の「推理」の特集テーマが歴史推理だからだ。治子は邪馬台国について書くと言っている。

治子はコタツに入らずにガスストーブを背にしてぺたん座りをしている。筋肉質の太股がミニスカートにはちきれそうにおさまっている。それを異能はチラチラと見ている。

「推理力は優れているのに、女には、からきし弱いな」心の中で呟いて、ため息をつく。

「奈良の大和朝廷だろう」僕が言うと、
「平凡な答えね」治子が笑った。
「じゃあ、治子ちゃんはどこだと思うんだい?」
「出雲だと思うわ。寒いからコタツに入るわね」と言って、ガスストーブの前から這うようにコタツに美脚を入れた。その際にチラリとピンクのパンティが見えた。異能がそれを見ていたが、その視線に治子が気がついた。
「あ、清春くん、パンツ見たでしょ?」
「見てねぇし!」異能が大声を出して否定した。
「見てたわ!」
「見てねぇよ、誰が、お前のピンク色のパンツなんか…あ」
「やっぱり見てたじゃない。おまわりさーん、変態がここにいますぅ!」
「ち…」異能が舌打ちした。
「あれ?変態がふてくされてる!きゃははははっ!ほうら、見たいなら見なさいよ」治子がコタツから脚を出し、スカートをめくってパンティを見せた。それを見た異能は「ぎゃああ!」と叫んで両目を覆った。その様子が面白いのか治子は立ち上がって異能の前でスカートをめくって「ほれほれ」と言って腰を突き出してからかった。異能には女性に対して免疫力がない。
いたたまれなくなって異能はコタツから出ると「ションベンしてくる」と言って外のトイレに走って行った。
「ダメだよ、治子ちゃん。異能をからかうのはやめなよ」
「面白いんだもん」と言って、コタツに戻った。
「清春くん、トイレでオナニーしてるかもね。ふふふ」
「何言ってるんだよ。もう…」呆れた。
「もう、ほら、編集会議だよ。邪馬台国が出雲だって、どういうこと?」
「大国主命の国譲りってあるじゃん」
「ごめん、知らない」治子が呆れた表情をした。

「出雲国譲り」


「出雲国譲りって知らないの?」
「うん」
「古事記を読んだことはあるでしょ?」
「ごめん、ないんだ」
治子が呆れている。
「出雲国譲りとは天津神(天照大神)が国津神(大国主命)から葦原中国(出雲)を譲り受ける神話のことよ」
「へぇ」
「天津神は高天原にいるでしょ? 国津神は日本にいる。私が思うに高天原とは朝鮮半島のことで、半島から渡ってきた人びとによって、出雲を治めていた先住民族が駆逐されてしまったのよ」
「朝鮮半島が高天原とは面白いね」いつの間にか異能が戻って来た。そのままコタツに滑り込んだ。
「あ、戻って来た…うふふふふ」
「何だよ!ここは僕の部屋だから戻って来て当たり前だろう?」異能がふくれて治子を睨んだ。
「おお、怖っ」
「さっきの話しだけどさ。朝鮮半島が高天原だというのは僕も同じ意見だね。古事記や日本書紀でも出雲国譲りが書かれているけど、これは先住民族が暮らしていたのが出雲で、そこが邪馬台国であったというのは凄く面白いと思うよ」
「出雲が邪馬台国?」
「まずは出雲神話から説明するよ」異能がふんぞり返って話し始めた。大変だ。異能が説明しはじめると長くなるのだ。治子もため息をついている。

伊弉諾神(いざなきのかみ)と伊弉冉神(いざなみのかみ)から生まれた(神話では伊弉諾尊が禊ぎをし、顔を洗った際に生まれた)のは天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)と素戔嗚尊(すさのおのみこと)だ。

アマテラスには高天原を治めさせ、ツクヨミには夜の国を、スサノオには海を治めさせようとしたが、スサノオは言うことをきかなかった。これに怒ったイザナキがスサノオを蘆原中国(あしはらのなかつくに)から追放してしまった。

スサノオは高天原のアマテラスのもとに向おうとしたが、それを知ったアマテラスは弟が高天原を奪おうとしていると考えて、スサノオを迎え撃とうと軍備を整えた。

スサノオはそれを見て「お姉さんの国を奪おうとはしていません」と言った。アマテラスは「それを証明してみなさい」と言うと、「それぞれ誓いを立てて子を産みましょう」と言って、ふたりは天の安河(あめのやすのかわ)を挟んで誓ってから、アマテラスがスサノオの剣をかみ砕いて三柱(神を数える際の単位。人である)の女神を産み、スサノオはアマテラスの勾玉をかみ砕いて五柱の男神を産んだ。

スサノオが産んだ五人の男神はアマテラスの勾玉から産まれたのでアマテラスが、アマテラスから産まれた三人の神はスサノオの剣から産まれたのでスサノオの子となった。

スサノオは「わたしの心が清く晴れやかであるから女の子を産むことができた。私の勝ちだ」と言うやアマテラスの田の畦を壊して水を堰き止め、その年にとれた穀物を食べるための神殿に排泄物を撒き散らした。アマテラスは怒らなかったが、スサノオはますます乱暴狼藉を働くので、それに恐怖したアマテラスは天の岩屋に引き籠もってしまった。世界は闇に覆われてあらゆる災いが起きてしまった。

八百万の神々は、何とかしてアマテラスを外に出そうとする。天手力男の神(あめのたぢからおのかみ)が、岩戸の脇に隠れ、岩戸の前で天宇受売命(あめのうずめのみこと)が足を踏みならして神がかり(神が憑依すること)常態となるや、自分の乳房を掻き出し、着物の紐を陰部まで垂らして舞い踊った。すると八百万の神々が笑った。それは高天原がゆらぐほどだった。

その騒ぎを聞いたアマテラスが天岩戸を少しだけ開けた。「八百万の神が笑っているのはなぜか?」と聞いた。「あなたよりも尊い神がいるので、皆、喜んで笑っているのです」と答えて、ふたりの神がアマテラスの前に鏡を差し出すと「アマテラスの顔が映った」不思議に思ったアマテラスは岩屋の中から身を乗り出すと…。

天岩戸イメージ
天岩戸イメージ

「ちょっと待って。天岩戸の話しがどうして邪馬台国と結びつくのさ?」
「まあ、もう少し話を聞けよ」
「そうよ。古事記を読んだことがない人だから異能くんが親切に説明してあげてるんじゃないの」

「多分、もう少しで終わるから我慢しなよ」治子が笑った。
「稗田は短気なんだよ」異能が僕の肩を叩きながら治子を見て笑った。
「じゃあ、もう少し我慢するから話を続けてよ」僕はふてくされてコタツの上に頬杖を突いた。
「どこまでいったっけ?」
「天岩戸よ。タヂカラオがアマテラスを引っ張り出すところ」
「そうだった」

岩屋の外の騒ぎが気になったアマテラスは天岩戸を開けて身を乗り出した。それを見て、タヂカラオがアマテラスの手を掴んで外に引っ張り出すと、世の中は明るさを取り戻した。

天岩戸イメージ

八百万の神々はスサノオの処分を話し合った。スサノオから贖罪としての品物を奪い、穢れを清めてから高天原から追放した。

高天原を追われたスサノオは、出雲国(島根県)の肥川(斐伊川)の川上にある鳥髪に来た。ここで有名な「八岐大蛇退治」の話になる。八岐大蛇を退治したスサノオは、八岐大蛇の尾から草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を見つけた。それを天照大神に献上した。

それからスサノオは櫛名田比売(くしなだひめ)と結ばれ出雲の須賀(島根県大原郡大東町須賀)に宮を作ることにした。子は孫を産み、代を重ねて生まれたのが六世の孫、大国主神(おおくにぬしのかみ)だ。またの名を大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)、葦原色許男神(あしはらしごをのかみ)、八千矛の神(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにのたまのかみ)と、五つの名を持っている。

大国主神の兄弟には八十神(やそがみ:たくさんの神)がいたが、みな、稲葉(出雲の因幡)に住む八上比売(やがみひめ)に求婚しようとしていたが、ヤガミヒメは「私はオオクニヌシに嫁ぎます」と言うと、八十神たちは怒り狂い、人の良いオオクニヌシを誘い込んで焼き殺してしまう。オオクニヌシの母は高天原に行き、神産巣日神(かみむすびのかみ)に願うと、オオクニヌシを生き返らせてやった。

それを知った八十神たちはまたもやオオクニヌシを山で殺してしまう。そしてまたオオクニヌシの母はまた高天原に行ってオオクニヌシを生き返らせた。

母は「お前がここにいる限り、兄弟たちに殺されてしまう」と心配して木国(きのくに:和歌山県)の大家毘古神(おおやびこのかみ)の元に逃がすが、それに気づいた八十神たちは木国まで追って来て、「オオクニヌシを引き渡せ」とオオヤビコを脅したが、オオヤビコはオオクニヌシを「スサノオノミコトの元(根の堅州国:ねのかたすくに)に逃げなさい」と言って、こっそりと逃がした。

オオクニヌシがようやくスサノオの元に着くと、スサノオは、オオクニヌシを歓待するふりをして殺そうとした。それを救ったのがスサノオの娘、須勢理毘売(すせりびめ)だった。オオクニヌシとスセリビメは、スサノオの生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天詔琴(あまののりごと)を持って、スサノオから逃げたが、スサノオは黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追ってきて「その太刀と弓矢で兄弟たちを追い詰めて追い払い、スセリビメと結婚して出雲の国の宇迦の山(出雲大社の東北にある御崎山)の麓に太い柱を立てて高天原に届くほどの宮を作って住め」と叫んだ。オオクニヌシはスサノオに言われたことをすべて成し遂げて国づくりを始めた。

オオクニヌシはヤガミヒメと結婚したが、正妻のスセリビメを恐れて因幡に戻ってしまった。

「」


豊葦原では大きな争乱があった。

アマテラスが高天原の天の浮橋から地上を見ると、騒がしいので、八百万の神々を集めて「地上は争いが絶えぬようだから、これを治めるにはどの神を地上に降ろせばいいのか?」と神々と相談した。

結局、天菩比神(あめのほひのかみ)を地上に降ろすと、アメノホヒはオオクニヌシに媚びるばかりで、彼からは三年も音沙汰がなかった。

天若日子(あめのわかひこ)を地上に降ろしたが、彼はオオクニヌシの娘、下照比売(したてるびめ)と結婚して、オオクニヌシの国を自分のモノとしようと考え、八年経っても高天原には何の連絡もなかった。

高天原から鳴女(なきめ)という雉を地上に飛ばして、アメノワカヒコに連絡しようとしたが、アメノワカヒコは、雉の言葉に耳を貸さないばかりか鳴女を射殺してしまう。

矢は雉を貫いて高天原まで飛んだ。矢に血がついていたので事を察した高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は矢を地上に返すと、アメノワカヒコの胸に突き刺さった。

アマテラスは建御雷神(たけみかづちのかみ)を天鳥船神(あめのとりふねのかみ)伴わせて地上に降ろした。

ふたりはオオクニヌシに会い「お前の国は私の子が治めるべきだが、お前はどう思う?」と問うと、「私は答えられない。私の子の事代主神(ことしろぬしのかみ)が返事をするでしょう」と言うので、アメノトリフネがコトシロヌシを呼び寄せると、コトシロヌシは父のオオクニヌシに「この国は天つ神の御子にお譲りしましょう」と言って、乗っていた船を靑芝垣(あおふじがき)に変えて、その中に隠れてしまった。

タケミカヅチがオオクニヌシに「他に意見を述べるような子はいるか?」と聞くと、「建御名方神(たけみなかたのかみ)がいます。他にはおりません」と答えているときに、そのタケミナカタが大岩を手に載せてやって来た。

タケミナカタはタケミカヅチに「力比べをしよう」と言ったが、結局はタケミカヅチの力に恐怖して科野国の州羽の海(しなののくにのすわのうみ:今の長野県諏訪湖)に逃げてしまった。追いかけてきたタケミカヅチに恐れをなして「この国を献上しますから殺さないで下さい」と言った。

オオクニヌシは「息子たちが従ったのだから私も背くつもりはありません。この葦原中国を献上いたしましょう」と言い、さらに「せめて私の住むところだけは天つ神の御子が住むような立派な宮殿を建てて下さい。私たちは宮殿に籠もって暮らしましょう」と言った。

長い話だったが、以上の内容を異能が説明し終わると僕はため息をついた。

「これがオオクニヌシの国譲りだよ」
「長い話だったな。神話だからか、モラルのない裏切りの連続で、善人がひとりもいない救いのない話だよな」
「昔の人にモラルなんてないわよ」治子が珍しく怒っている。
「今だってモラルのあるような世の中じゃないわ。男尊女卑、民族、経済的な差別が続いているこの国でさ、そんな国の古代にモラルのモの字もあるはずがないのよっ!」と言ってコタツを叩いた。

異能と治子

「まあまあ…」異能が治子の肩をなでてなだめようとすると、治子が「何すんのよっ!」と言うや異能の右頬に治子の平手打ちが決まった。
「ぎゃあっ!」異能が自分の後ろにある本棚に頭をぶつけると、本棚が揺らいでたくさんの本が落ちてきた。

つづく


異能は本棚から落ちてきた分厚い本が頭にぶつかって倒れた。
「だ、だいじょうぶ?」治子が異能のそばに駆け寄った。すると治子のミニスカートがまくれ上がってピンク色のパンティが丸見えになった。治子はそのことに気づかない。
異能は、それを見て、気絶したふりをしながら薄目を開けて治子のパンティを凝視した。

「大丈夫なの? ねぇ、異能くん、ねぇ…。ねぇ稗田くん、救急車呼ぼうか?」治子が本気で心配している。
「大丈夫だと思うよ、ほら異能の股間を見なよ」
治子が異能の股間を見ると大きく膨れている。
「あ!きゃあ!」治子は、まくれ上がったミニスカートを慌てて直してから、異能の股間を蹴飛ばした。
「ぎゃああっ!」異能が飛び起きて、股間を押さえて叫んだ。
「な、何するんだ、この野郎っ!」
「あら、あたしは野郎じゃないわ。この変態っ。あたしのパンツ見て勃起してたじゃない?」
「ぼ、勃起なんかしていない!俺のは人よりデカイから、そう見えるだけだ」
「嘘つき!」
また、治子の平手が飛んだ。
異能がまた倒れた。
「いい加減、ふざけてないで、邪馬台国の説明を続けてくれよ」
「くそ…痛ぇ…。治子、覚えてろよ」
「覚えててあげるわよ、このパンティ野郎」治子がコタツに戻ってきた。
「ちくしょ…」異能も体勢を整えてコタツに入った。
「じゃあ、あたしが続きを説明してあげるわよ」
「ああ、頼んだぜ」異能が治子にぶたれたほっぺたを押さえながら、またコタツから出て本棚から本を数冊取ると、再びコタツに戻ってきた。
本の署名を見ると「邪馬台国」「魏志倭人伝詳解」「倭」「日本の歴史」とあった。

「異能くんの説明で何となくわかったでしょ?」
「全然わからないよ。邪馬台国何て出てこないじゃないか」
「しょうがないわね。私が書いてきたメモがあるから…」治子は自分のノートを開いて見せた。

「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」

倭国は、男子を王として70〜80年を続いていたが、倭国に王座を争う内乱が起きて、争いは数年間も続いた。それを治めるために一人の女を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼道(呪術)を用いて、よく民衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎており、夫はなかった。

「三国志の倭人伝…。当時の日本に内乱があってそれを治めるために卑弥呼を立てたということだね」
「そう。倭国大乱というのは、豊葦原(日本)を治めるオオクニヌシが、豊葦原を治めるまでの兄弟との揉め事や、高天原からの使者・タケミカヅチとの力比べ(戦い)なんかのことだと思うのよ」
「なるほどね。でも、高天原は邪馬台国じゃないんだね」
「高天原は、朝鮮半島だよ」異能が言った。

「高天原」


異能は「高天原は朝鮮半島に決まっているよ」自信たっぷりに言い切った。

「私もそう思うわ。古事記は神話って言うけれど、ある程度は事実をもとに書かれているはずだもん。高天原と地上を何度も往復してるってことは近くってことだからね。だから半島が高天原って説には大賛成」
「九州ってのは?」
「九州は邪馬台国だから違うよ」
「邪馬台国は出雲だってば…」
「ふふふ、あくまでも候補ということだよ」
「ふん、じゃあ、あたしが邪馬台国イコール出雲説ってのを解説するわよ」と言うと、治子は、こたつから出て、部屋の隅に置いていた自分のカバンのところまで歩いて1冊のノートを取り出した。しかし、コタツから立ち上がる際にミニスカートがまくれて再びピンクのパンティと筋肉質の美脚が露わになった。治子はそれに気づいていない。カバンからノートを取り出す際には立派なお尻が丸見えになった。それを、間近で見ていた異能は、しばらく治子のソレから目が離せなくなってしまった。その異能の視線で、自分のおかれた状況に気づいた治子は慌ててスカートを素早く修正すると、持っていたノートで異能の顔を思い切りひっぱたいた。

「この、変態野郎っ!」バンと大きな音がして、異能はそのままコタツに脚を入れたまま倒れた。

「バカはほっといて出雲のことを話すわ」
「そのノートは?」
「ああ、小学生の頃から古代史について書き続けてるのよ」
「小学生の頃から?」
「うん、ええっと…朝鮮半島が高天原だってとこだったよね。異能くんの話は…っと…ああ」

今度は治子が長い話を始めるのだった。

「663年に朝鮮半島の白村江で百済・倭国(日本)連合と新羅・唐(今の中国)連合が戦うと、百済・倭国連合軍は敗退しちゃう。すると当時の天皇の天智は、新羅・唐連合が倭国まで進駐してくると恐怖して、九州や四国に水城を作って、自分は大和(奈良)を放り出して、琵琶湖畔の大津(滋賀県)に遷都するんだけど…」
「アレって、情けないよね。いくら怖いからって大津まで引っ越しちゃうなんてさ」いつの間にか異能が復活している。
「そうそう、不思議だよね。それほどに白村江の戦いが恐ろしかったってことだけどね。まぁ戦争はおっかないけどね」治子も話に乗っているから異能の復活を素直に受け入れてしまう。
「んで、その後、天智天皇は死に、あとを継いだ大津皇子も壬申の乱で天武天皇にやられちゃって、天武天皇の治世になる。天武が古事記を作る…」
「でさ、朝鮮半島が高天原だってのは?」なかなか高天原や邪馬台国に話が進まないから僕はイライラしていた。
「稗田くんは気が短いのね。意外だわ。うん、今、説明するわよ。ところで稗田くんは家系図ってある?」
「え、何だよ、藪から棒に…ええっと、ないと思うよ」
「祖先は誰で何者だったのかはわかる?」
「何者?」
「武士とか農業だったとかってことよ」
「え、知らないよ」
「だよね、じゃあ日本人が文字を使い始めた時代はわかる?」
「まさに天武天皇の時代なのさ」異能が口を挟んだ。
「それがどうかしたのかい?」
「普通の人ならば祖先が何者なのかなんて知らないのよ。しかも文字がなかったらどうやって記録するの?だからね、いくら天皇だからって自分たちの祖先の事なんかわからないのよ。それを…あ」
「稗田くんは稗田阿礼(ひえだのあれ)の子孫だっけ?」
「名字が同じだからと言って親戚に結びつけるのはどうかな?」また異能が口を挟んだ。
「でも稗田氏というのは、そう、たくさんはいないよ。稗田くんが知らないだけで、実は先祖は稗田阿礼だったかもしれないよ」異能が笑った。
「古事記を編纂したのは稗田阿礼だと言われているのよ」
「へえ」
「稗田阿礼の話をもとに日本書紀も作られたと言われているの
よ」
「さっき、天武天皇の時代に文字ができたと言ったけど、古事記の前にも「天皇記」など、天皇について書かれた記録があったと言われているんだ。乙巳の変で天智天皇…あ、当時は中大兄皇子だったな。中大兄が中臣鎌足と一緒に蘇我入鹿を殺した翌日に、蘇我蝦夷が自分の館に火を点けて自殺したンダケド一緒に燃えちゃったのさ」
「文字ができる前なのに記録があるなんて変だね」
「日本語としての文字はなかったけど、中国から伝わった漢字はあったから、漢字で書かれたものだったんだろう」

「ねえ、話が脱線しちゃったよ。出雲邪馬台国説に戻そうよ」
「うん」と異能は頷いた。
「アマテラスとスサノオは高天原に生まれて、暴れもののスサノオはアマテラスの領地を自分のものにしようとする。スサノオは八百万の神々によって高天原を追い出されて出雲にやって来るじゃん」
「うん」
「朝鮮半島には伽耶、百済、白羅、高句麗という国々があって互いに争う。そうすると難民が出てくるでしょ?」
「うん」
「その難民が海を渡って、倭国…つまり日本にね、やって来るのよ。天武天皇って若い頃に大海人皇子(おおあまのおうじ、おおあまのみこ)って名前だったんだけどね…」
「大海人皇子ってさ、大きな海の人って漢字があてられてるんだけどさ」異能がまた口を挟んだ。
「ああ、半島から逃れてきた難民だったのか?」僕が言うと、治子が大きく頷いた。
「大海人は多分、百済との戦いの際に、倭国…日本の事ね、こっちに亡命してきたんだと思うのよ」
「わからないけど百済の最後の王・義慈王の血筋とかさ…」異能が口を挟んだ。
「血筋が良くなければ天皇の養子にはなれないよね」
「うん」異能が頷いた。ったく、このふたりは仲がいいのか悪いのかよくわからない。
「養子だって?」
僕の怪訝な表情を読み取ったのか異能は「わかってる」と言って笑った。
「日本は半島の国々に大きな影響があったんだよ。大海人皇子の母親は皇極天皇と言われるけれど、本当の母親じゃなくてさ、義慈王の血筋だから大海人を養子に迎えたんだと思うんだ」
「百済が滅ぼされて半島から倭国に亡命した大海人皇子…って」
「なんだか高天原を追放されたスサノオの状況に似ているね」
「天武天皇によって編集が進められた古事記は推古天皇までが記録されるし、日本書紀は天武天皇の奧さんの持統天皇までが記録されているのよ」
「古事記も日本書紀も、異国の人である天武天皇即位の正当性を証明しようとしたんだと思うんだ」
なるほど。僕は大きく頷いた。
「もしかしたら、古事記や日本書紀に登場する人物たちは…」
「そうだよ。天武はスサノオであり、神武天皇であり、のちに血統を廃してしまう武烈であったり…」
「でも、出雲から離れちゃったね」
「それじゃ、続けてそれについて解明してみようか」

つづく

「話が複雑になってきたから一度整理してみようね」治子は自分のノートを取り出してさっきまでの話をまとめだした。
「ええっと、テキトーに書きだしてみるね」
「うん」
「あとで時系列に並べりゃいいからね」異能が頷いた。
「うん」治子がボールペンで書き出した。

①高天原=朝鮮の伽耶、百済
②葦原の国=日本=出雲=邪馬台国
②アマテラス=卑弥呼=神功皇后=皇極天皇=持統天皇
③スサノオ=卑弥呼の弟?もしくは卑弥呼の次の男性王=神武天皇=景行天皇=日本武尊(ヤマトタケル)=天武天皇
④オオクニヌシ=神武天皇=日本武尊(ヤマトタケル)=出雲建(イズモタケル)=継体天皇=天智天皇=大友皇子(天智天皇の息子、のちに弘文天皇)
⑤天武天皇=滅亡した百済の王子?=皇極天皇の養子
⑥倭国大乱=卑弥呼以前の男性王の内乱=オオクニヌシへの兄弟間、および始祖であるスサノオからの虐待騒動、ヤマトタケルによる熊襲およびイズモタケル討伐および東征

「こんなもんかな?」書き上げた治子がため息をついた。
「邪馬台国と後世の天武天皇というと時代が違うね」
「時代はいいんだよ。邪馬台国のだいぶあとの時代だったとしても、天武天皇時代に作られたと言われる古事記や日本書紀の物語の構造を理解しようとするものだからね」
「天武天皇以降の時代にご都合主義で創作した大作だもんね」
「神武天皇と日本武尊に継体天皇ってのは?ああ、景行天皇に出雲建もだし、大友皇子も…」
「神武は東征の際に、いくつもの障害を経てからオオクニヌシ同様に和歌山から大和に入るし、継体はオオクニヌシと同じ応神天皇の6世の孫なんだよ」
「ヤマトタケルは、景行天皇の息子で、古事記では兄の大碓命(オオウスノミコト)を殺す残酷な乱暴者で、景行に九州の熊襲討伐を命じられ、討伐終了後に出雲に入って出雲建(イズモタケル)も殺してしまうの」
「あ、出雲だ」
「でも、日本書紀では、兄のオオウスを殺すことも出雲に触れることもなく、熊襲討伐のあとに東征を命じられた兄のオオウスが逃げたので、ヤマトタケルが代わりに東征に向うんだよ」
「大友皇子は天智天皇の息子でね、天武天皇との壬申の乱で負けて自殺しちゃう。のちに弘文天皇って天皇のひとりに加えられるのよ」
「ふーん」僕は、マニアックな話を交互に話す異能と治子に似たものを感じた。ふたりを見て、つい笑ってしまった。
「ちょっと、稗田くん、何笑ってるのよ? 目的は邪馬台国の場所の特定だからね」治子が青春ドラマのヒロインみたいに腕を組んでふくれっ面をした。
「ああ、ごめん。とにかく、さっきも言ったけど、自分たちの家系なんてわかるのは爺さんくらいまでのもんだろう? いくら天皇だからってわかるわきゃあない」
「いや、曽我蝦夷自決の際に焼失した“天皇記”があるって言ってたじゃん」
「おお、そうそう。それがあったね。聖徳太子によって記録されたというけれど、だいたい、聖徳太子の存在自体が怪しいけれどね。その内容を稗田阿礼が覚えていたのか、稗田が天皇記の編纂をした人物なのかは全然わからないね」
「なんか稗田、稗田って言われると他人ごととは思えないね」
「そうだよね」治子が笑った。
「天皇記以外にも”帝紀”や他の記録ってのもあったらしいけどね。あ、そうだ、こういうのもあるんだよ」
そう言うと異能はコタツから出て、自分の本棚から1冊の本を引き抜いてコタツの上に置いた。それは「ホツマツタエ」という書名だった。

つづく

「ホツマツタエ?」
「ええ、それはダメだよ。話がかえってややこしくなるじゃん」
「稗田くんの知識を増やしたいのさ」
「異能くんの自己満足じゃん。私が邪馬台国だと主張しているのは出雲なんだからね」治子がまたふくれた。
「一応知っておいてもらおうよ。ホツマツタエとは真実を伝えるという意味さ。これは縄文時代に作られたヲシテという神代文字で書かれているんだ」
「ふーん」
「これによるとね、高天原は東北にあったことになってて、アマテラスは男だったというんだね」
「あらら、そりゃ治子ちゃんが怒るはずだ。九州からも奈良や出雲からも遠くなっちゃった」
「まあ、そういう説もあるということさ。ホツマツタエの内容を元に古事記や日本書紀が書かれたと主張する人もいるんだよ」
「古事記や日本書紀は、聖徳太子による天皇記や帝記を下敷きにしたんじゃなく、縄文時代の記録であるホツマツタエを元にしたってことか?」
「そうだ。これによると、日本列島には「壺」と呼ばれる三つの聖地(琵琶湖瀛の壺、富士山逢の壺、仙台の方の壺)があってね、方の壺がある仙台地方は一番古く、7代の天神によって開闢された日高見国であり、“高天原”と呼ばれたんだ。古代の東北地方は日本の先進地だったんだね。要点は、高天原は、日高見国…つまり東北だった、天照大神は男神で13人の后がいた、日高見国からの“天孫降臨”は、ニギハヤヒノミコトとニニギノミコトの2度あって、ニギハヤヒノミコトは仙台から鹿島を経て難波に上陸、飛鳥宮に君臨した、ニニギノミコトは、その後、筑波に新治宮を造り、富士山麓に遷都した…というんだ。面白いだろ?高天原が東北にあったとかアマテラスが男で13人の奧さんがいただなんてさ。それに邪馬台国って邪馬壺国って書く場合もあるんだよ」と言って、異能は、治子のノートの空いたところに「壺」という字を書いた。
「壺?」
「やめてよ。ホツマツタエは本物かどうかわからないし、そんなこと言うなら天津教の竹内文書(たけうちもんじょ)もあるしね…」
「竹内文書? ほう…驚いた。治子ちゃんはよく勉強してるね。ホツマツタエや竹内文書なんか誰も知らないよ」
「そんなことないよ。古代史が好きなら、そこは避けて通れないのよ」
「へえ」異能が感心して頷いた。彼は頷いてばかりいる。それにしても治子の知識は凄い。異能と同じくらいに本を読んでいるんだろうなと感心した。
「竹内文書って?」
「それに関しては、別な機会にやろうよ」
「ほら、稗田くんが混乱したじゃない」
「治子ちゃんが竹内文書って言ったんじゃないか?」異能がふくれっ面をした。
「でもね、ホツマツタエが偽書ではなく、本当に縄文時代の記録書だったとすると、のちに蝦夷(えみし)と呼ばれる朝廷に弓引く民族だったわけだ。あとから半島から渡ってきた今の天皇の先祖が、先住民(縄文人)の蝦夷を駆逐して、ホツマツタエを自分たちの家系記録として捏造したとするって話もなくはない」
「そうね…そう考えると、私の出雲イコール邪馬台国説っていうのも揺らいできちゃう」

邪馬台国出雲説を整理した意味がなくなってきた。

つづく

「ホツマツタエが本当の記録だとしたら、先住民の蝦夷が邪馬台国を形成していたけれど、それが大陸から渡ってきた天皇の先祖たちに侵略駆逐されて、ホツマツタエの歴史まで奪われてしまったというイメージだな」
「本当の話ならばね」
「で、邪馬台国出雲説ってのは?」
「ったく、異能くんが話を脱線させるからよ」治子は異能を睨んだ。異能は頭を掻きながら「ごめん」と言って舌を出したが、開き直るように僕を見て「脱線させちゃったけど、出雲邪馬台国説とホツマツタエと基本は同じなんだよ。縄文文化は東北中心だけれど…」
「のちの大和朝廷が先住民族の出雲を侵略した?」
「そうそう」
「古代の出雲は大きな統治国家だった。それを渡来してきた天皇の先祖たちに侵略されて、出雲人の稗田が古事記を編纂して、それを天皇中心の歴史とするため日本書紀を作った。国家そのものが邪馬台国だった」
「でもさ…」
「何だい?」
「古事記神話って“親や兄弟間の争い”って同じような話が続いているんだけど何故かな?」
「不自然だって言うんだろう?」
「そうそう」
「それこそ古事記も日本書紀も、天皇の正当性を主張するための作り話であるってことの証明じゃないか」
「なるほど」
「瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の話なんか、持統天皇の孫である軽皇子(カルノミコ)、つまり文武天皇のことだって説もあるくらいだ。だから白紙状態からだとまでは言わないけれど、自分たちの都合良く血統証明しているだけなんだから」
「ニニギノミコト?」
「しようがないわね、それも説明してあげるわよ」
「威張ってるよ」
「えっへん、じゃあ話してあげるわ」

恫喝してオオクニヌシから葦原中国(出雲、または西日本全域)を奪ったタケミカヅチは高天原に戻ってアマテラスに報告した。アマテラスの子・天忍穂耳命(アメノオシホミミのミコト)に「葦原中国に降りて統治せよ」と命じたら、「代わりに私の子を降ろしましょう」と言った。

その子というのは、天忍穂耳命と、高木神(タカギノカミ)の娘(万幡豊秋津師比売命:ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)との間に生まれた天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニニギノミコト:ニニギニミコト)のことだ。

アマテラスの許可を得て、ニニギノミコトが葦原中国に降りようとすると、上は高天原を下は葦原中国を照らす神が立ち塞がった。アマテラスはその状況を聞き、アメノウズメノカミに命じて問いただせと言った。アメノウズメノカミが立ち塞がる神と話すと「私は猿田毘古神(サルタビコノカミ)と申します。ニニギニミコトの先導役をつとめようとお待ちしていたのです」と言った。

ニニギは五柱(5人)の神を連れて高天原から降りることになった。アマテラスからは、勾玉と八咫鏡(ヤタノカガミ)と草薙剣(クサナギノツルギ)、が渡された。そこに三柱(3人)の神も加わって、筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に降りた。「この国は韓国(朝鮮半島)に相対して笠沙の御崎にもまっすぐに繋がっている」と感心して壮大な宮殿を作った。これが天孫降臨だ。

ニニギは、笠沙の御崎で美しい女に出逢った。これが木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)で、ニニギとの一夜の契りで子ができた。ニニギは「一夜の契りで子ができるはずがない。それは私の子ではない」と言うと、コノハナサクヤヒメは、「あなたの子であることを証明してみせる」と言って、大きな産屋を作って中に入って火をつけて炎の中で子どもを産んだ。それが火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホヲリノミコト)である。

「ニニギと神武天皇と天武天皇ってかぶってるね」
「そうなんだよ。もっと言えば祟神天皇、応神天皇、雄略天皇、継体天皇なんてと同じような話が連続してるんだ」
「だから、古事記を下敷きに日本書紀を作る際に、まだ記憶に新しい自分の祖父あたりの出来事を中国や半島の神話や歴史をごちゃ混ぜにして無理やり作った感じがするのよね」
「特に継体天皇まで、現実感がない」
「そうだね」
「面白いのは、ニニギがコノハナサクヤヒメと結ばれる時に一緒にコノハナサクヤヒメの姉の石長姫(イワナガヒメ)ももらうんだけど、イワナガヒメが醜いからって親元に返しちゃうんだよ」
「神様の子どものくせにひどい奴だね」
「そうそう」
「でもね、イワナガヒメを返して、コノハナサクヤヒメだけを選んたことが神の子であるニニギの運命を大きく変えてしまうんだ」
「運命を変える?」
「コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの父大山津見神は、イワナガヒメは、名の通りに、岩のように磐石な永遠の命という意味がある。コノハナサクヤヒメには木の花が咲き誇るように繁栄するという意味がある。イワナガヒメを返されたということは、あなたは永遠の命を捨てたことになると言ったんだ」
「それから神の子である天皇にも寿命があるようになったのよ」
「コノハナサクヤヒメとイワナガヒメというのは、天武天皇に嫁いだ大田皇女と鸕野讚良皇女(持統天皇)があてはまるね」
「うん、持統はコノハナサクヤ、大田皇女はイワナガヒよね。大田皇女は大津皇子と大来皇女を産んだあとに亡くなってしまうのよ」
「そうなんだ」
「天武天皇即位の前に母の大田皇女が死ぬでしょ? イワナガヒメが実家に返されたって話とリンクしている。686年には天武天皇も死んじゃう。そのあとに大田皇女の子の大津皇子は謀反の罪で自害しちゃうのよ」
「持統天皇にとって、自分の子の草壁皇子を次の天皇にしたいから、姉の子、大津皇子は邪魔な存在だった」
「うん。大津の親友・川島皇子の密告で謀反の罪をきせられちゃうって言うけど、実際には持統の企みだろうね」
「イメージ的には持統をコノハナサクヤ、短命で謀反者を産んだ大田皇女をイワナガヒメとしたのよね」
「でもさ、持統と大田って天智天皇の子だから、天武天皇にとっては兄の子でしょ?」
「そうそう、この時代には王族の内婚化が進んで、異母兄弟、姉妹との結婚、姉妹を同時に妻にするということが多くなるのね。異母姉妹との結婚は敏達と推古、用明と穴穂部間人皇女があるし、叔父と姪の結婚は、舒明と皇極、天武と大田皇女、持統があるね」
「げ、近親相姦じゃん」
「うーん、現代ではね。異母兄弟姉妹だからね」
「いずれにせよ、神代は、まだ当時の状況がわかる推古天皇からはともかく、推古以前の話は、まったくの創作だろうね」

つづく


「創作だとしても、その話の元が何なのかっていうのはわかるよね。それを考えるだけでも、推理小説みたいで面白い」
「ははは、そうだよね。歴史パズル…パーツはたくさんあるけれど、それをはめ込んでいく作業は、まったく推理小説的だよね。じゃあ、話を続けようよ。どこまでいったっけ?」
「コノハナサクヤヒメだよ」
「コノハナサクヤヒメは、大きな産屋を作って中に入って火をつけて炎の中で子どもを産んだ。それが火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホヲリノミコト)なんだね。ホデリはねウミヒ…」
「あ、コノハナサクヤヒメって、仲哀天皇を無視してさ、相手は武内宿禰か誰かはわからないけど、浮気して身ごもった神功皇后のようだし、ニニギがイワナガヒメを実家に返したということで永遠の命がなくなったというのは都合が良すぎるよね」

「ああ、天皇だって人間なんだから当然死ぬよ。神なのに死ぬのか?って疑問を持たれぬような都合のいい作り話はどうかと思うよね」
「何だよ、ニニギの息子たちの話をしようとしてたのに…」
「うふふ、ニニギから続くのは“海彦山彦”の話よね」
「海彦山彦って、子ども向けのお話の?」
「うん、ニニギの子のふたりのことよ。海彦はホデリノミコトで、山彦はホヲリノミコトよね」

山幸彦と海幸彦 - Wikipediaja.wikipedia.org

「さっき、俺が言おうとしたのに…」
「ホヲリノミコトは、神武天皇のお爺ちゃんに当たるのかな? 海彦山彦はね、天皇家(天孫族)と九州を統治していた隼人族との闘争を表しているとも言われるのよね。ヤマトタケルの熊襲征伐に似てる話ね」
「ふぅーん…」
「だからさ、日本書紀を初めとする六国史(りっこくし)…続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三大実録っていうのは、“都合の良い創作”なんだよ。中国や半島の国々から、さも自分たちの家系のできごとのようにパクっちゃう…。だから、少なくとも古事記と日本書紀は、史実ではないのよ。でもね、すべてが創作であっても、創作のための元ネタというのはあるはずなんだ。それを紐解いていくってのが面白いんだよ」
「六国史?」
「ソレも知らないの?あのね、日本書紀は持統天皇まで、続日本紀は桓武天皇まで、日本後紀は淳和天皇まで、続日本後紀は仁明天皇、日本文徳天皇実録は文徳天皇、日本三代実録は光孝天皇までの記録なのよ。私が読んだのは日本後紀までよ。異能くんなら全部持ってるんじゃないの?」
「持ってるよ。あそこに並んでるよ」異能が指さした本棚の一角には古事記から日本三代実録までが並んでいた。

六国史 - Wikipediaja.wikipedia.org

「壮観だね。読む気はしないけどね」
「そうかい?読んでみると漫画より面白いぜ。でも、全部、版元が違うから大きさや装丁が揃っていないのがどうもね…」
「私は読むわ。今度貸してね」
「いいよ」異能が頷いた。
「でさ、ニニギノミコトで寿命が下されて、人間らしくなったじゃん」
「でもね寿命ができたからっていっても、まだ人間らしくないのよ」
「どうして?」
「寿命が不自然なのよ。神武天皇が即位したのは紀元前660年なの。その頃は縄文時代だからね。出鱈目なのね。そのために天皇家の歴史を神武の即位年まで遡らせて帳尻を合わせなければならなくなっちゃったのね。アマテラスから続く神の血を受け継ぐ天皇としては、なんとしてでも万世一系を証明しなければならなかったのね」
「だから神武以降の欠史八代を水増ししなければならなかったんだ。神武以降の綏靖(スイゼイ)、安寧(アンネイ)、懿徳(イトク)、孝昭天皇(コウショウ)、孝安(コウアン)、孝霊(コウレイ)、孝元(コウゲン)、開化(カイカ)…の天皇に関しては、日本書紀に簡単に記載されているにすぎない。詳細は書かれていないんだよ。胡散臭いんだ。この八代の天皇に関して、史実を語れないことから「欠史八代」と呼ぶこともあるんだよ」

欠史八代 - Wikipediaja.wikipedia.org

「神武は古事記で127歳、書記では137歳で死ぬの。綏靖、安寧、威徳は現代の寿命のような感じで、まあまあだけど、孝昭は古事記で93歳、書記では114歳、孝安は同じく123歳、137歳、孝霊は106歳、128歳、以降の天皇も100歳以上生きてるの。八代に続く崇神天皇なんか古事記では168歳まで生きてることになっているのよ」
「スゲー」
「それにさ、神武から欠史八代に関しては、「父子間での皇位継承(譲与)」されているんだけど、後世の雄略天皇の世代なんかでは「兄弟間での皇位継承が普通」になっているんだ」
「でもね、古事記や日本書紀が編纂された時代には、律令法典が整えられて、父子間での皇位継承が奨励されるようになるのよ。そのため、欠史八代の時代には兄弟間継承であるはずなのに、父子間継承となっているのは不自然だと言われているのね」
「皇位継承も不自然だというわけだ」
「そうだね」

つづく

「ほら、異能くん、邪馬台国から離れちゃったじゃない」治子がため息をついた。
「自分だってあんだけノって話していたじゃないか?」異能がふくれっ面をすると、治子が舌を出して笑った。
「コノハナサクヤヒメとイワナガヒメの例は、天武天皇の奥さんとなる鸕野皇女(うののひめみこ)は、と太田皇女(おおたのひめみこ)だと思うんだ。ウノノヒメミコは、のちの持統天皇だ」
「このふたりは天智天皇の娘なのよ」
「へえ。兄弟…といっても養子ってことだけどね」

「ウノノヒメミコは、斉明天皇三年(657)、13歳の時に姉のオオタノヒメミコと一緒に大海人皇子(天武天皇)に嫁いだ。当時は血を絶やすことがないように姉妹で嫁ぐのは珍しくなかった。オオタノヒメミコは大津皇子(オオツノミコ)を産み、ウノノヒメミコは草壁皇子(クサカベノミコ)を産んだ…」

「ウノノヒメミコはコノハナサクヤで、オオタノヒメミコはイワナガヒメというわけだ」
「ウノノヒメミコは、父である天智天皇に義父を粛正され、天智が死んだ(天武による暗殺説あり)あとに兄の大友を夫である天武天皇に殺された」
「壬申の乱ね」
「オオタノヒメミコは天智存命中に死に、ウノノヒメミコは天武が死んだあとに持統天皇になるが、オオタノヒメミコの子であるオオツノミコを粛正してしまう」
「そうなんだ」
「自分の息子の方が可愛いでしょ?」
「でも、クサカベノミコは27歳で死んでしまう」
「そのあとは?」
「持統のあとは、クサカベの息子である文武、元明(クサカベの妻・女帝)、元正(クサカベの娘・女帝)、聖武(文武の息子)、孝謙(重祚して称徳、聖武の娘)と続くけど、次の光仁天皇(大友皇子・弘文天皇の息子)から天智天皇の濃い血統に戻るんだ」
「天武がウノノヒメミコを選んだゆえに、半島からの養子である天武天皇の血が孝謙天皇で途絶えてしまう…それをコノハナサクヤとイワナガヒメの話に充てたんじゃないかな?」
「なるほどね。本当の永遠の命という話ではなく、血統の話なんだね」
「僕はそう思うんだ」
「私も同じよ」
「気が合うね」
「邪馬台国は?」
「ああ、忘れていた」

つづく

参考資料:「歴代 天皇・皇后総覧」(新人物往来社)、「集英社版 日本の歴史 古代王権の展開」吉村武彦(集英社)、「らくらく読める古事記」島崎晋(廣済堂出版)、「日本書紀 上・中・下」山田宗睦 訳(ニュートンプレス)、「歴史のなかの天皇 吉田孝」(岩波新書)、「日本の古典をよむ(3) 日本書紀 下 風土記」(小学館)、「詳説 日本史研究」(山川出版社)

「少し、日本列島の成り立ちについて見てみようか?」
「その方が邪馬台国について理解が深まるかもしれないわね」
「おい、おい、まだ話が長くなるのかよ、出雲説はどうなったんだ?」
「出雲説については結果が出ているじゃないか。半島から渡ってきた弥生人が、日本先住民である縄文人の領土を奪った。そのひとつの出雲の国…かなり規模の大きなものだったと言われているんだけどね、それが出雲の国譲りとして描かれているというわけさ」
「2世紀後半に倭国大乱ってのが起きるんだ。これがオオクニヌシが高天原から降りてきたタケミカヅチ軍に降伏した…」

タケミカヅチ

「あ、高天原は朝鮮半島のことね。現実のできごとを正当化しようと神話のような話にした」
「うん。はなから神話のような話にしたんじゃなく、あれが現実であると主張しているんだよ。天皇の祖先は神であるってことをね」
「不老不死の神が下界に降りてきて、寿命のある人間になったってこと? そんなおかしな話を信じるなんてね…」
「そう思うだろう?でも、現代でも人間を生き神様だって崇めているおかしな人間たちがたくさんいるんだから」
「人間って愚かよね」
「オオクニヌシの国譲り物語は、倭国大乱を表したものってわけだね」
「ちょっと、倭国大乱って?」
「2世紀後半に日本で起きた内戦の事よ。近畿から瀬戸内の広範に起きたとか、ヤマト朝廷と出雲との戦いであったとか言われているのよ」
「中国の史書には2世紀の後半に大規模な争いが起きたと書いてあるんだ。実際に瀬戸内海の丘陵部には監視所や狼煙をあげるために作られた高地集落が点在しているのさ。それに当時の時代のものと思われる人骨には金属製の武器によって傷つけられた痕があるんだ」
「紀元前1世紀頃には日本各地に100ほどの国があったらしいのよ。それで、原因はわからないけど、ちょこちょこ争いが起きていたんだけれど、遂に大戦争になったってわけよ。で、勝利者が国を統治していくのね」
「戦国時代だね」

1998年から約3年にわたって鳥取県の青谷上寺地遺跡を調査した際に、100人以上の人骨が約5300点も出土し、そのうち110点には武器によって傷つけられた痕があった。これは大量殺戮の跡だと思われている。これによって倭国大乱は近畿から瀬戸内地方の争いと思われていたのが、大規模な集落の跡がある出雲とヤマト政権との戦いであったのではという可能性も出てきたのだ。

「じゃあ日本の成り立ちについて説明するわね」

約4万年前、当時は氷期だったために海水面は下降していて、ユーラシア大陸と日本は陸続きだった。ナウマンゾウやその他の動物たちが大陸から移動してくると、それを追って日本人の祖先たちがやって来た。

*氷期:氷河時代の中で、比較的寒冷と温暖な気候が時間的間隔をおいて繰り返し訪れるうちの寒冷な気候期。

日本人の祖先が日本に到達した経路には、
①シベリア方面からサハリン経由で北海道へ入るルート、
②朝鮮半島から対馬を経由して船で九州北部に入る対馬ルート、
③中国大陸から台湾や沖縄諸島を経由して船で北上する沖縄ルートの3つがある。縄文人は、主に北のサハリンから朝鮮半島からやってきた人びとが交わってひとつの民族を形成したとみられている。

「縄文時代から上下の位が形成されていたということか?」
「うん、だからホツマツタエが伝えるように縄文時代に」

縄文時代は1万年も続いた。気が遠くなるほどの時間だ。縄文時代は「平等で平和に暮らしていた時代だった」というイメージだが、縄文時代の墳墓から発掘された副葬品によって、「上下格差があった」と推測されている。

弥生時代になってから稲作が始まったと思われていたが、近年では縄文時代の中期~末期には稲作技術が伝わってきたということもわかってきた。

稲作は約1万年以上前に中国の長江下流域で始まった。その技術が朝鮮半島経由して、あるいは中国から海を渡って直接南西諸島を経由して伝わったものだと思われていた。それが近年の調査では約3000年前に九州の北部で始まり、それが600年ほどの時間を経て本州全体に伝わったとみられる。

つづく

稲作は約1万年以上前に中国の長江下流域で始まった。その技術が朝鮮半島経由して、あるいは中国から海を渡って直接南西諸島を経由して伝わったものだと思われていた。それが近年の調査では約3000年前に九州の北部で始まり、それが600年ほどの時間を経て本州全体に伝わったとみられる。

「日本の稲作は、3000年ほど前に始まったと言われているの。それから600年ほどかけて日本全土に広まったらしいわ」

治子が自分が書いたノートを見ながら言った。異能は感心するように頷いている。異能は治子に隷属された縄文人のように見えた。

福岡県の板付遺跡、佐賀県の菜畑遺跡などの縄文後期の遺跡から水田稲作を示す遺構が発見されている。そのほかにも岡山県の南溝手遺跡からは縄文、後期の籾殻が付いた土器片が発見され、さらに同県の朝寝鼻貝塚から約6400年前の稲のプラント・オパール(植物珪酸体 しょくぶつけいさんたい)が出土している。

植物珪酸体: 植物珪酸体は、 植物の細胞内に蓄積される珪酸分で、 一部の植物に形成されるが、 特にイネ科において顕著 にみられる。 種類によって、 特徴的な形態のものが存在するので、 当時のイネ科を中心とした (他の分類群も一 部判別可能) 植生復元に有効である。 珪酸質なので、 花粉化石などが残りにくい土壌でも残る。 このため、 低 湿地堆積物以外に、 ローム層や黒ボク土などの風成層、 遺構内の焼土や灰、 土器胎土にも残存し、 当時の植 生や植物利用に関する情報を得ることができる。 植物珪酸体分析は、 稲作の消長に関して分析を実施することが 多いが、 他のイネ科や一部の樹木についても同定可能なため、 草原植生および照葉樹林などの森林植生の復原 にも応用される。 当社では、短細胞珪酸体、機動細胞珪酸体の両方を同定対象とすることにより、同定精度を高め、 より多くの分類群の検出に努めている。

パリノ・サーヴェイ株式会社サイトPDF

パリノ・サーヴェイ(Palynosurvey)www.palyno.co.jp

九州に伝来した稲作技術は、弥生時代前期に東北地方の方にも伝わったようだ。青森県の砂沢遺跡、高柳遺跡、清水森西遺跡からは弥生時代の炭化米が発見されている。

炭化米発見の最北地更新~弘前市清水森西遺跡の発掘調査について~ - 弘前大学炭化米発見の最北地更新~弘前市清水森西遺跡の発掘調査について~ 。教育、研究、地域、学生生活、国際、イベント、受賞・表彰・www.hirosaki-u.ac.jp

2400年ほど前日本は弥生時代になる。狩猟採取の食文化が農耕を中心とする食に変化したのだ。

弥生時代の社会は、農耕中心の食生活によって大きく変化した。農耕には人手が必要だ。水田を耕作するには多くの人たちの共同作業となるために自然と集落ができて、そのうちに集落をまとめる首長が現れる。

すると、食糧や水、土地などの争いが生まれる。それが人間の本能だ。すると、集落の周囲に壕を作って外敵の攻撃を防ぐ環壕集落が生まれた。佐賀県の吉野ヶ里遺跡、福岡県の板付遺跡、大阪府の池上曽根遺跡などが環壕集落だ。

次に集落の中でも力を持った集落が周辺の集落を統合させて小国を作る。中国の魏志倭人伝に邪馬台国までの国々として記録されている末盧國、伊都國、投馬國などがそうだ。

小国が形成されると争いの規模は大きくなり、やがて倭国大乱に至るのだ。

「偽書」

「この縄文時代から弥生時代っていう日本形成の経緯が、古事記の神話や日本書紀の神代になるんだね」
「書紀の神代だけじゃない。神武天皇から推古天皇まではどうも怪しい」
「ごめん。忘れてたけど“先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ)”ってのがあったわ」
「あ、古事記同様に推古天皇までを記録したものだけど、江戸時代に水戸光圀や本居宣長なんかが偽書と判断したんだよね。残念ながら僕は読んだことがないんだ」異能が頭を掻きながら照れくさそうに笑った。何だか悔しそうだ。そりゃそうだろう。自分で博学とは言わないが、これだけの本の中にその本がないのは凄く悔しいんだろう。
「先代旧事本紀?」
「蘇我馬子が序文を書いている史書でね、平安時代の初期に成立したものらしいわ。実は私も概要しか知らないの」治子が自分のノートを見ながら言った。異能はホッとした表情をしている。プライドが少しだけ修正されたようだった。
「日本書紀の成立が720年だから、そのあとになるわね。物部氏の記録が多く、物部の正当性を主張したかったのかしら?」
「聖徳太子が編纂したと言われる先代旧事本紀大成経ってのもある」
「内容は知らないけど、確か伊勢神宮の別宮・伊雑宮(いざわのみや)が“伊雑宮”が主宮であると主張したことから、伊勢神宮の内宮・外宮が幕府に訴えて、結果的に江戸幕府が偽書としたものでしょ?」
「ふーん…。しかし、ホツマツタエのような記録書がたくさんあるんだね」
「結局、古事記と日本書紀以外は偽書とされちゃうけどね」異能が笑った。
「でも聖徳太子に絡んだ記録書が多いような気がするね」
「悲劇の皇太子だからね。実在したかどうかは知らないけれどイエスキリストのようなイメージ扱いされてるわよね」
「聖徳太子の子の山背大兄王とその兄弟もね。蘇我入鹿に殺されたようなものだ。悲劇の一族だね」

「先代旧事本紀は、神代から天孫降臨、ニニギに神武って経緯が描かれてるんだね。今、気がついたんだけど、偽書って言われる記録にも、古事記にも卑弥呼が出てこないよね」
「日本書紀では神功皇后をそれらしく充ててはいるけれど、違うよね。大体、神功皇后の存在自体怪しいしね」
「古事記は712年に元明天皇に献上され、日本書紀はそれから8年後の720年に完成するの。現存するものはかなり手が加えられているから、それぞれの時代に都合が良い内容に改編されているんでしょうね」
「だから古事記と日本書紀の内容の違いに違和感があるんだね」
「古事記を作ったあと、中国の歴史書に倭人伝があることを知り、それには卑弥呼が3世紀の人間であると記録されていて、慌てて日本書紀に神功皇后を卑弥呼のように充てたのかもしれないね」

「いい加減だね。古事記や日本書紀から邪馬台国を推定するのは無理じゃないか」
「そうなんだけど、記紀と倭人伝から想定していくほかないんだよな」
「そこで、出雲なんだけどね…」
「ああ、忘れてた」異能が治子をからかうように笑った。
「古事記の中でも出雲について記録されているのは約3分の1にもなるのよ。だから古代における出雲は重要な存在だったのね。だから出雲には邪馬台国があったと思うのよ」
「当時は、出雲(島根県)のほかに、筑紫(福岡県)、日向(宮崎県)、吉備(岡山県)、毛野(群馬県と栃木県)、科野(長野県)、常陸(茨城県)といった地方の豪族が存在していて、畿内のヤマト王朝に従属していなかったんだろうね」
「ふーん。この群馬にも豪族が存在していたのか…」
「そうだよ」
「地方豪族の中でも出雲に関する記録が多いのには理由があるからなのよ」
「ヤマト政権は、5世紀以降に畿内(奈良、大阪周辺)から全国各地に勢力を拡大させていき、それぞれ支配下に置いて、それら豪族の歴史まで奪ったんだと思うんだ」
「古事記って各地の豪族の歴史によって創作されているって言うんだね。それを元に日本書紀を作った」
「そうそう」
「でも、各地に豪族が存在したっていう証拠はあるのかい?」
「しょうがないわね、たとえば宮崎県には西都原古墳、岡山には造山古墳、群馬には太田天神山古墳っていう大きな古墳があるのが何よりの証拠じゃない」
「この群馬に古墳があるの?知らなかったよ」
「毛野、つまり、ここら辺には先住民がいたんだけれど、西から移住してきた渡来系の人間たちが先住民を追い出して地方豪族となったと考えられているんだ」

つづく

「出雲の国盗りの際にオオクニヌシが、“国を譲るかわりに、高天原の大御神の御殿のような高く大きな神殿を建てていただきたい”って言ったじゃない?」
「うん」
「それが出雲大社だと言われるんだけどね、今は24メートルなのよ」
「デカイね」
「出雲大社の伝承には、かつて48メートルもあって、もっと前には96メートルもあったって言うのよ」
「すげぇな。ゴジラみたいだね」

古代・出雲大社本殿の復元|大林組の広報誌「季刊大林」季刊大林は、建設文化に関わる情報を周辺文化と共に紹介する大林組の広報誌です。www.obayashi.co.jp

「ゴジラは50メートルだろう? ゴジラより大きいよ」

*ゴジラは16作目で80メートルに設定され、現在では100メートルを超えた体長に設定されている。近年の高層ビルや超高層ビルの影響だ。

ゴジラがこの四半世紀で50mも「身長が伸びた」ワケ(週刊現代) @gendai_biz今年で65周年となる『ゴジラ』シリーズ。その1作目となる『ゴジラ』は特撮の黎明期に撮られた作品だ。劇中でのゴジラの身長は「gendai.media

「だからさ、しつこく言うように天智、天武天皇の頃の出来事を、もっともらしい話に創作するしかないのよ。いくら天皇家だからって遠い昔のことなんか記録しているわけないんだからさ」
「神代も同じような話を繰り返して、いい加減だしね。だいたい、神武天皇の即位を紀元前660年と設定するから、つじつま合わせで滅茶苦茶な内容になるのよ」
「中国の三国志(魏志倭人伝)にある卑弥呼の記事が確かであれば、古事記や日本書紀の継体天皇以前の記録がまったくの創作であることがわかるね」

その国は、もとは男子を主としたが、七~八十年ほど前、倭国が乱れ、何年もお互いに攻め合ったので、諸国は共に一女子を立てて王とした。これを卑弥呼という。彼女は神がかりとなり、おそるべき霊力を現した。すでに年をとってからも、夫をもたず、弟がいて、政治を補佐した。王となってから、彼女を見たものは少なく、婢千人をその身辺に侍らせ、ただ一人の男子が飲食を給し、女王の言葉を伝えるのに居処に出入りした。宮殿・物見櫓・城柵などは厳重に設けられ、つねに兵器をもった人々がこれを守衛していた。

弥生ミュージアム 魏志倭人伝から

「古事記や、日本書紀の神代というのは神話文学なんだよ。これは世界共通のことさ。同じような話を何度も繰り返して不完全ではあるけれどね」
「でもね、倭の五王ってのがあるじゃない?」
「何? 倭の五王って…」
「しょうがないわね。よいしょっと…」治子がコタツの中で胡座をかいたようで、異能はコタツの中を想像しているのか不思議な笑いを浮かべている。
「何?異能くん…倭の五王について説明したいの?」
「あ、へへへへ。違うよぅ」異能は、スケベエな本心を誤魔化すため変態のような笑い方をした。きっとコタツの中に頭を突っ込んで、胡座をかいて丸見えになっている治子のパンティが見たいのだろう。でも、それはやめたほうがいいと思う。
「異能、我慢しろ」と思わず声に出してしまった。
「え、何を我慢するの?」治子が首を傾げた。
異能を見ると真っ赤な顔をして必至に我慢しているようだ。博学とスケベエが同居した不思議な男だ。治子もそれに気づいたようだ。
治子は異能を睨みながら「じゃ、私が説明するわ」と言って説明し始めた。

倭の五王とは、中国の史書に記録されている5人の王(讃・さん、珍・ちん、済・せい、興・こう、武・ぶ)のことで、神武天皇を紀元前660年として中国の史書と日本書紀を比較して考えると、五王に該当すると思われるのが、讃は応神(15代)、仁徳(16代)、履中(17代)。珍は仁徳、反正・(18代)。済は允恭(19代)。興は安康(20代)。武は雄略(21代)と考えられる。

鉄剣・鉄刀銘文 - Wikipediaja.wikipedia.org

1968年に埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された稲荷山古墳出土鉄剣(金象嵌)には「獲加多支鹵大王」と刻まれており、21代の雄略天皇から贈られたものであるということが有力視されている。辛亥年と刻まれていることから辛亥年は471年が定説だが、一部には531年説もある。471年であれば雄略天皇、531年であれば安閑天皇となる。安閑は66歳で即位し、僅か4年で崩御してしまう。次の宣化天皇も69歳で即位し、同様に4年ほどの在位であり、鉄剣に刻まれるほどの力があったか疑問である。

ただし、安閑の父・継体天皇が崩御したと推定されるのは、鉄剣に刻まれた年の531年であり、もしかしたら継体から贈られたものかもしれない。

また1970年代に千葉県市原市の稲荷台1号古墳から発見された王賜銘鉄剣(銀象嵌)には「王賜□□敬□(安)」、裏面に「此廷□□□□」と刻まれており、一緒に収められていた鋲留短甲と鉄鏃の形式から5世紀中期のものと推定されると、鉄剣は19代の允恭天皇から贈られたものと考えられている。

2本の剣は、王(天皇?)から賜った鉄剣であることから、雄略、允恭の実在性が高くなったのである。

「倭の五王の実在は確かなのよ。そこに日本書紀があるからね。それから倭の五王を推定しちゃうと、推古天皇以前の天皇も実在したと思われるのね」
「日本書紀が創作であるとしたら、それに無理矢理推定する必要もないけどね」
「うん、私は倭の五王が存在した倭の統治国家と、継体天皇以降の天皇家があったと考えているわ」
「古事記に描かれる国家と日本書紀に描かれる国家は違うというわけだ」
「そうそう」

つづく

「王賜」銘鉄剣|市

「異能君は、九州説よね」
「そうだよ」
「魏志倭人伝の行程はどう考えるの?」
「魏志倭人伝を書いた中国の歴史家・陳寿(1)は、日本に来たことがないと言われているね。歴史家ってのは基本は資料と情報集めだからね。実際に倭国に来た人間たちから聞いたことを記録したものとすれば、行程の距離や時間は正確ではないんだ」
「うん、それはよく言われているね」
「だからといって、まったくの出鱈目と言うのは尚早さ。後世の人間は与えられた情報から推測するしかないよね」と言いながら異能は九州の地図を開いて見せた。

(1)陳寿:中国、晉の歴史学者。字(あざな)は承祚(しょうそ)。三国の蜀に仕え、蜀滅亡後、晉の張華に認められて著作郎(記録者)となり、「三国志」を編集した。「三国志」中の「魏志倭人伝」は、2~3世紀の日本を知る資料として重用されている。

コトバンク 精選版 日本国語大辞典

魏志倭人伝 | 弥生ミュージアム佐賀県にある吉野ヶ里歴史公園です。吉野ヶ里が弥生時代に起きた歴史をエピソード形式に説明いたします。www.yoshinogari.jp

「ええっと…対馬から一支国、末盧國、伊都国、奴国、不弥国、投馬国…と進んで……それから邪馬台国に至るんだ。
一支は壱岐島、そこから九州に上陸する。末盧国は、今の長崎県松浦市、伊都国は福岡県の糸島、奴国は福岡市、不弥国は飯塚市、投馬国については、よくわからないけれど行橋市…とかね」
「ふーん、福岡県を横断するってことね?」
「うん」
「でも、倭人伝の行程としてはおかしいわね」
「へへへ、まあ、慌てない慌てない。たとえばってことさ。実は投馬国ってのが福岡の行橋辺りじゃないと困るんだ」
「何で?」
「ふふふ、それが肝なのさ。邪馬台国へは投馬国から水行十日・陸行一月”とあるよね」
「うん」
「時間や距離の感覚は今とは違うんだけれど、投馬国からの行程となる水行10日、陸行1ヶ月という“長距離”という印象から、九州に上陸したあと、中国地方に渡って、吉備、難波、大和(奈良)って進む畿内説が多いんだね。何しろ邪馬台国と大和って音も似ているし、奈良には卑弥呼の墓だと言われる箸墓古墳もあるからね」
「うん」
「だけどね、そうだな…。例えば治子ちゃんは、いつ敵になるかもしれない奴に素直に自分家(じぶんち)を教えるかね?」
「教えるわけがない」
「でしょう?それでさ、そいつに尾行されたとしたらどうする?」
「できるだけ遠回りしたり、友達のところに泊めてもらったり、最終的には警察に駆け込むかな?」
「邪馬台国へ先導する人間も同じだよ。邪馬台国の場所が特定できないように遠回りして魏志たちに目眩ましをしたのさ」
「あ…」珍しく治子が驚いた表情をした。
確かに侵略される敵になるかもしれない相手を正直に自国に容易く案内する奴はいない。
「でね、まずは投馬国から船に乗って国東半島を経て宮崎県の方向に回り込んで、そのあと九州の南側の宮崎に上陸した。これが水行10日」
「なるほど」
「それから歩いて内陸を1ヶ月かけて、また邪馬台国がある福岡県に戻っていくのさ」
「邪馬台国は福岡県にあるってこと?でもさ、目眩ましといっても宮崎まで行く必要はないんじゃないの?」
「宮崎には高千穂峡があり、福岡に戻る途中には阿蘇山があるね」
「それがどうしたの?」
「魏志を案内する人間は、珍しい高千穂や阿蘇山を見物させながら邪馬台国に向かうのさ」
それを聞いて治子が大笑いした。
「観光させたってことね。目眩ましだけじゃなくて観光のための陸行一月ね。面白いね。そういう説って初めて聞いたわ。確かにそれはあるかもしれないわね。で、邪馬台国はどこなのよ?」
「福岡県の山門郡(現・柳川市あたり)さ」

つづく


「井上皇后、他戸皇子の謀殺」

第49代天皇は光仁天皇。前の天皇・称徳女帝(天武天皇の血筋)には跡継ぎがなかったために、本来では天皇になれる立場にないが、藤原一族が結束して強引に62歳という高齢で立太子させ、2ヶ月後に即位させた。これで天皇は天武系から天智系に還った。

藤原一族が光仁を推したのは、第45代天皇・聖武天皇の皇女・井上内親王を皇后とし、他戸(おさべ)皇子をもうけていたからだ。高齢の光仁のあとに他戸皇子を即位させて、一族の地位を盤石のものとしたかったからだ。しかし、藤原北家(藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。 藤原四家の一つ。 藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来)の永手(ながて)が死に、井上内親王と他戸皇子の後ろ盾がなくなった。

宝亀3年(772)井上皇后が天皇を呪詛したという疑いをかけられて、他戸皇太子ともども皇后、皇太子を廃されてしまった。

代わって皇太子になったのが山部親王(やまべのしんのう・桓武天皇)だった。藤原式家(藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した)の良継の娘を妃としていることから、山部擁立のために井上皇后、他戸皇太子にあらぬ嫌疑をかけた謀略だと言われている。井上皇后と他戸皇太子は、ともに身分を庶人(平民)に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、775年4月27日、幽閉先で他戸親王と同日に死亡した。不自然な死には暗殺説や自殺説もある。

その山部親王が第50代天皇・桓武天皇。平氏の始祖でもある。

「早良親王の怨霊」

天応元年(781)光仁天皇が風病(風の気にあたって発症すると言われていた病)と高齢を理由に退位し、山部親王(桓武天皇)に譲位した。さらに当時、出家していた山部の弟の早良親王を皇太子に立てた。

桓武天皇は、藤原乙牟漏(ふじわらおとむろ)を皇后に迎え。藤原旅子、坂上又子(さかのうえのまたこ)、藤原吉子(きつし)を夫人とした。乙牟漏との間には安殿親王(平城天皇)、神野親王(嵯峨天皇)が生まれ、藤原旅子との間には大伴親王(淳和天皇)が生まれた。

延暦4年(785)の深夜、桓武の寵臣で長岡京造営の中心人物だった藤原種継が暗殺される事件が起きる。

桓武天皇は長岡京への遷都を考えて種継に長岡京の造宮使を任せていた。しかし、種継の暗殺により、事件に関与した大伴継人、佐伯高成、多治比浜人、大伴真麿、大伴竹良らを斬刑。事前に暗殺計画を打ち明けられていたという早良親王も幽閉された。早良親王は幽閉中に絶食を続け、淡路島に流刑移送中に死んだ。

暗殺事件の首謀者とされた大伴家持は、既に一ヶ月前に死んでいたが、葬ることも許されなかった。一説では家持は陸奥国の多賀城で死んだとも言われており、事件とは無関係とも言われる。

天皇が藤原種継を信頼し、大伴氏の立場が弱くなったことから、種継を暗殺したと言われるが、真相はわからない。

早良親王が死んだあと、立太子した桓武の子・安殿皇太子(平城天皇)は病気がちになり、夫人の藤原旅子、生母の高野新笠、藤原乙牟漏が続けて死んだ。また、洪水や悪疫も流行した。桓武天皇は「早良親王の怨霊の仕業」と考えて、早良親王が葬られた淡路島の墓に勅使を送って、早良に「崇道天皇」を追号した。さらに早良の骸を大和国八島に改葬するなど鎮魂を繰り返した。

天皇家の血の歴史は、井上皇后、他戸皇子、早良親王に限ったことではない。神代からの兄弟間争い、天皇家最大の汚点とも言うべき武烈天皇の異常な残虐行為。そして蘇我馬子による崇峻天皇の暗殺など、天皇を利用して権力を掌握しようとした物部、蘇我、大伴、藤原などの権力者たちによって血で血を洗う抗争を繰り返してきたのである。

第60代天皇の醍醐天皇(在位は延喜年間)は、のちの第62代天皇・村上天皇(在位は天慶年間)とあわせて「延喜・天暦の治」として天皇の権威を見せつけた皇室政治を行なったことから、聖代として、後世で高く評価されました。しかし、当時は国家の社会的統制力が弱まっていた時期であり、皇室政治を実施していたかどうか疑問の声もあります。

突然ですが天皇とは何者なのでしょう?

そもそも天皇は、天孫降臨などという超自然的な事象から生まれ出たものではなくて、気候や天変地異を抑制するための呪術師であったと思うのです。そして、その呪術儀式は、新嘗祭などによっていまだに続いているのです。無論、天皇は気候変動を行える超能力者でもありませんから、強いて言うなら神社のお祓いのようなものを行なう人です。

もともと、そういったものに免疫のない一般市民は、ITに席巻される現代になっても、まじないや祟りなどの超自然的な事象を信じやすいのです。古代には、その呪術的な儀式を神格化して、それを物部、蘇我、藤原などという豪族が権力掌握のために利用してきたというわけです。

特に藤原氏は、長期にわたって権力掌握を行なってきた一族です。

まずは中大兄皇子(天智天皇)を、そそのかして、それまでの権力者であった蘇我氏を乙巳の変によって粛正して実権を握った中臣鎌足(藤原鎌足)以降、天皇を実質隷属させてきたのです。

天皇は国の象徴ではなく、権力の象徴だったのです。

醍醐天皇の父・宇多天皇は、藤原氏の権力に疑問を持っていました。そこで菅原道真を起用して藤原氏の力を弱め、天皇による政治を実現しようとしたが、在位時には実現できませんでした。しかし宇田が醍醐に譲位してからは、醍醐の影で藤原氏の排除を狙っていました。

醍醐の即位から3年の昌泰2年(899)2月14日に藤原時平は左大臣、菅原道真は右大臣となりました。醍醐即位時の公卿は、藤原氏が5人、源氏が6人、皇族ひとりに菅原道真という顔ぶれでした。道真の起用は宇多天皇の差し金でした。

代々、学舎の家に生まれた菅原道真は、文章博士・式部大輔(しきぶのたいふ:式部省の上位者。式部省は今の文部科学省)をつとめていました。エリートということですが、それに妬む人間も多くいて、文章博士・式部大輔から讃岐守に落されてしまいます。しかし、臆することなく本来の力を力を民政に発揮して、遣唐大使、中納言、大納言を経て右大臣となります。

道真は、宇多天皇に戒めるなど、臣下の中でも大きな力を持っていたようです。面白くないのは左大臣の藤原時平です。当時、道真の娘が天皇の弟・斉世(ときよ)親王に嫁いでいたことから、時平は、醍醐天皇を失脚、斉世親王を即位させて権力掌握を狙っていると讒言(対象者を陥れるために出鱈目を伝えること)します。

その結果、昌泰4年(901)、道真は太宰府に左遷され、道真の息子4人も流刑に処せられてしまうのです。これを「昌泰の変」と言います。道真は左遷された2年後の延喜3年(903)に太宰府で失意のまま死んでしまいます。

「道真の怨霊」

道真の死後、都には、たて続けに異変が起こります。

讒言で道真を失脚させるきっかけをつくった藤原菅根が、延喜8年(908)に病死。道真失脚後に意欲的に政治改革を始めていた時平も、延喜9年(909)に39歳で死にます。醍醐天皇は「道真の左遷」を後悔します。道真に対して贈位などを繰り返しますが、発病してしまいます。

醍醐は息子の保明親王を跡継ぎと予定しますが、その保明親王も延喜23年(923)に20歳で亡くなります。保明親王の死後、保明の第1王子で、時平の外孫であった慶頼王(やすよりおう)が皇太子に立てられますが、2年後の延長3年(925)に5歳で亡くなってしまいます。

延長8年(930)6月26日に平安京の清涼殿に雷が落ち、多くの死者が発生しました(*清涼殿落雷事件 せいりょうでんらくらいじけん。下記参照)。それを都の人びとは「道真の祟り」と噂します。

藤原菅根、藤原時平が死ぬのは、道真が死んだ年の延喜3年(903)から、5年後、6年後のことです。醍醐の息子たちが死ぬのは、道真の死から20年あとのことであり、清涼殿落雷事件も、醍醐が死ぬのも道真が死んでから24年経ってからのことです。これを菅原道真の怨霊によるものなのかは、甚だ疑問です。

*清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)Wikipedia参照

延長8年(930)6月26日に、平安京・内裏・清涼殿に落ちた雷による小規模災害です。この年、平安京の周辺は干ばつで、6月26日に“雨乞い”実施を行なう是非について醍醐天皇のいる清涼殿で太政官会議が行なわれることになっていました。

その日、午後1時頃より愛宕山(京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある山)の上空に黒雲が発生し、そのまま平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎます。それから約1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷。

この時、その周辺にいた公卿・官人たちが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫の衣服に引火し、さらに胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。清貫は陽明門から、希世は修明門から秘かに外に運び出されましたが、希世もほどなく死亡します。

落雷は隣の紫宸殿(ししんでん)にも流れ、右兵衛佐・美努忠包が髪を焼かれて死亡。紀蔭連は腹を焼かれて、安曇宗仁は膝を焼かれて立てなくなりました。さらに警備の近衛兵も2名死亡してしまいます。

惨状を目の当たりにした醍醐天皇は、体調を崩して3ヶ月後に崩御してしまいます。

延長8年(930)醍醐天皇の危篤を受けて、寛明親王(第61代天皇・朱雀天皇)に践祚(せんそ)、7日後に醍醐が崩御すると、朱雀が(8歳・滿7歳3か月)で即位します。

その朱雀天皇時には、多くの天変地異が発生しただけでなく、天下を揺るがす大きな事件が続けて起こります。それが「承平の乱(平将門の乱)」「天慶の乱(藤原純友の乱)」でした。



「異能くんの邪馬台国が九州の山門郡だというのはよくわかったわ。邪馬台国の場所を目眩ますために、中国からの魏志を連れて、邪馬台国の山門郡周辺を逸らして通り過ぎ、国東半島辺りからわざわざ船に乗せて航行、今の宮崎に上陸し、そこから陸路を北上、高千穂や阿蘇山など、いくつかの観光地を経由して山門に戻る・・・というのは凄く面白い」治子が本気で感心している。



つづく



「ありがとう。でも、実は邪馬台国の場所なんかどうでもいいんだ。九州では佐賀県の吉野ヶ里、宇佐神宮など邪馬台国の候補地はたくさんあるからね。九州であればどこでもいいんだよ。いや、九州じゃなくても良い。邪馬台国なんて出雲でも大和でもどこでもいいんだ」

「あらら、乱暴だね」治子が笑った。

「半島から渡来した弥生人たちが先住民の縄文人を東へと追いやり、もしくは従順な者を混血化させて九州王朝を作った。その九州王朝が邪馬台国だと信じているけれど、そこにだよ、攻撃されたら絶対に敵わない当時の支配国(?)の魏志たちを素直に連れて行くわけがない。わざと遠回りさせて邪馬台国に連れて行くって目眩ましに変わりはないのさ」

「なるほどね」

「でもさ、気になることがあるんだけど・・・卑弥呼って天照大神のことなの?」

「稗田君のように歴史無知の人には気になるよね」治子が笑った。悪意はない笑顔だ。

「えええ、無知って言うなよ」

「あははは」治子が大口を開けて笑った。

「九州王朝と大和朝廷って一緒にしちゃだめだと思うよ」

「ああ、奈良周辺と九州北部じゃ遠過ぎるよね」

「距離の問題じゃないんだ。騒乱が多かった朝鮮半島から渡ってきた移民たちが九州に定住して九州王朝を作ったと思うんだけれど、そこの女王が卑弥呼ってことさ。そこにあとからやって来た移民たちは追い出されたとか、王朝の中で差別されたとかで、九州から近畿を目指した人たちだと思うんだ」

「九州から追い出された人たちが、難波~奈良の広大な地域に大和朝廷を作るんだね」

「それが天皇の祖先というわけだ。ところが、先に集落を作っていた吉備(岡山)や難波(大阪)など各地に集落を作っていた豪族ってのが存在していて、それらと戦いながら、ようやく大和に辿り着く・・・」

「大変だね。でも何故、大和なのかね?」

「弥生時代から古墳時代には、大阪には平野がなくて、海から河内湖っていう巨大な湖に行き着くんだ。だから戦いながら船を進めて行き着いた先が今の寝屋川あたりで、そこから陸路を奈良まで進めたんだろうね」

「うん、奈良には集落を作りやすかったんだろうね」

「でさ、治子ちゃんの邪馬台国出雲説は?」

「魏志倭人伝の水行とか陸行とかって行程はどうでもいいのよ。だって当時の人の脚力や交通手段だってはっきりしていないもの。私は素戔嗚尊が高天原を追い出されて辿り着いたのが出雲だってことだから、日本の始まりは出雲なんだろうって考えただけなのよ」

「ええ、いい加減だな」

「いい加減? それを言うなら多くの歴史学者も同じだろう? 九州出身の学者は九州に邪馬台国がある、近畿出身の学者は畿内だって言う・・・」

「歴史学ってのは、少ない資料から推理したり憶測したり、一部の人間によって決めつけたりする危険な学問なんだよ。現存する資料だけで邪馬台国を比定するってのは無理なのさ」

「タイムマシンがあればね・・・」異能が呟いた。

つづく






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