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百物語1「山」

10年ほど前のことだ。

その日、僕は、奥秩父神流川まで釣りに出かけた。

秩父から長野の北相木村を結ぶ林道沿いにあるU村から少し上流に入ったUダムのさらに奥に入った神流川源流近くで半日釣りをしたが、小さな岩魚2匹しか釣れなかった。気がつくと周囲は薄暗くなっていたので、慌てて帰路につく準備を始めた。釣り竿をたたみ、渓流釣りのためのウェーダー(胴付き長靴)を脱いで、車の中に仕舞ってから周囲を見回すと真っ暗になっていた。静寂の中で渓流の音だけがこだましている。

山中の漆黒の闇に覆われて異世界に連れ込まれそうな恐怖感がわいてきた。急いで運転席に座るとキーを回してエンジンをかけて、暖気運転もせずにアクセルを踏んで車を走らせた。当時は中古の四駆に乗っていて、釣りのためにダートと呼ばれる未舗装の林道を走るのも楽しみのひとつだった。

現在は大半の林道は舗装されているようだが、当時は未舗装の砂利道だった。でこぼこになった道でタイヤがバウンドするたびにシートから腰が跳ね上がるのは、昭和40年代にほとんどの道路が未舗装であった子どもの頃を思い出して懐かしく感じたものだ。しかし、残念ながら、この道もキレイに舗装されていた。

源流から町へ下るまでの道には街灯もなく、この日、林道を走っているのは僕の車だけだった。

僕は夜の林道の怖さを知っている。車のライトを消せば漆黒の闇だ。一度、丹沢の林道で車が停まってしまったときは恐ろしかった。バッテリーがあがってしまったのだ。この時は偶然通りかかった車に救われた。突然、車が故障して停まってしまったら、夜が明けるまで闇の中で恐怖して過ごさなければならない。

暫く走ると、林道をたくさんの人たちがに下流にある集落に向かって歩いていた。幸いにも彼らは道の左右を歩いており、中央を空けてくれていたので車を走らせることができた。人々は老若男女さまざまで、顔はよく見えないが、子どもも交じっているようだった。不思議なことに暗闇を歩いているのに懐中電灯も持っていないようだった。

「上流で僕の知らない野外音楽イベントでもあったのだろうか? 暗闇の中を歩くのは危ないなぁ」そう呟きながら、車をゆっくりと走らせた。しかし、何人いるのだろう?少なくとも200人以上はいるようだ。野外フェスには皆、車で来るだろうから下流に大きな専用駐車場でもあるのだろう。

人の列は延々と続いている。僕はその間を遠目のヘッドライトで照らしながら、ゆっくりと車を走らせていくと、50メートルほど先で、人の列が途切れるようだった。

「こんな山の中で人を轢いたら大変だからな」ほっとため息をついた。

暫く走って、ようやく人の列が途切れたのでアクセルを少し強く踏みながらバックミラーを見た。漆黒の闇が人々を包んで見えなくなっていた。

それから林道を覆う長いトンネルを抜けて神流川の本流に出るとU村の集落が見えた。しばらく神流川に沿って車を走らせてガソリンスタンドで燃料補給をすることにした。車を停めると若い男性が出てきた。

「満タンでお願いします。あ、トイレ貸して下さいね」
「はい。トイレは建物の右側にあります」
「ありがとうございます」

トイレから戻って運転席に戻る際、給油してくれている男性に声をかけた。

「今日は上流で野外フェスでもあったんですか?」と聞くと、「いや、今日は何もありませんよ。というか、この村で野外フェスなんて1度もやったことがないですよ」と言った。

「え、さっき、Uダムからの林道を、もの凄い数の人たちが歩いていましたよ。Uダムの“放流イベント”かもしれないなぁ」と言うと、若い男性は「今日はやっていませんよ。それはねお客さん…」口ごもった。
「何か別なイベントがあったんですか?」
「あの人たちは毎日山から歩いておりてくるんですよ」
「奇妙なイベントですね」
男性は給油を終えて車の給油カバーを閉めてから「違いますよ。お客さん、O山の航空機事故知ってるでしょ?」と言った。
「はい」
「その人たちは、事故で亡くなられた人たちなんですよ」


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