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不毛の戦争「母の命」

僕の母は昭和5年(1930)に岩手県の一関市という街に生まれました。学校をまともに行けなかったことを悔やんでいるのか「あだしはバカだから…」というのが口癖でした。息子の僕が勉強嫌いで、小学校の時から0点ばかりとっていたので「あんたはあだしの血を受け継いでいるんだよ」と嬉しそうに笑っていました。劣等生の仲間意識だったのでしょうかね。

母は、終戦間近の昭和20年に一関駅で電話交換手の仕事をしていました。ある日、米軍の空襲を受けました。米軍の空襲は都市圏だけと思いがちですが、「地図で読む世界の歴史 第二次世界大戦」(河出書房新社)を見ると、都市圏の空襲を終えたあとに、おまけのように地方の街を空爆することもあったようです。米軍第38機動部隊や第58機動部隊が、西日本から列島を縦断して遠く青森、北海道までに空襲を行いました。

空襲警報が鳴って母たちは防空壕に走って逃げました。ところが、その防空壕が爆弾の直撃を受けたのです。爆撃機が去ったあと、しばらくして母が立ち上がろうとすると、男性が自分に覆い被さっていることに気がつきました。「ああ、可哀想に…」という声で母は何が起こったのかがわかりました。男性は死んでいました。その男性が母を守ってくれたのでした。

一関空襲に関する書籍がないのでインターネット上の「都市空襲」というサイトを参照しました。そこには一関空襲も掲載されており、「昭和20年8月10日の午前、一関市は米艦載機による空襲を受け、国鉄一関駅から駅南部にかけて32発の爆弾が投下され、さらに機銃掃射が加えられた」と記載されていました。

駅構内の貨物線防空壕に爆弾が直撃して駅員25名が死亡、そのほとんどが14歳から20歳までの少年鉄道員でした。駅の北西にあった山目国民学校には2発の爆弾が投下されて3名が死亡、駅前交番、市街地でも死者を出し、駅周辺では合わせて34名が犠牲になりました。母は、直撃を受けた貨物線防空壕に逃げたのだと思います。身を挺して母を守ってくれた男性に感謝しています。ありがとうございました。

母は、いつも笑っている印象があるような明るい人でした。父の死後も明るく生きて、2015年1月19日に亡くなりました。


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