知波万景「カルチャースクールにて」
「船橋の太宰治」
昨日は、カルチャースクールで“千葉と作家”第二弾「船橋の太宰治」を解説させていただきました。2週間かけて作った太宰治の資料を元に紹介したのですが、進行台本を作っていなかったので、またまた支離滅裂な解説になってしまったのでした。
太宰治は昭和10年から翌11年まで船橋に住んでいました。その時代の船橋は遠浅の海が美しい避暑地だったのです。ですから太宰は盲腸炎をこじらせたせいで、手術後に痛み止めとしてパピナール注射を打ち続け、抑制できなくなっていました、船橋時代には日に50本も打っていたそうで、内妻の小山初代や太宰家の番頭が「このままでは破滅だ」と、太宰の師である井伏鱒二に相談して武蔵野病院に強制入院させることになったのです。
パピナール(オキシコドン)は、オピオイド系の鎮痛剤のひとつです。アヘンに含まれるアルカロイドのテバインから合成される半合成麻薬だそうです。当時の所謂麻薬は、違法ではなく、漫画家の水木しげるさんも同様な麻薬ヒロポンを打ったことがあるようで、自伝漫画に描かれています。水木さんはすぐやめられたようですが、太宰はダメだったのです。
船橋時代の太宰は「ダス・ゲマイネ」「めくら草紙」「道化の華」「玩具」「雀こ」「猿ヶ島」「地球図」「もの思う葦」を書き、「晩年」を出版します。また第一回芥川賞候補になりますが落選しています。
船橋時代の太宰の話をしてから、彼の周辺女性達について紹介しました。小山初代、田部シメ子、津島美知子、津島佑子、太田静子、太田治子、山崎富栄(敬称略)の話です。
ひととおり太宰の女性観を説明したあとに、受講生さんたちに太宰治の人間性をどう考えるかを訪ねたのです。昔と今では「モラル・理性・抑制」感が異なりますが、受講生さんたちとしては、当たり前の人間として太宰は「人間失格」ということらしいです。
スクールの限られた時間内で、紹介し忘れたことがいくつかあります。ひとつは井伏鱒二と奧さんの節代さんのお話です。
井伏鱒二の奧さん井伏節代さんが、井伏鱒二の著作「太宰治」(中公文庫)の巻末インタビューで以下のように語っています。
「船橋町のお宅には私も一度訪ね、一泊したことがあります。朝、庭先に職人風のおじさんがやって来て、シャベルで庭の土を掘り出しているような埋めているようなことをしているんです。何しているのかしらと見ると、ザラザラと音がして、空瓶やカプセルが砕かれているのが見えた。パピナールのカプセルだったんですね。注射の数は多いときで、一日に五十数本になるというんです。注射をうつのを初代さんも手伝わさせられる。もう自分の力ではとてもやめさせることはできないので、井伏さんから入院するように説得してほしいと、初代さんが相談にみえた。それで井伏が説得役になり、武蔵野病院にとにかく入院させたんです…」
井伏鱒二が説得してすんなりと病院に入院したような印象がありますが…。
井伏鱒二自身は、同書で以下のように書いています。
「五反田下大崎の北芳四郎氏、青森の中畑慶吉氏、ならびに初代さんの三人同道にて来訪。太宰入院するように小生(井伏のこと)に説得役を依頼す。小生、固持すれども、三人、口をそろえて頼む頼むと云う。さらば船橋町居住の太宰宅を訪ねたり。
太宰と文学を語り、かつ将棋をさし、彼の様子をうかがうに、小生説得役にて訪ねたるものとは気のつかざる気配なり。太宰、ときどき座を立ちて注射に行く。小生、ついに云い出しかねて太宰宅に泊まる…」
井伏鱒二さんは水木しげるさんにボンヤリとした感じが何となく似ています。一泊するものの井伏自身からは遂に言い出せないのです。翌日、井伏に失望した中畑慶吉が太宰に「入院話」を切り出すのです。その後、多分、全員が絡むドタバタののちに車で船橋から東京の病院に向うのです。
井伏鱒二も太宰治も、結局はダメダメなのです。
「人間失格」
太宰治というのは悪人だと思うのです。韓国ドラマであれば、悪党な財閥の御曹司でしょうね。我が儘放題に、周りにもチヤホヤされて育ったゆえに人としての“マトモさ”はなく、冷酷な奴で親の傘を着て凶悪犯罪に手を染めるような奴です。
そんなに冷酷非情な奴ではない? 太宰の印象ですね? 確かにそんな印象はありませんが…。それが太宰の上手なところです。
太宰の父は津軽の大地主で、多額納税者ゆえに衆議院議員、貴族院議員(今の参議院議員です)を務めた人です。そんな家庭で育った太宰がマトモに育つはずがありません。
太宰は東京に出てきても勉強そっちのけで、当時流行していた左翼運動にも関わって(当時の若者の多くが同じでしたが)つまらない生き方をしていたように思います。東京に出てきても世話をする番頭のような人もいましたし、御曹司で、作家志望だという彼のそばには絶えず取り巻き連中がいたそうです。
衣食住、困ることはありません。青森から馴染みの女性(のちの入籍はしませんが奧さんになる人)を東京まで連れてきて同棲していながら、カフェの女給さんと鎌倉と江ノ島の間の腰越海岸で心中するのです。しかし、ご承知のように太宰だけ助かってしまうのです。カルモチン経験者の彼はある程度の薬に対する耐性を持っているので死なないのです。心中をそそのかし、自分だけ生き残るというのは立派な殺人です。しかし、津軽の名士の息子であり、現地の刑事にも父の知人がいたことから不起訴になるのです。
そのあとに海岸べりの病院に入院したときのことも、まるで他人事のようにおどけた調子で「道化の華」としてまとめ、それも他の作品と一緒にして、船橋時代に「晩年」という本として出版するのです。
尋常であれば侮蔑され、誰にも相手にされないところですが、太宰は、人たらしです。文章でも己の愚かさを売りにすることで人の反感を緩和させる力があるのでしょう。文章力がなければ、ただの犯罪者です。
悪口ばかり書いてきましたが、実は僕も若い頃に彼に憧れていたことがあるんです。「晩年」1冊読んだだけでですよ。当時は神奈川県に住んでいましたから、彼の足跡を追って、腰越海岸に行ってみたり、鎌倉の林の中を歩いたり、ひとりで東北地方を旅行した際にも、彼の故郷の金木まで行って、斜陽館や彼が子どもの頃に恐怖した「地獄絵」がある寺を訪ねて、絵(写真でしたが)も見せてもらったりしています。
それに、若い頃の僕は太宰まではいきませんが、まあまあ悪人でした。酷い奴でした。彼を見習ったわけではないのですが、元々、悪人の素地があったのでしょうね。人殺しはしませんし、死のうとしたこともありませんし、麻薬もやったことはありません。ただ、女性に関しては少し酷いことをしていました。困ったことに、その頃には罪の意識がなかったのです。若気の至りなんて言い訳は通じません。ただの愚か者です。
現在になって、やっと、あの頃の僕を恥じることができます。人間失格です。ただ…僕にも太宰のような文才があり、人たらしの才能があれば、作家にでもなれたかもしれませんね。
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