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人は何故嫉妬してしまうのだろうか。そして比較をしない事は良い事なのだろうか

前置き

質問が着ておりました。僕の身の丈には到底合わない複雑で難しい質問ではあります。「ああわかるなぁ」と思い出しながら眺めておりました。
せっかく頂いて嬉しかったので、ずっと大も小も色々悩み続けてきた現時点での僕の考えを書いていきますので、何かしら得るものがあれば幸いです。

本noteは二部構成です。
・人はなぜ嫉妬するのか。
・比較は良い事なのだろうか。

まずは結論から述べて参ります。

結論、
人は生まれながらにして価値の世界に住む
価値や比較の世界で嫉妬を抱えないものはいない。

比較が良いかどうかでは答えはでない。
何と比較し、何を大切にしているのか
それによって答えが産まれる。

なぜ人は嫉妬してしまうのだろうか。

ある問題を解決する時、まずこの問題はなぜ発生しているのかを考える必要があると考えています。

つまりは“そもそも論”というやつです。
これの困った所はそもそも論というのは大方今更どうしようもない問題である事が多く、言っても仕方のない事ばかりですよね。
そもそも論ばかりの友人や恋人に困ってしまった方は多いのではないでしょうか?確かにその問題に関してはどうしようもないかもしれませんが、再発防止をするには注目せざる負えない事でしょう。

では、この嫉妬を抱えてしまう問題のそもそも論を話しましょう。
それはつまり我々は何なのかという事です。

■そもそも論人とは何なのだろうか。
こう問いかけられた時、貴方はどう感じるでしょうか。

哲学的に感じていたのであればきっとあなたは文学がお好きなのでしょう。
私自身も勿論大好きなのですが、今回はもっと生物的に考えてみましょう。つまりは私達はホモサピエンスであるという事です。

何をいまさらとピンとこないのは、今は人=ホモサピエンスしかしないからであり実は過去に人間と呼ばれるに相応しい生き物は沢山存在してきました。一応URL貼っておきます。

ホモサピエンスの特性を簡単に要約すると以下二点です。

■嗅覚が鋭く異物にすぐ気づく
■故郷愛や宗教などの実体として存在しない虚構を生み出すことができる。
参考:サピエンス全史

つまり
“自分たちと同じではないものに対する恐怖”という原動力を持って
家族や宗教という虚構を作り出す事で、文字通り死ぬほどの努力を可能にし
狩猟から農耕へ移行し、お金という共通価値を生み出し、国という国境すら引けないようなボヤけた物すらも存在可能にし、やがて地球だけではなく宇宙にも飛び出さんとしています。

嫉妬とは大方これらの特徴の副産物なのではないでしょうか。
つまりは、嫉妬とは僕らが生み出した虚構の副産物の一つである
“指標なき評価”ではないだろうかと思うに至ります。

指標なき評価世界
思えばこれまでの僕らの人生の中で
評価が存在しないのは誕生するまでではないだろうか。

貴方の名前の由来はなんでしょうか?
一度思い出してみるか、今度聞いてみてください。
私たちは、その名前を持って生まれます。
その名前の意味はきっと画数や漢字の持つ意味を考え抜いて付けられた素敵なものでしょう。つまりその名前には「こういう風に生きて行ってほしい」という両親からの私たちの人生の“正解”が包まれています。
貴方が何かをしたとき、両親の価値基準を元に、それらは評価されていくでしょう。
「あの家の子は○○が出来て、うちの子は○○が出来ない。」
と思えば、「他所は他所でうちはうち。」と言われたことがある方も多いでしょう。
つまり、僕らは生まれた瞬間から評価の世界に置かれるわけです。
それは地獄のように感じる事もあれば、自分に期待してくれているというある種天国に変わる事もあると思います。
大事にしている評価の基準はそれぞれで異なりますが、私たちにとって評価というのは生まれてから死ぬまで関り続ける非常に重要で切っても切れない関係のものであると考えます。

ですがその評価の多くは、数値化されているわけでも全人類共通の評価である訳でもない“あやふや”なものが多いのも事実です。

嫉妬というのは何なのだろうか。

嫉妬とは、このあやふやな評価によって引きおこります。嫉妬のメカニズムを順に文を起こすなら、以下の通りでしょう。

数値化や共通の基準に出来ないもの事で自分と誰かを比べ評価が発生→その結果が芳しくない→途端に自分の“価値”が下がった気がする。

順位や、ランキング、偏差値やIQ、家族や仲間内での評価。
様々な評価の世界にいる私達は、知らず知らずの内に自分の価値観にも評価の世界が入ってくるのでしょう。

自分が持っていない個性を持つ人に出会った時
新たな評価の基準が心に芽生え
持たざる自分の評価が相対的に下がったと感じ
貪欲なまでにその落ちた分の価値をすくい上げようとする。

それはきっと他者を呼ぶときに現れるでしょう。

異性に好かれる仕草をする彼女を「ぶりっ子」と呼ぶかもしれませんし、
自分のお金を大切に使っている彼を「守銭奴」と呼ぶかもしれませんし、
自由に行動できる彼を「ADHD」と呼ぶかもしれませんし、
皆に愛されて、輝いているvtuberを「絵」と呼ぶ場合。

つまり、その評価の基準を否定する事で、己の価値を元に戻す心情です。
もしくは、行動に現れるかもしれません。

あいつを超えてやると奮起してこれまでの努力を更に積み上げたり、
私もやってみようとまずは見真似でやってみたりする場合。

つまり、己の中で芽生えた新しい評価の基準をまず受け入れて、己の評価を元に戻す心情です。

もしくは、ただもやもやと忘れるまで頭に引っかかって自信が無くなることもありますよ。

相手を否定するものでもなく、かといって自分が率先して改善して努力したい事でもない時場合。

つまり、己はそもそもそれほど価値が無かったのだと評価を下げて合わせる心情です。

つまり、嫉妬というのは自分の保身の気持ちを表しているわけです。
下がれば下がるだけ自分が拒絶されたと感じ、
そもそもその評価を否定するか、己の評価を上げるべく努力をするか、己の評価をより低かったと敢えて下げる事で合わせないと生きていけない人は多数を占めるでしょう。

嫉妬は原動力である。
他者否定も
自己成長も
自己嫌悪をも滾らせうる貪欲な燃料である

それが保身である事には変わりないが
もたらす行動と結果は何もかも違う。

という事で、評価され続ける社会である惑星人間号の私たちは、嫉妬を大小抱え続ける為、無くなる事はほぼありません。
しかしそれらに対して、良いか悪いかは貴方の中に存在する曖昧で明瞭な価値基準こそが最も正しいと信じています。

比較しない事は良い事なのか。

比較しないようにすることが良いかどうかという話であれば、答えはあなた次第なのですが、まず前提として比較には二つの見方が出来ます。
・競争社会を生きない。
・競争社会で生きる。
比較しないようにするという事は、極論すれば、受験もするべきではないですしテストも受けるべきではありません。洋服も選ぶことはないでしょう。
しかし、それはやりすぎであると感じるのであればきっとあなたが“良いかどうか”で悩んでいる所は比較しないようにすることではないのかもしれません。

僕は貴方と話したことはありませんのでそれが何なのかについては語る事が出来ませんが、何故比較しないようにしているのかについて今一度向き合い、自分の価値観と合わせてみると答えが出てくるでしょう。

参考までに、僕自身は比較をし続けています。誰であれ何であれ猛烈な先入観でものを見て、そして違えば厚顔無恥に修正していきます。

「僕とこの人は何が違うのだろうか」
「何が違うせいで、これについて悩んでいるんだろう」
「僕が寄り添える同じ場所はどこだろう」

これは相手が悩んでいる事の本質を考えて自分事に落とし込めるので一個一個の問題にずっと丁寧に考える事が出来ます。
これは赤裸々に言えば、他で嫉妬を感じた時に僕はずっと自分の価値を下げて合わせていた分、他者や物事をより理解する事で、自分の中の価値を上げようとしているのでしょう。
僕が気を付けるべきことがこれで浮かび上がります。
“自分の中で勝手に上がった価値を評価するために、自分より理解していないと僕が勝手に判断した人にマウントする事”です。

つまり僕は比較をしていますが、悪いと思う事も良いと思う事もあります。

評価や価値は、上があり下が無いと成り立たない以上見下げる必然も生まれます。比較しない事が良い事であれば、比較する人物は悪くなければなりません。

評価や価値はコインの裏表であり常に良い面と悪い面を持ち合わせます。
ですので貴方が自分の価値観と合わせて考えていき行き詰ったとき
貴方がどんな時に誰に何をマウントしているかを思い返して見て下さい。
それがあなたが大切にしている価値基準であり“正しい事”です。
もし比較する事が良い事なのか悪い事なのかが分かったらまたこっそりマシュマロで教えてください。

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