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化粧と和解するか、否か。

 化粧が嫌いだ。もう本当に、めちゃくちゃに嫌いだ。なので日常生活ではほとんど化粧をしない。できればこの土俵から完全に降りたいとすら思っている。
 手順に蒙昧であり出来が悪いからというだけでなく、化粧をしたあとの顔面に纏わりつくなんとも心地悪いあのもったりした感触、そして「化粧が崩れるので顔に触れられない」というプレッシャーが耐え難いのである。
 いや、それは私が底値のドラストコスメ(中には百均の物すらある)、しかも自分の肌に合うのか合わないのかも知れぬものを使用しているからだ。というご指摘もあろう。私のメイクポーチの中身はほぼ二十代の頃のままタイムカプセルと化しており、十年は昔のリップ? 口紅? を未だに使用している。
 しかし、私に化粧品を選別しまともに「化粧」という行為と向き合う気概があったならばそもそもこんな散文を書き散らしていない。

 ちなみに私の素顔や素肌は、自己評価ではあるが年相応で並より少し下だ。自分で見ていられないほど酷いわけではないが、お世辞にも美しいとは口が裂けても言えない。肌にはニキビ跡がぽつぽつとあり、額が広く目は小さく平べったい一重で歯並びが悪い。化粧を施してみても然して変わらぬ。そこには「化粧をした人」というラベルの付いた私がいるのみ。
 私が化粧をする理由は単に、渋々、TPOに合わせて、ということのみに尽きる。「化粧をした人」というラベルは、鬱陶しいが今の世にあって必要な場は存在するからだ。しかしその私の思うTPOの中に「職場」は含まれていないことからも私が化粧をして行く場がものすごく限られていることをお察しいただきたい。

 私は高校を出たあと夜学へ進学し昼間は働いていたが、幸運にもノーメイクが許される場であった。というか、大学生の間は様々なアルバイトをしたが化粧が求められるバイトはそれに耐えきれずすぐに辞めてしまったのである。
 また大学では就職活動を行わなかったので、そこでのメイクに困らなかったのも幸運の一つであったかも知れない。というより私の性格上、ノーメイクが許される場を選んで進み生きてきたように思う。現に直近の職場も完全在宅の、化粧の有無は問題にならない会社を選んでいた。
 よって、私には「化粧をしなければならない社会での生き辛さ」を語る資格は無かろう。なぜならば「生き辛さ」と共に「化粧をする」という行為も極力捨ててきたし、これからもそのように生きて行くだろうと推察されるからだ。
 無論、同じように「化粧が嫌いだ」という女性の社会での生き辛さや、化粧を極度にマナーとして求める社会の変革には連帯していきたいが。

 このように私は化粧をそれはもう蛇蝎の如く毛嫌いしているが、翻って洋服は好きだ。特にエスニック系や中華系の衣服を好むが、和服も少し嗜む。アクセサリーも好きだ。ピアスやブレスレット、指輪などはたまに自作したりもする。
 が、ここで問題になるのがまた化粧である。
 化粧をせねばどんな服やアクセサリーで着飾ろうとも、どうにも全体が締まらないのだ。なのでたまに着飾って(もしくはフォーマルな服装で)出掛ける際などは、これまた渋々、化粧に取り掛かる。つまり化粧から完全に「降りる」ためには着道楽からも「降りる」必要があるというわけだ。

 そう。これだけ忌み嫌っている化粧であるが、なんということであろう、俄に信じ難いが、これは私にとってほぼ「道楽」なのである。こんなに面倒で心地が悪く精神衛生にも悪影響しか及ぼさぬ道楽があるだろうか? 憎い。化粧が憎すぎる。

 化粧から「降りる」か、着道楽から「降りる」か。難しい問題だ。
 着道楽は私のアイデンティティの一つであり、それによる「変わった人」というラベルが辛うじて私を社会的動物たらしめている節がある。性格上、そしてADHDという発達の特性上、私は外見や装いをして「変わった人」というラベルを纏わなければ、言い換えるならば「普通の人」と思われると、何かと不都合なことが多いのだ。
 発達障害による不都合の解消ないし回避方法は千差万別であろうと思うが、私の場合は装いに占める部分が小さくない。
 人の外見、装い。即ち第一印象はコミュニケーションの一丁目一番地。私は言ってみればその「変わった人」のラベルでもって初手から「この人物ははみ出し者である」「細かな常識の通用しない人物である」という人物造形をアピールし(実際、三十八の歳を数えた今でも私は自分が常識を備えているだとか相応に場の機微を察知できる人間だとは思っていない)世にある程度の目溢しを頂きながら生きている自覚がある。これは私が人生をかけて編み出してきたライフハックの一つだ。

 で、あるならば。いっそ化粧も着道楽も辞め、今よりもっと「変わった人」として装うか。これもやや厳しい。
 前述したが私の素顔や素肌は「並より少し下」である。体型も加味すると評価はもっと下がる。
 その上で着道楽と化粧から降りてしまうと、なんというか、並々ならぬ不審者感が出てしまわないか? と懸念が過ぎるのである。要は信用問題に関わる。上記したライフハックにも限度というものがあって、それはあくまで「好きでやっているこの人なりのポリシー」という印象の範囲内でなければならず、その範囲を逸脱すると一気に不審者と化すのだ。
 人は意図の察せられぬものに違和感を覚え、時に恐れる。そういう意味では、化粧をしない意図が解らない人にとって、ノーメイクで病院やら職安やらをうろつく私は既に不審者であろう。(なのでマスクをして行く。衛生面からの意味も兼ね)
 私は化粧をしたくないのであって、周囲の人に違和感や警戒心、不快感を与えたいわけではない。要はそれが「TPO」ということなのであろうと理解しているが、それにしても化粧との和解は困難を極める。

 こうして書き出してみると、意外と私も「化粧」をめぐる社会の空気を読もうと苦心しながら生きていて、なおかつその空気に迎合できずに悩んでいるなあと感じさせられる。自分はもっと世捨て人だと思っていたのに。前言撤回。私にも「化粧をしなければならない社会での生き辛さ」を語る資格はある。

 化粧と和解するか、否か。苦渋の決断ができない。
 なのでしようがなく、渋々、TPOに怯えて私は化粧道具を手に取る。

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